ヴィラ・マルヴァジア
ロメオがボローニャ郊外にある屋敷を見せてくれることになった。
九月も中旬に差し掛かった土曜日のことである。
「このヴィラはマルヴァジア荘と言って、十六世紀後半にカルロ・チェーザレ・マルヴァジア伯爵が自らの居館として建てたんだ」
車を走らせながらロメオが説明する。
ボローニャの市街からザナルディ通りを北上して行くと、道沿いの建物が徐々に小振りになり、建物の間隔が次第に広くなっていく。家並みが途切れてから田園の中を数百メートル進むと右側にヴィラが姿を現した。
城壁のように厳しい煉瓦造りの壁の中央に重々しい門柱が聳え、門扉の鉄格子の間から廃墟と化したヴィラの建物が見えた。
鉄格子には大きな錠前の付いた頑丈な鎖が巻かれ、『立入禁止。崩壊の危険あり』と書かれた札が下がっていた。
「わあ――すごい!」
私は鉄格子の隙間から中を覗き込んだ。鬱蒼と茂った草木が荒寥とした建物の一階をすっぽりと覆い隠し、そこだけ外界から完全に遮断されたような幽寂さに包まれていた。
ヴィラの正面は簡素ながら優雅な造りだったが、飾り柱に挟まれたサーモン色の壁装は朽ち落ち、所々に深い亀裂が走っていた。
数分後にレオナルド・メンギーニが娘と共に車で到着した。
遺産相続受諾書に早々と署名したレオナルドは、マテオッティに代わってアンジェリ家の物件を管理していた。
レオナルドは蛙のような顔立ちをした六十代の男性で、間隔の離れた明るいブルーの瞳が強烈な印象を与えた。
「やあ、オクタヴィア。やっと会えて嬉しいよ」
レオナルドはギョロっとした目を剥くようにして私達を睨んだ。
「君がロメオ君だね。いい青年に成長したじゃないか」
レオナルドはロメオの肩をたたいた。
レオナルドの娘エリーザは不幸なことに父親にそっくりだった。
レオナルドは鎖に付いた錠前を外して門扉を開けた。
「ここはもう長い間、放置されているからね。勝手に中に入る連中が絶えなかったんだ。数年前まで黒ミサの集会に使われていたそうだよ。つい最近まで浮浪者が入り込んで寝泊りしていたんで、こうやって厳重に鍵を掛けたんだ」
門の右側には数世紀の歴史を感じさせる老樫が門柱にしだれかかるように長い梢を伸ばしている。
巨木の太い根に押し上げられ、深い亀裂が走る煉瓦の塀が木の幹に寄りかかり、かろうじて平衡を保っていた。
「まるで眠りの森の美女の世界ね」
私は恍惚としながらロメオに囁いた。
庭の一方に聳える老木はおそらく何十年も昔に枯れてしまったのだろう。
白く乾いた白骨のような枝がくねくねと波打ちながら太い幹に覆い被さるようにしがみついている。
私達はジャングルのように生い茂った草木を掻き分けながら何とか建物の入口に辿り着いた。
アーチ型の入口には侵入者を防ぐために最近取り付けられたらしい重い鉄の扉が、そこだけ異物のように冷たく光っていた。
屋敷の中に足を踏み入れた私はそのあまりの美しさに息を呑んだ。
入口の開廊の天井には簡素な外装からは想像もつかないような鮮やかで華麗なフレスコ画が一面に描かれていた。
それは廃墟の中にあっても燦然と咲き誇る大輪の薔薇のような眩しさで私の心を一瞬のうちに虜にした。
横長に伸びた開廊の天井は三区分され、それぞれにモチーフの異なるフレスコ画が描かれていた。三つのフレスコ画はいずれも鮮やかな紺碧の天空を背景に、プット達に囲まれた女神、昇天する女神、天使に囲まれた男神が描かれ、額縁のように各場面を囲んでいるダイナミックな短縮遠近法を用いた建築要素が、天空が遥か上方に広がっているような視覚効果を与えていた。
すっかり色あせた赤い壁は一面に落書きがされ、モザイク張りの床には板や瓦礫が散らばっていたが、天井のフレスコ画だけが何世紀もの時を経て尚、かつての絢爛さを全く失うことなく、眩しいまでの輝きを放っていた。
「何て素晴らしい!
こんな美しいフレスコ画があるなんて――」
私はただその美しさに感動し、ひたすら天井画に見とれた。
「カルロ・チェーザレ・マルヴァジアはボローニャ派の擁護者だったから、自らの住居の建築に際して、当時を代表するボローニャ派の芸術家達を集めて天井にフレスコ画を描かせたんだ」
ロメオは説明した。
私はバッグからカメラを取り出して写真を撮ろうとした。
「ちょっと、君」
レオナルド・メンギーニの鋭い声が飛んだ。
「写真は絶対にだめだよ」
「どうしてだよ?」
ロメオが挑むように聞き返した。
「このヴィラは文化財保護局の保護指定建築物なんだ。もしこんなに荒廃したヴィラの写真が文化財保護局に流れでもしたら、修復工事を強制する通告が来てしまうからね。遺産分割も済んでないのに何百万ユーロする修復を強要されたらたまらない」
「僕達は別に保護局に写真を送ったりしませんよ」
ロメオがきっとなって言い返した。
「どうかな。君のお母さんはまだ相続受諾に署名していないからね。もし修復工事をしなければならない事にでもなったら、相続を受諾した私が全ての費用と責任を負う羽目になる。君達が嫌がらせで写真を保護局に送らないとも限らないからな」
「レオナルド、わたし達がそんなことをする訳ないじゃないですか」
オクタヴィアがなかば呆れたように反論した。
「じゃあ早く相続受諾の署名をしに行くんだな」
レオナルドは皮肉を込めて言った。
「何て奴だ」
ロメオははき捨てるように言った。
「いいよ。あとで奴の目を盗んで写真を撮ろう。あんな奴にあれこれ指図される筋合いはないよ」
ロメオは慰めるように私に言った。
ヴィラの一階は入口からTの字に展開した開廊をベースに小部屋や広間が繋がっていた。
どの空間の天井も華美なフレスコ画で装飾されていたが、壁は落書きだらけだった。
「ひどい事をするのね」
私は一面の落書きを見ながら憤った。
「このヴィラは芸術作品よ。こんな落書きをするなんて」
「フレスコ画の価値が分からない無教養な連中がこんなことをするんだよ」
ロメオは溜息をついた。
「でもフレスコ画は全て天井に描かれていたから無傷だったんだ」
私達はヴィラの東側にある大広間に入った。
かつて迎賓の間だったらしい大広間の中央には豪奢なレリーフで装飾された大暖炉があり、その上の壁面は騎士達の戦いを描いたテンペラ画で装飾されていた。
『大暖炉の間』はモザイク床の他の部屋と違って寄木張りの床だったが、寄木の真ん中の部分が剥ぎ取られて穴だらけだった。
「ここはもともとクルミ材の寄木張りだったんだけど、ここに住み着いていた浮浪者達が床の寄木を薪代わりにして暖炉にくべていたらしい」
ロメオがぽっかり穴のあいた床を靴先でつついた。
「そういえば、扉が一枚もないわね。きっと盗まれてしまったのね」
「本当だ。古いヴィラの扉には骨董品としての価値があるからね」
『大暖炉の間』にもアーキヴォールトで華麗に装飾された三つの入口があったが、扉はなかった。
暖炉のテンペラ画は金箔を塗った漆喰の豪奢な枠で縁取られていて、天辺に翼の生えたドラゴンの紋章が掲げられていた。
「枠の上に紋章が見えるだろう?
あれは教皇グレゴリオ十三世の紋章だ。つまり、グレゴリオ十三世がここに客人として滞在していたことを意味しているんだよ」
「本当に由緒のあるヴィラなのね」
私は感心して紋章に見入った。
「以前、ロレンツォの家に行った時に彼が話してくれたんだ。このヴィラはもともとアンジェリ家の財産ではなく、ロレンツォの母ジュリア・メンギーニがアンジェリ家に嫁ぐ際に持参金代わりに持ってきたものだったんだ。
ロレンツォは母親の財産であるこのヴィラに対して一際強い思い入れがあったらしい。彼はものすごく信仰深かったから、その昔、教皇も訪れたこのヴィラに大変な誇りを持っていたんだ」
「そんなに大切にしていたなら、何故もっとちゃんと手入れしなかったのかしら。この荒れ様だと、何十年も放置されていたんでしょう?」
「そうなんだけどね」
ロメオは苦笑した。
ヴィラの西側には小部屋が三つ並んでいた。花で飾られたバルコニーと大天使が描かれた天井画のある最初の小部屋は天井の端に大きな穴が開き、崩れ落ちた天井の断片が床に散らばっていた。
続く小部屋は壁まで紺碧に塗られた神秘的な空間だった。まるで海の底にいるような錯覚に陥るこの『青の間』の天井には伝令の神ヘルメスの姿が描かれていた。
一階南側の吹き抜けになった正方形の広間を、大理石の大階段が直角に曲がりながら二階まで上がっていく。
階段は所々崩れ、錬鉄の欄干はおそらく扉と同じように持ち去られてしまったのだろう。
その残骸のみが僅かに残されていた。
二階は二つの広間と幾つかの小部屋で構成されていたが、フレスコ画はなく、無地の高いヴォ―ルトと繊細なレリーフで装飾されたアーキヴォールトが特徴的だった。
広間の天井は老朽が激しく、ヴォールトの半分以上が無残に崩れ落ちていた。
「すごい穴が開いているのね」
私達は天井を見上げた。
破損したヴォールトの上に見える腐食した梁の隙間から陽光が差し込んでいる。
広間の窓からはヴィラの背後に広がる藪と、その更に向こう側に開けた田園を見晴らすことが出来た。
ヴィラには一階と二階を繋ぐ大階段の他に、地下、一階、中二階、二階、屋根裏部屋を繋ぐ狭い螺旋階段があった。
私達は二階から更にこの螺旋階段を上った。螺旋階段の踊り場の床は丸くくり抜かれ、渦巻模様の鉄格子がはめ込まれており、最上階の窓から差し込む光が階下まで届くようになっていた。
最上階の屋根裏部屋は傾斜した梁がむき出しになっていて、中央に古びたマットレスが敷かれていた。おそらく、ここで寝泊りしていた浮浪者のものだろう。
私達は螺旋階段から階下に降りていった。中二階は入口の床が完全に崩壊していたので入るのを止め、更に下の地下室に下りた。
「さすがにちょっと怖いわね――」
私はロメオの背中にしがみつくようにして階段を下りた。
地下に下りる階段は所々が崩れ、真っ暗な上にかなり足場が悪かった。
私は爪先で階段を探るようにして進んだ。
突然、暗闇の中から黒い物体が飛び出してきて、私の鼻先をかすめて行ったので、私は思わずキャッと悲鳴を上げてロメオにしがみついた。
「何!今の?」
「コウモリだよ」
ロメオが笑った。
「コウモリ?
このヴィラにはコウモリが棲んでいるの?」
私は笑い出した。ドラキュラの城じゃあるまいし、市街から数キロしか離れていない屋敷の地下室にコウモリがいるなんて何か滑稽だった。
狭い階段を降りきり、洞窟のような通路の低いアーチを潜り抜けると地下室の空間が広がった。
地下室は想像よりずっと広く、四方の明かり窓から差し込む薄明かりが切石積の天井アーチをぼんやりと浮かび上がらせていた。
「わっ!何あれ?」
私は再びぎょっとして足を止めた。
壁に真っ赤な目玉のような怪しげな絵が描かれている。
「ここで昔、黒ミサが行われていたらしいからね。きっとその名残だよ」
「不気味ねえ――」
確かに黒ミサが似合いそうな独特の雰囲気がある。
私達が一階に戻るとオクタヴィアとレオナルドはもう見学し終わって私達を待っていた。
「どうだいロメオ君。気に入ったかい?」
レオナルドが尋ねた。
「ええ。素晴らしいですね。ロレンツォに写真を見せてもらったことはあったけど、これ程とは――」
「じゃあ君達はこのヴィラを希望するつもりかい?」
「ええ、是非」
「それはよかった。正直こんな廃墟を貰いたいなんて言う相続人は君達ぐらいだよ。私達は仮に相続しても売却するつもりだったからね」
レオナルドは鼻で笑った。
ヴィラを出ると五十代半ばの派手に着飾った女と六十代後半の小太りの女が門の前で私達を待っていた。
「オクタヴィアね。レオナルドから貴女がミラノから来るって聞いて、私達も会いにきたのよ」
着飾った女の方が愛想笑いを浮かべながらオクタヴィアに近付いて来た。
褐色に日焼けした肢体を大ぶりの花柄をあしらった薄手のワンピースに包んだ女は、衣装とは対照的に目が細いインパクトのない顔立ちだった。
「リディア・オルシーニよ。はじめまして」
リディアは細い目を一層細め、オクタヴィアの手を握った。
「イザベラ・ピッコリよ。貴女のお母様には何度か会ったことがあるのよ」
小太りの女が魚のような細い出目をしばたきながら手を差し出した。
「兄さんも貴女に会いたがっていたけど、今日は友人と郊外に行く約束があって来られなかったのよ」
リディアが残念そうに言った。
リディアの兄とは、以前、ロメオに電話してきたミケーレ・オルシーニのことだ。
ミケーレとリディア兄妹はオルガ・メンギーニの妹の娘アメーリア・ピッコリの息子と娘だ。六親等のアメーリアが亡くなってしまっていたので、七親等である彼らに相続権が移転されたのだ。私は以前に見た相続人の家系図を思い出して頭の中で名前を整理した。
それにしても、メンギーニ達は私の想像とは全く異なっていた。
ロメオ一家はイタリアでも稀に見る美形の家系だった。オクタヴィアもロメオも吸い込まれるように大きな黒い瞳が印象的な繊細で美しい顔立ちをしていたし、ソマリア人とのハーフであるロメオの祖母レーア・メンギーニはエキゾチックな美女だった。
だからレーアと同じメンギーニの血を引く他の相続人達も当然、美形に違いないと勝手に想像していたのだが、リディアもイザベラもお世辞にも美しいとは言えなかった。
内面の醜さが外面ににじみ出ているようだと私は思った。
「彼女は貴方の婚約者? どちらの国のお嬢さんなのかしら?」
リディアがオクタヴィアの後ろで寄り添うように立っていた私とロメオに笑顔を向けた。
「日本です」
「そう――」
リディアは物珍しそうに私を眺めた。
「オクタヴィア――」
レオナルドが真顔でオクタヴィアに向かい合った。
「君は遺産の五十パーセントを相続するわけだから、希望する物件を早く教えてくれ。このヴィラが欲しいなら大いに結構。とりあえず五十パーセント分の物件で希望を出してくれれば、他の親族と話し合う。君が希望する物件に他の相続人が必ずしも同意するとは限らないからね」
「レオナルド、貴方は忘れているようだけど、わたしには法定相続人としての五十パーセントの他に、遺言状の用益権があるのよ」
半ば命令するようなレオナルドの威圧的な口調にオクタヴィアがムッとして言い返すと、それまで比較的友好的だったレオナルドの顔から笑いが消えた。
「我が親愛なるオクタヴィア。君がそう言う態度ならこの遺産、我々の息子の代になっても分割されることはないだろうよ」
レオナルドは脅すような口調になった。
「何て言っているの?」
私はロメオを突っついた。
「つまり、相続争いが泥沼化して何年もかかるって言いたいんだよ」
ロメオはレオナルドを睨みつけながら低い声で私に囁いた。
「君に一言言っておく」
レオナルドが皮肉たっぷりに言った。
「君の言う用益権とやらは、水のない井戸のようなものだ。つまり何の価値もない。
これ以上、事をややこしくしたくないなら、そんな権利は持ち込まないことだな」
レオナルドははき捨てるように言った。
リディアとイザベラは無言で下を向き、一同の間に気まずい空気が流れた。
私達は重苦しい気分のまま帰途についた。
これでレオナルド・メンギーニがカイロリの言うとおり一筋縄ではいかない曲者であることがはっきりと分かった。
リディア・オルシーニとイザベラ・ピッコリも上辺は親切そうな笑顔を見せてはいたが、本心では何を考えているか分からない。
私はイザベラ・ピッコリの魚のような冷たい細い目とリディア・オルシーニの取って付けたような愛想笑いを思い出して身震いした。
終わりのない相続争いがいよいよ幕を開けようとしている――
メンギーニ一族との遭遇は私にそんな不吉な予感を抱かせた。




