カイロリ
二〇〇五年二月二十五日、ピエトロ・カイロリがミラノのオクタヴィアを訪れた。
ロメオの母オクタヴィアは小柄ながら往年の大女優クラウディア・カルティナーレを髣髴させる面差しの美しい女性である。中学校の数学教師であるオクタヴィアは美貌だけでなく教養と知性にも恵まれた女性であったが、内気で社交嫌いな性格から、離婚後はずっと独りであった。そのためか常に物憂げな悲しげな雰囲気が付きまとっていた。
オクタヴィアは大きな黒い瞳に半ば怯えたような表情を浮かべてカイロリを迎えた。カイロリは八十歳を軽く越えている年配の老人で、ずんぐりと太った大きな身体に満月のように丸い赤ら顔の紳士だった。
当初、オクタヴィア、ロメオ母子は、この老紳士を裁判所から派遣されてきた人間だと信じていた。というのも、カイロリはその真の素性をなかなか明らかにせず、常に公証人である彼の妻の肩書きを実に巧妙に隠れ蓑にしていたからだ。世間知らずなオクタヴィアは公証人である妻の代理でやって来たと言う、この身なりの正しい愛想のいい老人を少しも疑わなかった。私達がこの謎の紳士の真の素性を知ったのはずっと後のことである。
「ロレンツォ氏は昨年の秋ぐらいから突然衰弱しましてね。入院先の病院で亡くなったそうですよ」
カイロリは丸々と太った身体をゆすりながら、オクタヴィアにそう報告した。
「夏の終わりにわたし達に会いに来たいと電話してきたんです。その後、全然連絡がないので電話して会いに行くと何度も言ったのに、来るな、来るな、こちらから連絡するからの一点張りで――」
オクタヴィアは声を詰まらせた。
「お気持ちはお察しします。アンジェリ氏は昨年の夏ぐらいから誰にも会いたがらず、身体も洗わず、食事も摂らずに独りきりで家に篭っていたようです。入院してからも、もはや生きる気力がなく、最後は人生に疲れ切って亡くなったようなものですよ」
オクタヴィアはたまらず嗚咽した。ロメオは涙こそ流さなかったが黒い瞳に深い悲しみを湛え、母の手を握った。カイロリはいかにも同情するように目を細めながら続けた。
「アンジェリ氏とは生前何度がお会いしましたが、非常に信仰心の厚い慈悲深い人ですね。彼の所有するアパートメントのほとんどを貧しい老人や身体が不自由な人にたた同然で貸していたそうです。動物が好きで市が運営する犬の飼育所に寄付も行っていたそうです」
「ロレンツォはお金には全く興味のない人でした。それどころか自分が生まれながら裕福であることを恥じて、罪の意識すら持っていたのです。だから人目に付かない様にひっそり隠れるように暮らしていました」
オクタヴィアは声を震わせた。
「アンジェリ氏にはアンジョーニと言う専属の会計士がいたのですがね。ロレンツォ・アンジェリ氏は未婚で子供や兄弟など近い親戚がいなかったので、彼の死後、遺産に関する全ての書類を裁判所に提出したんですよ。裁判所はまず遺言状がないかボローニャ中の公証人事務所に問い合わせましたが見つかりませんでした。それで家系図を遡って法定相続人を探したわけなんですよ」
カイロリは額の汗をハンカチで拭いながら熱心な口調で言うと、革の書類鞄から家系図のコピーを取り出して広げた。
「アンジェリ氏が亡くなった十一月九日の時点で一番近い親族は五親等の奥さん、貴女と同じく五親等のオルガ・メンギーニです」
カイロリは家系図の中のオクタヴィア・セーラの名前とロレンツォの曽祖父の孫で同じく五親等にあたるオルガ・メンギーニを示した。
「オルガ・メンギーニはロレンツォ・アンジェリ氏が亡くなった二十日後に亡くなりましたので、オルガ・メンギーニの相続分は彼女の親族の間で分割されます。オルガの息子は既に死亡していますが、彼女の兄弟の子息、つまり姪と甥が六人います。従ってアンジェリ氏の遺産は五十パーセントが奥さんに、残りの五十パーセントがオルガの法定相続人である彼等によって相続されるわけです」
家系図にはオルガ・メンギーニの下にジルダ・メンギーニ、レオナルド・メンギーニ、クラウディオ・メンギーニ、イザベラ・ピッコリ、ミケーレ・オルシーニ、リディア・オルシーニの名前が読み取れる。メンギーニ一族はボローニャに幾つも不動産を持つ資産家でロレンツォやロメオの祖母レーアとは異なり、欲の権化のような一族で、レーアは彼等を忌み嫌っていた。
「オクタヴィアさん、ジルダ・メンギーニ夫人をご存知ですか?」
ふと、カイロリが訊ねた。
「ええ、勿論知っていますわ。会ったこともあります」
「ふむ、それは変ですね」
「なぜですの?」
「いやね、私が最初に会った相続人がジルダ夫人だったんです。それでオクタヴィア・セーラさんを知っているかと訊ねたところ、会ったことはないし、確かアフリカに住んでいるはずだと答えたんですよ」
オクタヴィアが父親の仕事の関係で少女時代をアフリカのコンゴで過ごしたのは事実である。しかし六十年代に勃発した内乱を期に、一家でイタリアに帰国している。
「まあ、そんなはずはありませんわ」
オクタヴィアは心から驚いたように言った。
「ジルダとは確かに以前会ったことがあります」
オクタヴィアは本棚から古いアルバムを引っ張り出すと、セピア色に変色した一枚の写真を見せた。そこには若かりし頃のオクタヴィアと一人の中年婦人が写っていた。
「この人がジルダです」
オクタヴィアは中年婦人を指した。
「お分かりでしょう。もうだいぶ昔のことですが、ジルダはわたしを覚えているはずですわ」
カイロリは写真を見つめると何か思案するように黙り込んだ。
「分かりました」
カイロリは沈黙の後、再び口を開いた。
「この件は私にお任せ下さい。奥さんからはジルダ夫人に連絡しないようにして下さい。私に考えがありますから」
更にカイロリは十一月にロレンツォが亡くなった際、相続人がすぐに見つからなかったので、現在、彼の財産は裁判所に指名された財産管理人が一時的に管理していることを告げた。そして次はボローニャで会いましょうと言うと慇懃に挨拶し、ボローニャに戻っていった。