カイロリの正体
五月八日、私達はカイロリのたっての希望により、アルマンディ公証人の事務所で一緒に話を聞くことになった。ロメオ親子と私に加えて公証人を紹介してくれたナーディアも同席した。
マンゾーニ通りの歴史的建物の六階に位置するアルマンディ女史の法律事務所は、如何にも女性趣味らしく十八世紀ヴェネツィア様式の曲線を帯びた優美な調度品で飾られ、壁には印象派の明るい風景画がかかっていた。広いフランス窓からは、オペラの殿堂、スカラ座のファサードを斜め前に見晴らすことが出来る。
アルマンディ女史は黒髪で痩せぎすの、美人ではないが上品で優雅な佇まいの女性で、丈の長い黒いウールのワンピースに、大きなトルコ石のネックレスとブレスレットと言う、おおよそ法律家らしくない装いだった。
カイロリは丸い顔を真っ赤に上気させて慌しく登場した。
全員揃ったところでアルマンディ公証人が口を開いた。
「先日も言いましたが、この遺言状によればアンジェリ家の不動産から得られる全ての収入の五十パーセントが建物の修理や維持費に当てられ、二十五パーセントが貴女に支払われなければなりません。用益権と呼ばれるこの権利は仮に他の相続人が不動産を第三者に売却しても失われることはありません。貴女は生きている限り、不動産の所有者が誰であっても、賃収入を受け取る権利があるのです。貴女の用益権はアンジェリ氏が亡くなった時点から有効ですから、二〇〇四年十一月十日以降の賃収入の二十五パーセントが貴女に支払われなければなりません」
オクタヴィアは目をパチクリさせながら公証人を見た。
「去年の十一月十日からですか?」
アルマンディは頷いた。
「相続人の一人が既に相続受諾書に署名したといいましたね。
署名した相続人は今までの賃収入を、責任を持って貴女に支払う義務があります。早速、法的文書でその旨をその相続人は通知するべきだと思います。これで彼も何を相続しようとしているか悟るでしょうね。」
「どういうことですか?」
ロメオが訊ねた。
「つまりオルガ・メンギーニの相続人達は不動産を相続しても虚有権しか有さないと言うことです。虚有権とは所有者の権能である使用権、収益権、処分権のうち処分権しかない、いわば観念的な所有権のことです。彼等は不動産の名義上の所有者になってもこれを利用することも、収益を得ることも出来ないわけです」
「でも、売却して現金にすることは出来ますよね?」
ロメオは訊いた。
「勿論。でも売却するにしても彼等が売却するのは虚有権しかない物件です。買う方もそんなに馬鹿ではないですから、そう簡単に売ることは出来ないと思いますよ。現在、貴女の用益権は二十五パーセントですが、もう一人の相続人は名前も分からないわけですから、この不明な相続人の二十五パーセントの権利を貴女に移転することも可能だと思います。このことについては法律書から該当する条項を引用して公正証書を作成し、正式に貴女に五十パーセントの権利があることを証明しなければなりません」
「用益権を不動産か現金に換算出来るかもしれないと言うことでしたが――」
ロメオが再び質問した。
「不可能ではないと思いますが、とても難しいですし、時間がかかります。まずアンジェリ氏の全ての財産を正確に評価しなければなりません。その上で、年間どれほどの賃収入が得られるかを推測し、計算するわけです。法律上、用益権を不動産または現金に置き換えることは大変難しいですが、他の相続人も虚有権しかない不動産を五十パーセント相続するより、彼等が相続する物件の用益権を放棄することを条件に、貴女に余分に相続させた方が都合いいはずですから、相続協議で交渉することは出来ます」
アルマンディはここで一息つくと私達を見渡した。
「皆さんに異存がなければ、まず十一月十日から現在までの収益の二十五パーセントを請求する法的文書を作成し、相続人のレオナルド・メンギーニ氏に送りたいと思うのですが――」
「ちょっと待ってください」
今まで黙って熱心に話を聞いていたカイロリは口を挟んだ。
「公証人のおっしゃることはごもっともで、レオナルド・メンギーニに法的文書を送るのも、妙策だと思いますが、郵送される前に法的文書の草稿を私にも見せて頂けませんか?
内容を一応確認しておきたいので」
「失礼ですけど――」
それまで厳しい視線でカイロリを凝視していたナーディアが口を開いた。
「貴方はどなたですか?」
「はあ?」
カイロリは初めてナーディアの存在に気付いたようにジロリと彼女をにらんだ。
「先ほど自己紹介しました通り、私はピエトロ・カイロリと言う者で――」
「私が聞いているのはそう言うことではありません」
ナーディアの口調は厳しかった。
「貴方は裁判所関係の方ですか?」
カイロリは真っ赤になった。
「いや、私はただの不動産業者で――」
「なるほど。では不動産業者の貴方が誰の依頼で、何の権限があって本件に関わっていらっしゃるのですか?」
ナーディアの言葉に容赦はなかった。
「それは――その――」
カイロリは激しく狼狽し、しどろもどろになった。
「私は生前のロレンツォ氏を彼の所有する土地を通じて存じ上げていました。たまたま彼が亡くなったことを知り、公証人である妻の助けを借りて相続人を捜したんです。その――例の土地を購入したいと思っていましたから――」
カイロリは助けを求めるようにオクタヴィアを見た。
「相続人のお一人のオクタヴィア・セーラさんが大変お困りのようでしたので、その――お力になれればと思い――相談に乗っているわけですよ」
「つまり貴方はオクタヴィアさんの相談役と言うことですか?」
「ええ――まあ、そんなところです」
ナーディアは不信感を露わにして黙った。実のところ、これこそが私にずっと付きまとっていた違和感の正体だった。
おおよそ、裁判所の人間らしくないこの怪紳士が何の権限があってこの相続問題をえらそうに仕切っているのか、私は最初から不思議で仕方がなかった。そして、彼の秘密のヴェールは剥ぎ取られた。不動産を扱う実業家だったのだ。どうりでこの遺産問題にこれほど熱心だったわけだ。
ナーディアは最初からこのカイロリが気に食わなかった。後から彼女に聞いた話によれば、イタリアには、資産家や旧家の主が亡くなると、相続争いにうまく入り込んでおこぼれを預かろうと何処からともなく沸いてきて、いつの間にか相続人の相談役や代理人に納まってしまう、死肉に群がるハイエナのような連中が大勢いるのだそうだ。南部出身のナーディアは、カイロリからこの種の臭いを敏感に感じ取ったのかもしれない。
しかし、ナーディアの忠告にも関わらず、オクタヴィアはカイロリに相変わらず頼りきりだった。
一人娘で数年前まで母親に何もかも任せきりだったオクタヴィアは、自分ひとりで何かするということがまるでなかった女性だった。だからカイロリの親切も当然のことのように受け止めた。右も左も分からない、だからと言って他に頼る人もいないこの状況では、この際、どんなに胡散臭くてもカイロリを頼りにする以外にどうしようもなかったのだ。
一週間後、アルマンディ女史は法的文書を作成したと報告してきた。
しかし文書に目を通したカイロリは、内容が攻撃的すぎて宣戦布告と取られかねないので、もう少し婉曲に書き直したいと言ってきた。オクタヴィアは必要以上にメンギーニ達を刺激することを極力恐れていたので彼の申し出に同意した。
しかしそれから二週間たっても肝心の文書は出来上がってこなかった。
「なにをぐずぐずしているんだろう?」
ロメオは苛立っていた。
「彼は本当にロメオ達の味方なの?第一、元の文書はアルマンディが作成したんでしょう?
ちょっと手を加えるだけに、こんなに時間がかかるなんて絶対変よ」
私にはカイロリの意図が見えなかった。
その頃、私は自分の仕事が忙しかったのと、遺産だの、不動産だのといった面倒なことに巻き込まれるのが煩わしくもあり、この相続問題になるべく関わらないようにしているところがあったのだが、ロメオはそんな私の思惑などお構いなく、その日起こった出来事を包み隠さず話してくれるのだった。
ようやく出来上がった文書はアルマンディが作成したものより、かなり婉曲な内容になっていた。しかも差出人をアルマンディ法律事務所にして送る予定だったのを、カイロリがそれでは宣戦布告と取られて交渉がし難くなると主張したために、オクタヴィア個人の名義で送ることになった。
このことをロメオから聞いた私は更に不信感を募らした。法律事務所名義で送ったほうが、正式文書として絶対に効力があるはずである。
弁護士でもないカイロリが何故、そんなことまで指図するのか?私は彼に対する疑念は更に大きくなった。
数週間後、レオナルド・メンギーニが弁護士を通じて返事の文書を送ってきた。
二〇〇四年十一月九日から今日までにかかったアンジェリ氏所有の不動産の修理代及び維持費が同期間の賃収入を上回るので、オクタヴィアに支払われるべき収入はないと言う内容だった。




