カイロリの作戦
六月になると、ロベルト・ライモンディというボローニャでも有力な公証人がカイロリを通じてオクタヴィアに接触してきた。この公証人、ロベルト・ライモンディはサン・マモロ通りの物件の是非とも購入したいとかねがねから考えており、五十パーセントの相続人であるオクタヴィアに商談を持ちかけてきたのだ。
当然のことながら、オクタヴィアは彼の申し出をきっぱりと拒絶した。サン・マモロ通りの建物、とくに元僧院は、ロレンツォが特に大切にしていた不動産だった。第一、遺産分割協議の行方も不透明な今、売却の話など出来ようはずもなかった。オクタヴィアの頑な態度に、ライモンディはいったん引き下がったものの、今度は公証人として彼女の力になりたいと申し出た。
「有能な弁護士に相談なさることをお勧めしますよ」ライモンディはオクタヴィアにこうアドバイスし、自身もボローニャでも卑劣で強欲な一門として悪名高いメンギーニ一族に嫌悪の念を抱いていることを明かした。
そして、お困りなら相談に乗ります、もし相続税など金銭面で問題がおありなら、私が力を貸してもかまいませんよ、と付け加えた。
以後、ロメオの話の中にたびたびこのライモンディ公証人の名が登場するようになる。現在、サン・ペトロニオ教会の裏の高級地区に事務所を構えるライモンディは、いずれはそこをたたんで、閑静で緑の多いサン・マモロ通りに事務所を移したいと考えているようで、ロメオの話から、この相続争いの行方に並々ならぬ関心を抱いていることが伺えた。
老獪なカイロリが奇妙な作戦に取り付かれ始めたのもちょうどこの頃だった。
「カイロリは母さんの親等を上げる方法があるって言うんだ」
ロメオは最初、そんな風に私に言った。
「どうやって?」
相続に明るくない私は、イタリアお得意の法の抜け道があるのかと、興味津々でこう聞き返した。
その日、いつものように息子を伴ってカイロリの事務所を訪れたオクタヴィアをカイロリは、重大な話があると言って別室に呼んだ。帰路、オクタヴィアは深刻な表情で貝のように黙り込み、カイロリとの会話の内容を息子のロメオにさえ明かそうとしなかった。 彼女がようやくその重い口を開いたのは、翌日の朝のことだった。
「実はロレンツォには隠し子が、正確には庶子の娘がいると言う噂がボローニャで囁かれているそうなんだ」
ロメオは母から聞いたばかりの情報を私に伝えた。
「ロレンツォに?まさか――」
「それで、カイロリはもし母さんがその娘だと主張すれば、唯一の相続人になれると言っているらしいんだ。死後認知の申立をして訴訟を起こすって」
「そんな馬鹿な。冗談でしょう?」
私は呆れたようにロメオを見た。
「僕も最初冗談かと思ったよ。でもカイロリは大真面目なんだ」
ロメオは苦笑した。
「カイロリはメンギーニというのはガレージの権利を巡って兄弟同士で二十年も訴訟で争うような、そんなクレイジーな連中だから、まともに遺産分割協議を進めたら、必ず裁判沙汰になるに違いない。そうなったら何十年かかるか分からないから、ここは母さんが一親等であることを主張して訴訟を起すのが最善策だと言うんだ。この方法なら百パーセント勝てる、メンギーニ達を確実に追い出せる最良の方法だって。
知り合いの医師にDNA鑑定を行ってもらうって言っている――」
さすがイタリア!
私はその時こんな風に思った。実在するかどうかも分からない隠し子の存在を持ち出してくるなんて、すごい発想だと呆れながらも一種の感動さえ覚えたのだ。
「でもDNA鑑定をして一致しなかったらどうするの?」
「だから医者を買収して一致したと言う書類を作成してもらうんだと思う」
ロメオは自信なさげに付け加えた。
「――たぶん。」
いやいやいや――それでは立派な詐欺ではなかろうか――
私は頭を抱えたくなった。
「――そんな突拍子もない話、うまく行くわけない気がするけど――」
「でもカイロリはこの方法なら絶対に勝てると断言したらしいよ」
「なぜ、カイロリはそこまで自信満々なの?」
DNA鑑定をする医者は勿論、彼の懇意の医者に違いない――
それで裁判長とか裁判所によっぽど強力なコネがあるのかもしれない――
「お義母さんは何て言っているの?」
「すっかり動揺しているよ。」
ロメオは溜息をついた。
「カイロリと公証人のライモンディが、よってたかってメンギーニは卑劣でどうしようもない連中で、まともに戦ったら勝ち目はないって散々脅すものだから――」
目に浮かぶようだ。オクタヴィアは絶望的なほどネガティブな性格だった。
例えば、九十九パーセント大丈夫と言われると、一パーセントの失敗する確率に全思考が集中するタイプである。しかも友達付き合いを一切せず、自宅と職場の学校しか知らない彼女は、修道院から一歩も外に出たことのない少女のように俗世から遠い世界に生きていた。そんな彼女がメンギーニ六人を相手取って戦うなど、とても無理だろうと私は思った。
しかし、それにしてもオクタヴィアがロレンツォの庶子という話はあまりにも突飛過ぎて、この時、私は本気で取り合わなかった。
七月半ば、カイロリが再びオクタヴィア、ロメオ母子に連絡してきた。カイロリはロメオに、レオナルド・メンギーニにこの遺産問題から手を引けと脅されたと話し、状況を打開する唯一の方法は、オクタヴィアがロレンツォの実子であることを申し立てる裁判しかないと主張した。
「上手く行くわけないし、そんな話に乗らない方がいいと思うけど」
――ていうか詐欺だろう――
ロメオから話を聞いた私は婉曲に反対した。私はあくまでも部外者である。
私は最初からカイロリが気に食わなかった。
そしてこの強引は話の進め方はどう考えてもおかしい。
「でもカイロリは一年以内に全てを終わらせてみせるって自信満々なんだよ」
私は何故カイロリがそこまで自信満々なのか分からなかった。どう考えても突拍子のない話である。そんな突拍子のない話が私の身近で普通に進んでいる。
これは、ここがイタリアだからなのだろうか。私は思わず考えこんでしまった。
「メンギーニは鮫のような連中だから、普通に遺産分割協議をしたら何年かかるか分からないって」
ロメオは続けた。
「そもそも彼等は本来なら関係ないはずだったんだ。ロレンツォがあと二十日長く生きてくれていたら、あの連中は蚊帳の外だったのに――」
ロメオは悔しそうに唇を噛んだ。
「でもその死後認知訴訟にはどのくらいの費用がかかるの?」
「カイロリは訴訟にかかる費用は全て自分が払うと言っている。
その代わり全てが無事に解決したら報酬としてメンギーニの相続分を貰いたいって言ってきた」
「え?」
私はあっけにとられて言葉を失った。カイロリの本当の狙いがようやく分かった。彼は相続争いのどさくさに紛れてアンジェリ家の財産の半分を持っていくつもりなのだ。
「カイロリは僕達が希望している中心街のサン・マモロ通りとバルベリア通りの物件、それに郊外の屋敷を母さんに残し、更に現金で建物の修復代として五十万ユーロを支払うと言っている。悪い話じゃないだろうって」
「ちょっと待って。そんな馬鹿な話はないでしょう?どうして相続人でもないカイロリがメンギーニの相続分をまるまる持っていくの?」
「わかっているよ。僕だっておかしいと思う。でもまともに相続争いをしたら、バルベリア通りとサン・マモロ通りの物件を相続できるかどうかも怪しいんだよ」
バルベリア通りとサン・マモロ通りの物件はアンジェリ家の不動産の中でも最も価値が高い物件である。そんな連中ならオクタヴィアが一番いい物件ばかりを独占するのを黙って承諾するとは思えない。
「母さんはこの遺産問題ですっかり参っていて、一刻も早く終わらせたいと嘆いている。彼らと何年も法廷で争うぐらいなら相続権を放棄するとさえ言っているんだ。繊細でマイナス思考の母さんがこんな状況にいつまでも耐えられるとは思えない」
ロメオは遺産よりも母オクタヴィアを心から心配していた。
「この方法でカイロリが言うとおり一年以内で全てが解決するなら、カイロリにメンギーニの相続分を渡してもそのほうがいいと思うんだ」
ロメオの気持ちは分かる。しかしこの話は怪しすぎる。第一、カイロリという人物について、私達は何も知らないのだ。あたかも裁判所の代理人のような顔をしてオクタヴィア母子の前に突然現れた。そしてナーディアの追及によって実は不動産業者であることが発覚した。
こんな男の話に乗るべきではない――それが私の正直な見解だ。
しかし、オクタヴィアもロメオも相続争いという、彼らにとってはあまりも非現実的な大事件に巻き込まれて感覚が麻痺しているようだった。
「明日、カイロリが弁護士を連れてミラノに来るって言っている。カイロリは相当この相続問題に入れ込んでいるみたいだよ。それだけのためにわざわざミラノまで来るんだから」
それはそうでしょう――
何百万ユーロもの遺産が彼の懐に転がり込むかもしれないのだから――
私は心の中で呟いた。
翌日、カイロリは弁護士を伴ってミラノのオクタヴィア宅を訪れた。この時間、私もロメオも仕事だったのでオクタヴィアが一人でカイロリに会うことになっていた。
その日の夕方、仕事を終えた私達はオクタヴィアの待つカフェで落ち合った。
「それで――」
深刻な顔で黙り込んでいるオクタヴィアにロメオが心配そうに訊ねた。
「彼らは帰ったわ。」
「分かってるよ。それでどうなったの?」
「カイロリはボローニャの敏腕弁護士と言う人と一緒にやってきたわ。ものすごくこの相続問題に熱心なのね。わざわざミラノまでやって来るぐらいですもの。弁護士はニコリともしない、厳格で怖い感じの人だったわ」
オクタヴィアはさも恐ろしそうに眉をひそめた。
私は我慢強く彼女の話を聞いていた。オクタヴィアはいつもこうである。話の核心に到達するまでに非常に時間がかかるのだ。
「弁護士はまず非嫡出子死後認知の申立書を作成して裁判所に提出しなければならないと言ったわ。それで訴訟が始まって、裁判官が申立を認めればDNA鑑定を行うことになるって。それで――カイロリは何も書いてない用紙を私に差し出して、書名するように言ったの」
「何も書いてない?」
私は驚愕してオクタヴィアを見た。
「ええ。白紙だったわ。三十枚近くあった。申立書用の用紙で後から本文を書き込むから下のほうに書名してくれって」
「まさか――それに署名したの?」
ロメオは訊ねた。
「ええ。署名したわ」
私は呆然とオクタヴィアを見つめた。
何をしたか分かっているのだろうか。
オクタヴィアは続けた。
「それでその後、一緒にカフェに行ったの。そう、このカフェよ。カイロリは上機嫌だったわ。もう大船に乗ったつもりで安心していいって」
オクタヴィアはここで言葉を切った。
「コーヒーを飲みながらふと母の言葉が頭を過ぎったの。『オクタヴィア、何か署名するときは何が書いてあるか必ず確認してから署名しなさい。署名してしまってからでは遅いのよ。』って」
オクタヴィアは私達を見た。
「それで、カイロリに言ったの。やはり、こんなことは気が進まないから署名した紙を返して欲しいって」
「それで?」
私達は膝を乗り出した。
「カイロリはさっと顔色を変えたわ。今まで上機嫌だったのに突然、不機嫌になって、『奥さんがそう言うのなら仕方がないですね』ってその場で用紙を破り捨てると、荒々しく席を立ってボローニャに帰って行ったわ」
私はほっと安堵の溜息をついた。
「これでよかったのかな」
とロメオ。
「当たり前よ。白紙に署名するなんて危険すぎる」
私は答えた。
「今考えるとわたしは本当に恐ろしいことをしようとしていたのね。私が署名した三十枚近くの白紙に彼は何とでも好きなことを書けたんですもの。その気になれば相続権を譲渡する文面を書く事だって出来たんだわ」
オクタヴィアはさも恐ろしそうに体を震わせた。
オクタヴィアが去るとロメオは溜息をついた。
「やっぱり母さん独りでこの遺産問題を乗り切るのは無理だよ。彼女は世間知らずで社会の仕組みとか全然分かってないし、相談できる友達もいない。僕達が彼女を助けないと」
「そうね――」
私は暗澹たる気持ちで答えた。
オクタヴィアだけではない。ロメオだってずいぶん世間知らずだと思う。二人とも大学卒業後、共に教師の道を歩み、生の社会というものに触れずに生きてきたから、世紀末の没落貴族のように浮世離れしたところがある。それでもロメオは若く、活動的であったから、五里霧中の中、手探りでも前に進み、自分の手で何とか解決しようとする意欲と義務感がある。
しかし、オクタヴィアは違っていた。母レーアの庇護の下、あまりにも守られて育ったせいか、手を差し伸べる人間あらば、これ幸いとすぐにすがりついてしまう子供のような無防備さがあった。
だから、カイロリには最初から完全に頼りきりで、私に言わせれば、今はそれの対象がカイロリからライモンディに移行しつつあるだけで、本質的には何も変わっていないのだ。
「僕も頑張るけど君も協力してくれる?」
私は気分が重くなった。
法律だの不動産だのといった事は私が最も苦手とする分野である。公証人や弁護士の話は法律用語の連続で、聞いているだけで頭が痛くなりそうだった。しかもナーディアといい、最近では頻繁に表舞台に登場するようになったライモンディといい、法律家と言うのは好戦的と言うか、闘争的と言うか、窮地に陥るほど、敵が強大であるほど、血の臭いを嗅ぎつけた獣のようにますます意気軒昂するように思われた。
「頼むよ」
ロメオはすがる様に私を見た。
「分かったわよ」
私はしぶしぶ頷いた。
この一件以来、カイロリはぴたりと連絡を絶った。思惑通りに事が運ばなかったのでひとまず退散したのだろうと私は思った。




