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《 異世界恋愛系 小作品・転生》

婚約破棄なんてどうでもいいわ! 私のお目当てはラスボスだもの。

作者: 新 星緒

 珍しいことに晩餐に家族全員が揃っている。

 お父さまはベルジュ公爵家当主として、また陛下の側近として多忙だ。

 私も婚約者の王太子のサポートを毎日しているせいで、忙しい。お父様とは屋敷よりも王宮で顔を合わせることのほうが多いくらいだ。


 家族が勢ぞろいした晩餐は、普段よりも食事が美味しく感じられる。

 不思議なものね。溜まった疲れとストレスも吹き飛んでしまったわ。


「そうそう」とお父様。「モンベル殿の引退が決まった。明日の朝、公式発表となる」

「まあ。とうとうなのね」

 モンベル様は高齢で、近頃は体力が著しく落ちたらしい。そろそろご勇退ではないかと噂されていたのよね。


「ということは――」とお母様が口元にグラスを運んでいた手を止めた。

「ああ。ついにシルヴァン筆頭魔術師様の誕生だ」


 突然、ガツンッと頭を鋼鉄で殴られたかのような衝撃が走った。思わずカトラリーを落とす。

 あまりの激痛に姿勢を保てなくなり、椅子からずり落ちた。 


 頭が割れそうに痛い。

 それでありながら、なぜか頭の中では、『シルヴァン筆頭魔術師』という言葉がぐるぐると回っている。

 痛い。

 苦しい。

 だけど、どうして――。


◇◇


 鏡をのぞきこむ。やつれた顔の私が映る。


 晩餐の最中に倒れた私は、三日三晩寝込んでいたらしい。数時間前に目が覚めて、両親にワンワン泣かれた。


 心配をかけてしまって、申し訳ないわ。

 ただ、これは病気ではない。断言できる。


 私は『シルヴァン筆頭魔術師』の言葉を引き金に、前世の記憶が蘇ったのだ。その衝撃で、脳に負担がかかって倒れたのだと思う。


 つまり、あれよ。前世のラノベやマンガで流行っていた異世界転生。前世の私はなんらかの理由で死んで、小説『落ちこぼれ令嬢は己の力で成りあがる!』の世界に生まれたの。


 で、私、ロクサーヌ・ベルジュは作品における悪役令嬢の役どころ。


 鏡に映る私は燃える炎のような赤毛と瞳、だけれど凍り付くような冴え冴えとした美貌という、なんともアンバランスな容姿をしている。ちなみに陰では無表情のせいで『氷の令嬢』と呼ばれている。


 だけど心配することはなにもないの。私が活躍(?)するのは、主人公に片思いをしている王太子オラスが、婚約破棄をしてからだから。


 今のところ私たちはまだ、婚約している。そのイベントが起きても、主人公を迫害しなければ私が悪役令嬢として破滅することはない。……はず。


 問題は私のことなんかより、記憶がよみがえるきっかけとなった『シルヴァン筆頭魔術師』のほうなのよ。


 彼は国王陛下の末の弟で、公爵位を持ち、そして我が国最強の魔術師。いずれ筆頭魔術師の地位に最年少で就くだろうと言われてきた。

 そして、実際にそうなった訳だ。私が眠り続けていた間に。


 彼は私とは違って、冷たく輝く銀色の髪とアイスブルーの瞳で、柔らかな美貌をという容姿をしている。誰にでも紳士的で、人気者。社交界の、いえ、国中の女性が彼に恋しているといっても過言ではないほどに、よくモテる。


 だけど小説における『シルヴァン筆頭魔術師』の役割はラスボスなのよね。


 笑顔の下に苛烈な性格を隠しているだけ。おまけに近隣諸国で禁止されている、黒魔術にも手を出している。


 そんな彼の望みは、一番残酷な方法で(・・・・・・・・)国王を絶望させること。なんと少年のころから二十年近くの間ずっと、その機会を伺っているのよ。なかなかに粘着質!


 と、いうことで。この世界に転生したからには、私のやることはたったのひとつ。

 最推しシルヴァンのほの暗い復讐生活を間近で見守り、彼を助け、あわよくば手に入れるのよ!


◇◇


「今、なんとおっしゃいましたか?」

 両手に数冊の書物を抱えた笑顔のシルヴァン殿下が、珍しく戸惑いの表情を浮かべている。


 魔法省の筆頭魔術師用執務室。主が変わったら、雰囲気もガラリと変わった。以前は重々しくて厳かな感じ。今は明るく居心地が良い感じ。

 このひと(ラスボス)は自分の演出がとてもうまい。本当は誰にも自分のテリトリーに入ってほしくないくせに。


「では、もう一度申し上げますわね」にっこり。「私を筆頭魔術師様専属の雑用係にしてくださいませ」

「……オラスの婚約者であり公爵令嬢でもあるあなたを、雑用係にだなんてできませんね」とラスボスも負けじと微笑む。


 うう、眼福。さすが私の最推し。中身ヤバめのラスボスだと知っていても、常識を越えた美しさにときめいてしまう。


「いったいどうしたというのですか。『常に冷静で判断を過たない』と賞賛されるあなたらしくない申し出ですね」

 それは多分、私がここへ断りもなしに突撃訪問して来たことも、指しているのだろう。

 今まで私は不行儀なことは一切してこなかった。


 幼少のころから未来の国母として厳しく躾けられたし、自分でもそれにふさわしい人間であろうと努力してきたから。


 だけど推しを前にしたら、そんなことはどうでもよくなるわよね?


「理由のまずひとつめ」と私は右手の人差し指を立てる。「オラス殿下のサポートをするのは、もううんざりですの。あれは『サポート』ではありませんわ。『尻拭い』です」


 オラス殿下は私と同じ二十歳。成人して二年も経つというのに、いまだ考えが幼く、王太子の自覚なし。もちろん国を背負う重みもわかっていない。

 ふわふわと頼りなく、そのくせ自分は素晴らしい男だと勘違いをしている。残念としかいいようのないお頭だ。


 彼にはたくさんやるべき公務があるけれど、怠け者だからほとんど私に押し付けてなにもしない。 やるのは目立つところだけ。そのせいで多くの人が、彼をすばらしい王子だと誤解している。小説のヒロイン・ピアもね。

 腹立たしいわ!


「理由、その二」と中指を立てる。「オラス殿下は最近男爵令嬢のピアに恋しています。やがて私との婚約を破棄するでしょう。そのときに備えて手に職をつけたいのです」

「雑用係で?」

「そしてみっつめ」とシルヴァン殿下の言葉を無視して続ける。「お聞き及びだと思いますが、先日私は原因不明の頭痛で、三日三晩も意識を失っていましたの。もう全快したことを考えると、病ではなく魔法によるものだった可能性が高いでしょう。となれば最も信頼できて、多くの文献にあたる権限を持つ方のそばで情報を得ようとするのは、自然なことですわよね?」


 嘘も方便。

 ここまでの説明でラスボスも、私が気まぐれで雑用係にしろと迫っているのではないと、わかったはずよ。

 私は上げていた手を下げる。

 

「なるほど」と笑顔のシルヴァン殿下。「きちんとした理由があるのですね。しかし私は秘書も近侍も置かない主義です」

「存じていますわ」

「ならば、答えはおわかりになりますね。申し訳ありません。オラスのことは、叔父として注意いたしましょう」


「よっつめ」

 私は再び右手をあげて、小指を立てた。

 ここは筆頭魔術師の執務室。結界で厳重に守られている。ということはつまり、誰も盗聴できない。


「あなたの本当の顔を存じてますわ。おそばで見守りたいの」

「なんのこと――」

「黒魔術」それだけ言って微笑む。


 ラスボスは笑顔でなにか言おうとしたけれど、口をつぐんだ。

 頭のいいひとだもの。私が思い付きやはったりで発言したわけではないと気づいているはず。


「殺さないでくださいね」ラスボスが行動に移す前に、釘を刺す。「私は有用ですよ」

「どのあたりがかな?」

 さすがラスボス。先ほどの動揺を微塵も見せない笑顔だわ。ただそれは、以前のものとは違う。どこか闇をまとって不穏な雰囲気がある。


「このままいくと、あなたの計画は良いところで邪魔が入りますの。その先にあるのは無念の死ですわよ。でも私は、それを知っている」

 にっこり。

「目的は?」

「ですから、おそばで見守りたいだけですわ。私、あなたが好きなんです」


 シルヴァン殿下がわずかに目を細めた


「ご心配なさらないで。迫ったりはしません。全力で落としにはかかりますけど、基本はあなたが腹黒い本性を隠して善良ぶっている姿を、堪能したいだけです。それだけでも幸せですわ」

 そう、よだれが垂れそうなほどにね! じゅるり。


「気持悪い……」

 いつも笑顔の殿下が、はっきりと顔をしかめた。

 なんて尊い!

 私にそんな顔を見せてくれるなんて。ますますにやけてしまうわ。


「う……」とドン引きの表情のシルヴァン殿下。「不気味……」と心持ち後ろにのけぞる。

「でもお役に立ちますわよ?」

「どうしてそれ(・・)を知っている」

「見たからですわ」

「予知夢か?」

「そんなところでしょうね。私もよくわかりません」


 猫かぶりをやめたらしいラスボスが、ギロリと私をにらむ。


「私がなぜそう望むようになったかも、見ているのか」

「いいえ」

 シルヴァン殿下が息を吐く。そしてぞんざいに前髪をかきあげると、

「口裏を合わせるぞ」

 と、だるそうに言った。


 やったわ。目的達成!!


◇◇


 私がシルヴァン筆頭魔術師の雑用係になったことは、多方面に多くの混乱を招いた。


 そもそも貴族の女性が仕事に就くことはあまりない。

 私は実家がお金に困っているわけでも、嫁ぎ遅れて自立する必要があるわけでもない。

 むしろ王太子の婚約者として、やらねばならないことがたくさんある身だ。

 しかもシルヴァン殿下は今まで一度たりとも、秘書や助手といった補助の人間をそばに置いたことがなかった。


 だけど私が彼に説明したみっつの理由を丁寧に説明すれば、たいていのひとはなんとか納得してくれた。

 納得しなかったのは、私に仕事を押し付けたいオラスぐらいだった。


「こんなにスムーズに話が進むとは。さすが腹黒シルヴァン殿下です」

「一言多い。それからその気持ち悪い笑顔はやめろ」

 ラスボスは私の前では、猫をかぶるのをやめたらしい。トレードマークの笑顔になることはなく、口調も所作もぞんざいだ。そして嫌悪を隠さない表情で私をにらむ。


 最高すぎる。


「だから気持ち悪いって言っているだろう!」

 はあっとため息を吐くシルヴァン殿下。

「好きなひとを前に、顔を保てるはずがないじゃないですか。早く慣れてください」

「『氷の令嬢』はどこへ行ったんだ」

「いますよ。あなたの前以外ならば。それよりも、お願いします」と整え終えた書類を渡す。「閲覧のみ、要承認、要返信をそれぞれ緊急度順にしてあります。今までこんなことも、ご自分でされていたんですか?」

「魔法を使えば一瞬で分けられる。だから雑用係なんて必要ないんだ」

「魔法ですか?」


 意味ありげに見えるように微笑めば、シルヴァン殿下はふんっと鼻を鳴らして顔をそらした。


 きっと黒魔術なのだろう。私もそれなりの魔力を持っているから、魔法についてもしっかりと学んだ。だけど殿下が言ったような魔法は聞いたことがないもの。


「でも私がいると、いいこともありますよ」

 執務机から離れて、壁際のチェストに向かう。

「書類に集中している間に、美味しいお茶がはいってしまうのです!」

「……まあ、お前がいれたお茶は美味しい」

「でしょう?」

 そのせいでよく、オラスにも命じられてお茶をいれているのよね。すごく嫌だったけれど、推しのためなら苦じゃないわ。


「しかも片づけ魔法も不必要ですよ」

「だが騒がしくて、集中できない」

「まあ。失礼しました」


 推しの邪魔をするのはよくないものね。

 黙ってお茶をいれて、シルヴァン殿下のもとへ運ぶ。

 そっと机の隅に置くと、殿下は一瞬だけ表情を和らげた。彼の好きなアップルティーだもの。当然ね。だけど彼はすぐに私をにらみつけた。


「どうして俺の好きなフレーバーを知っている! 誰にも話したことはないんだぞ!」

「見たから?」

 シルヴァン殿下は薄気味悪そうな表情になって、湯気の立つカップを見つめている。

 心外だわ。


「おかしなものは入っていませんよ?」

 ラスボスはうろんな目で私を見て、次に雑務係用の机を見た。

「お前のは?」

「バラ科の植物にアレルギーがあるんです。軽度なんですけど、特にリンゴがダメで」

「……初耳だが」

「喉がかゆくなる程度ですからね。王妃たるもの、弱みは見せてはいけないでしょう? 簡単な自己治癒はできますし。――では仕事に戻りますね」


 お盆をチェストに戻してから自席にすわると、シルヴァン殿下がカップに口をつけている姿が目に入った。

 よかった。


 ラスボスといえども真面目な性格の殿下は、筆頭魔術師に就任して以降、その地位に早く慣れようとして無理をしている。美しい目の下にはうっすらとクマがあるし、絹糸のような髪の輝きが鈍くなっている。きっとお手入れをする時間がないのだわ。


 推しには辛い思いはさせたくないもの。

 雑用係になったのは自分の欲望のためだけど、いい案だったわ。

 彼の負担を減らせるお手伝いが、多少はできるものね。


◇◇


 執務室の扉が開き、笑顔を顔面にはりつけたシルヴァン殿下が入ってきた。扉が閉まるのと同時に不機嫌マックスの顔になる。


「雑用係、アレ!」

「できています」

 ささっと立ち上がり、精製しておくように言われた薬の素が入った試験管を渡す。

 シルヴァン殿下は立ったままそれをあらためると、

「いい出来だ」と呟いて、その場で最後の仕上げをした。

「届けて参ります」


 差し出した手に、試験管が戻る。


「必要ない。あとで兄の近侍が取りに来る。お前は茶をいれろ」

「はい!」


 やったわ! 初めて殿下からお茶を望まれたわ!

 一ヵ月毎日毎日、いれてきた甲斐があるというものよ。


 推しの口に入るものだから、ひときわ丁寧にいれているのよ。

 お湯を沸かすのは魔法を使うけれど、それ以外はきちんと時間と状況をみているのだから。茶葉だって生産地やブランド違いを沢山取り揃えているし、水だって各地の軟水を試して一番お茶に合うものを取り寄せている。

 すべての努力は推しのため!

 あわよくば彼を落とすため!


 いれたてのお茶をお盆に置いて振り返ると、ラスボスは椅子の背にもたれかかって目をつむっていた。眉間にしわが寄っている。


 彼が会っていたのは陛下のはず。彼がもっとも残酷に苦しめたいと思っている相手だ。きっと、やりきれないことがあったのだろう。


 足音を忍ばせそばによると、ソーサーを静かに机に置く。ただし少しだけ、音が出るように加減をしながら。これでお茶がはいったと伝わるはず。

 雑用係は推しの邪魔をしないで、仕事に戻るのよ。


 だけど――。

 気のせいだと思うけれど、私の推しは、泣くのをこらえるような顔をしているように見える。


 私になにかできることはあるかしら?

 でも、そんなのは余計なことよね。

 

 しばし葛藤して。それから推しの頭をそっと撫でた。

 閉じられていた目が開く。


「……なにをしている?」

「私の大切な人をいたわっています」

 ラスボスは五歳で母親を亡くしている。王子である彼の頭をなでるひとは、母親のほかにはいなかっただろう。

 だから、私が。僭越だとは思うけど。

 ラスボスは虚無感のある目で私を見上げている。


 と、扉をノックする音がした。

 素早く手を引っ込める。ラスボスは姿勢を正して、偽物の笑顔を浮かべた。

「どうぞ」と柔らかな声が彼から発せられる。


 入って来たのは陛下の近侍だった。

「ベルジュ嬢」とシルヴァン殿下が笑顔のまま私を見たので、

「かしこまりました」と令嬢らしく答えて、自分用の机に試験管を取りにいった。


 近侍が去った後、ラスボスに『お嫌なら、もうしません』と伝えようかと思った。

 だけど嫌なら、自分から『二度とするな』と怒る人だと気づいたので、なにも言わなかった。

 そしてシルヴァン殿下も、何事もなかったかのように仕事を始めたのだった。


◇◇


 近頃、筆頭魔術師様は、時どき雑用係を連れ歩く。荷物を持たせ(軽いものだけだけど)、メモをとらせ、時には魔法を使わせることもある。

 本来の件(・・・・)以外でも有用だと判断してくれたらしい。


 両親は最初、彼のもとで働くことをよく思っていなかった。だけど、私が真剣に雑用係に取り組んでいる姿を見て、認めてくれるようになった。


 私はラスボスのお姿をそばで見られる時間が増えて、とても嬉しい。その代わり、すぐににやける顔を無表情に保つのが、とても大変だけど。


 ラスボスはこれから省内の会議に出席する。そして私も。筆頭魔術師専用の書記として。

 私たちは表用の表情と所作で、これから参加する大臣会議について話し合いながら廊下を進んでいた。


 そこへ、

「叔父上!」とややヒステリックな声がかけられた。

 王太子オラスだった。騎士たちに厳重に守られながら、廊下をやって来る。


 シルヴァン殿下が私にだけ聞こえる声で、

「面倒なのが来たぞ」と囁いた。


「叔父上、いい加減彼女を返してください!」

 オラスが私を指さす。

 失礼な。人を指さしてはなりませんと教わったはずよね?

 二十歳にもなってマナーも知らないのかしら。


「オラス殿下。私は己の意思で、雑用係をさせていただいているのです。シルヴァン殿下に責があるような物言いは失礼です」

「もう二ヶ月だぞ!」とオラスはまた叫ぶ。「お前が仕事をさぼるから、私がしなければならないのだ!」

「それはオラスの公務ですよね?」とラスボスが善人の顔で諭す。

「でもずっと彼女に任せてきた!」


 そのとおり。面倒なことだけは私に任せて、自分はなにもしなかった。

 私がエスコートが必要なときも、婚約者として共に踊らなければならない場面でも、彼は私のそばにはいなかった。

 いつだってその時間は、ほかの令嬢と過ごしていたのだから。

 

 オラスのことは好きではないから誰となにをしようが構わないけれど、努力を搾取され続けるのは、本当に我慢ならなかったのよね。

 そのせいで、婚約破棄のあとに悪役令嬢化してしまうわけだけど。


「『任せた』ではありませんわ、殿下。『押し付けた』でございましょう? ご自分の公務はご自分でなさってくださいませ」

「なんて狭量な!」


 んん?

 正論を言っただけなのに、私が狭量ってどういうことなの?


「オラス。彼女は今は私が正式に雇っています。仕事を任せたいのならば、私以上の賃金と労働条件を提示して、説得すればいいのではないでしょうか?」

 シルヴァン殿下が、にこりと天使のように微笑む。

 なんて素晴らしい提案なのかしら。猫をかぶっていなかったなら、スタンディングオベーションを送るとこよ。

 ラスボスのくせに、思考がホワイト企業だわ。

 だけどオラスは――


「賃金だなんて、低俗な。婚約関係でそんなものが発生するのは間違っています」と言った。

 うん、間違っているのはあなたの思考よ。


「私たちの意見は平行線のようですね」と善人仮面のシルヴァン殿下。「これ以上の議論は後日いたしましょう。会議に遅刻してしまうので、これで失礼しますよ」

「ダメです、話は終わっていません!」


 オラスが私たちの行く手をふさぐ。

 シルヴァン殿下は「失礼」と言うと私の手首を掴んで、短い呪文を唱えた。

 視界が歪み、浮遊感に包まれる。


 それが消えたときには、私たちは別の場所にいた。

 ちょっとだけ、気持ちが悪い。空間転移の魔法はかなり高度で、私にはできない。しかも呪文が短時間だったから、体が準備する間もなかった。


「ん? 酔いましたか?」とシルヴァン殿下が表向きの顔で尋ねる。

 首を縦に振ると、彼は再び「失礼」と言って私の額に手を触れた。

 そこから温かいものが流れ込んでくる。

 すぐに吐き気が消えた。


「ありがとうございます。さすが筆頭魔術師様ですね」

 シルヴァン殿下が、なぜか声を出さずに口を動かした。


『案外ザコだな』


 カッと頬が熱くなる。

 だから転移は高度なんだってば!

 予告なく急にやられたら、誰だってこうなるのよ!

 そう文句を言いたいけれど、ここでは誰の目があるかわからないから、口にすることはできない。


 諦めて歩き出そうとして、気がついた。

 ラスボスは『案外』と言った。

 それって、私を結構認めてくれているってことじゃない?


◇◇


 軽快な音楽が流れる王広間。今夜は新任の隣国大使の歓迎会が開かれている。

 つまり、王宮の公式行事。私は王太子の婚約者なのだから、王太子と共にいなければならない。


 でも、ひとり。

 オラスは私のエスコートをすっぽかして、小説の主人公ピアと一緒にいる。


 でも、こんなのはいつものことだもの。

『氷の令嬢』たる私は気にせずひとりで、『王太子の婚約者』として参加している。

 陰では『滑稽だ』と揶揄されているけど、知ったことではないわ。以前の私は傷ついていたけれど、今はもう大丈夫。


 だって私には推しがいるから。


 ラスボスは今日も善人の顔をして、自分を囲む貴族たちと談笑している。

 美しい笑顔に誰もが魅了されている。

 私だって大好きな顔よ。


 ……そうね。顔だった、ね。

 今一番好きなのは、私に嫌味をいってやろうというときの意地の悪い表情。

 彼は本当は腹黒い男なのだとよくわかる顔なのよ。

 

 この三ヵ月の間に、彼にだいぶ信頼されるようになった。

 小説内で起こる出来事を、小出しに三つほど教えたから。それで私の『予知夢』が本物だと確信してくれたのよね。


「あら、また氷の令嬢はおひとりなのね」

 揶揄を含んだ声が耳に届く。どちらかのご令嬢が、絶妙に私に聞こえるように話しているみたい。

 無視に限るわ。


「王太子殿下に嫌われているからって、聖人のようなシルヴァン殿下にまとわりついて。とんだアバズレね」

 そう言いたい気持ちはわかるわ。

 

 シルヴァン殿下は二十五歳にもなるのに、女性の影がまったくないのよね。ものすごくモテるのに、妻どころか婚約者も恋人もいない。

 どんな女性にも紳士的に、公平に、そして節度を持って接している。

 誰も特別扱いしない。


 そのことを彼は『初恋のひとを忘れられないから』と説明している。だけどそれが本当なのかは誰も知らないし、小説でも明らかにはならなかった。


 でもそんな人だからこそ、私が彼の雑用係をしていても、おかしな噂は立たないのよね。

 ひとびとができるのは、雑用係に立候補した私の悪口をいうことだけ。

 だから私はなにを言われたって、気にしないの。


「おや、ベルジュ嬢」

 呼びかけられて、ハッと我に返った。いつの間にかシルヴァン殿下がそばに来ていた。

「また、オラスはあなたのエスコートをしていないのですね」

 なぜか殿下は当たり前のことを言って、善良そうに困った表情を作った。


「あとで注意しておきます」

「いえ、構いませんわ。公務を肩代わりしない婚約者など、必要がないのでしょう」

 オラスの尻拭いをやめて、三ヵ月。彼は私の代わりを側近たちにさせている。彼らの不満はたまりにたまって、爆発寸前のようだ。気の毒だけど、だからといって私は肩代わりするつもりはないわ。


 ラスボスは悲し気な眼差しをする。

「甥と部下には幸せになっていただきたいのですが。難しいことなのでしょうか。胸が痛みます」

「ありがたいお言葉ですわ」

「いまだあなたが倒れた原因も特定できていないというのに」


 ん? 今、その話は必要かしら?

「調査への協力も改めて伝えましょう。でなければ、あなたはいつまでも私のもとで、雑用係を務めつづけなければなりませんものね」

 優し気に微笑むラスボス。


 ――つまり、『ベルジュ嬢が雑用係をしているのは、原因不明の体調不良の調査のためだよ、忘れたのかそこのボケカスたち?』ということを言いたいの?

 しかもオラスが非協力的だから、と?


 もしかしてあなたは、私を侮言から守ろうとしてくれているの?


 どうしよう。嬉しくて氷の表情が崩れてしまいそう。

 少しは私に関心を寄せてくれているの?


「ロクサーヌ!」

 今度は苛立たしげな声とともに、オラスが現れた。

「一曲踊るぞ」と有無を言わさず私の手を取る。「父上に命じられた。大使が誤解しているから、お前と踊ってこい、と。ありがたく思えよ」


『別にあなたとなんか踊りたくないわ』

 その言葉が喉元まで出かかったけれど、なんとか呑み込んだ。

 オラスは無理やり私を引っ張って、広間の中央に向かう。

 私は振り返ると、上司であるシルヴァン筆頭魔術師に一礼をした。


 彼は完璧な笑顔を浮かべて、軽くうなずいたのだった。


◇◇


 筆頭魔術師の執務室に飛び込むと、急いで扉をしめる。

「氷の令嬢らしくない振る舞いだな」と机に向かっていたシルヴァン殿下が鼻で笑う。

「あなた、やったわね!」

「なんのことだ?」とラスボスは首をかしげる。

「とぼけないで!」


 私は未来に起こることを、少しづつシルヴァン殿下に伝えている。目的は、私の『予知夢』を信じてもらうため。

 それで先日、とある事件のことを話した。


 休憩時間の近衛兵が、恋人に振られたことをきっかけに魔力が暴走。たまたま近くにいたオラスにも被害が及びそうになる。

 それを、彼と連れ立っていたヒロインが決死の覚悟で、助けるというもの。


 これをきっかけにヒロインの評判は上がり、オラスは婚約者を変えるべきだという風潮になる。

 小説ではターニングポイントのひとつとなる事件なのよね。


 ところが、これが起こらなかった。小説では大使歓迎会のきっちり一ヵ月後の出来事となっていたのだけど、昨日がその日だったのだ。


 どうしてなにも起こらなかったのかと不思議に思って調べたら、オラスは昨日遠方に視察に出かけていたし、全近衛兵に魔力安定のドロップが配られていた。どちらも手配したのはシルヴァン殿下だった。


「なんだ、そのことか」とラスボス。

「どうして手を出したの? これは大事な事件だと言ったわよね?」

「あの不愉快な小娘の評判が上がるのは、おもしろくない」

「不愉快……?」

 ヒロインにそれほど非はない。オラスが勝手に片思いをして、彼女のまわりに出没しているのだ。

 彼女は貧乏で貴族のマナーを知らないから、それを面白く思わない人たちがたんといるけれど、シルヴァン殿下までもそう思っているとは知らなかった。


 そもそも――


 思わず長いため息を吐く。


「オラスが婚約破棄をしてくれなくなると、困るのよ」

「お前からすればいいじゃないか」

「陛下が我が子可愛さに認めてくれないって、何度も言ったわよね?」


 陛下はオラスを溺愛している。母親である最初の王妃様とは恋愛結婚で、彼女が産んだ唯一の子供だからだ。だけど王妃様のご実家は、力のない男爵家だった。


 だからオラスに権力のある後見人をつけるという意味で、公爵令嬢の私が婚約者に選ばれた。


 陛下からすれば、私の気持ちなんてどうでもいいのだ。息子を助けるための駒に過ぎない。


「あなただって、よく知っているでしょう? どうしよう、婚約破棄が行われなかったら……」

「なんの問題がある。お前は見たのだろ? 俺がオラスを暗殺するのを」

「だけど失敗したわ。ピアが邪魔をするから」

「回避させてくれると言わなかったか?」

「そうだけど……」


 私たちは、そこまで立ち入った話をするようになっている。

 だけど私はひとつ、嘘をついている。回避はするけど、それは暗殺の失敗じゃない。暗殺計画そのものを、だ。


 シルヴァン殿下の復讐のターゲットは国王陛下だ。オラスを殺すのは、国王を苦しめるため。

 だから、よくないと思うのよ。ここ五ヶ月ほど一緒にいて、シルヴァン殿下のことがだいぶわかってきた。

 彼は繊細だ。それを復讐心だけで防御し隠している。


 オラスはろくでなし王子だけど、殺されるほどの悪人ではないし、罪もおかしていない。

 そんな彼を手にかければ、シルヴァン殿下はきっと後悔して精神のバランスを崩す。


 それは私の好きなラスボスの姿ではないわ。


「あなたが協力してくれないのなら、私も協力できないわ」

「ならば雑用係を今すぐやめろ。俺は問題ない」

「私がいなければ計画は失敗するわよ」

「成功させるさ。出ていけ」


 しばらくの間私たちはにらみ合った。

 どう考えても埒があかない。

 私は背を翻し、壁際のチェストに向かった。

 丁寧にお茶をいれる。なぜだか涙がにじんでよく見えない。だけど五ヶ月もここで同じことを繰り返してきたのだもの。多少視界が悪くても大丈夫。


 できあがったお茶を、シルヴァン殿下の机に置く、

「もう少し、いさせてくださいな」

「勝手にしろ」

 私の顔を見ることなく、シルヴァン殿下はそう言った。


◇◇


「ロクサーヌ・ベルジュ! お前との婚約は破棄する!」

 オラスの叫び声が王宮の廊下に響き渡った。


 やったわ! 婚約破棄だわ!

 小説とは場所も時間も違うけど、実行されたのだからそれでよし。


 一時期はどうなることかと心配だったもの。ヒロイン・ピアの評判をあげる事件がなくなって。その後も彼女が世間の好感を得る機会は一切なく、むしろ下がるような騒動が続いた。


 このままではまずいと、オラスが婚約破棄をしたくなるよう手を尽くした。どうやら効果があったみたい。よかったわ。これで彼から解放される!


「わかりました。謹んでお受けいたします。――国王陛下には殿下からご報告をお願いいたしますね。その代わり父には私が伝えますから」

「――言うことはそれだけか?」

「ほかになにを?」


 では失礼、と踵を返したところで、こちらに歩いてくるシルヴァン殿下の姿が目に入った。

 どうしてこんなところに、いるのかしら?

 執務室にいるはずなんだけど。


「叔父上!」とオラス。やけに醜悪な顔をしている。「あなたが返してくれないから、婚約は破棄してやりましたよ。私の捨てたものでよければ、差し上げます」


 まあ。なんて言い草なのかしら。耳目のある場所で王太子がしていい発言ではないわ。こんな短い一言の間で彼は、王弟と公爵父子を侮辱するなんて。


「ベルジュ公爵令嬢は私にはもったいない女性ですよ」と聖人のようだと賞賛されるラスボスが微笑む。「彼女にはきっと結婚の申し込みがたくさん殺到するでしょう。できることなら私の雑用係を継続できる方の元へ、嫁いでもらいたいものです」

「そんなものは、誰でもできるだろうに」と顔を歪めて笑うオラス。

「おや、耳に入っていませんか。魔術省は元より大臣たちの間でも、彼女の有能さが評判になっていることを」

「真面目な叔父上は世辞もおわかりにならないのか」

「いつもいつも、あなたには話が通じない」と言ってシルヴァン殿下は微笑んだ。

 そして私の腕をつかむ。


 視界が歪み、軽い浮遊感。

 それが消えたときには、私たちは筆頭魔術師の執務室にいた。

 誰もいない場所に来たことで、抑えていた感情が爆発した。


「ああ、やったわ! 婚約破棄よ! 成立したのよ! 私は自由だわ!」

「よかったな。足枷が消えたんだ、ゴリゴリ仕事をしてもらうぞ」

 と猫かぶりをやめたシルヴァン殿下が、不機嫌そうな表情で言う。


「もちろんよ。もう文句をつける人はいないのだもの。残業だってできてしまうわ!」

「契約外のことはするな。俺の評判が下がる」

「あなたのことを口説いても、問題ないのよ!」


 心臓が口から飛び出しそうなほどにドキドキしているけれど、平静を装ってそう告げた。


「やめろ、鬱陶しい!」

 吐き捨てるかのような激しい口調だった。

「……ひどいわ」と言って私は笑う。


 だけど、泣きそう。

 当初こそは、私の最推しを篭絡したいと張り切っていた。でも、もうずいぶん前から口説いていない。どうしてなのか、気軽に言葉にできなくなってしまったから。


「申し訳ないけれど、今日は早退させてくださいな。父に報告をしないといけないの」

 上司はあっさり許可をして、私は執務室を出た。

 こらえていた涙が零れ落ちる。


『鬱陶しい』は今までにも何度となく言われてきた。でも今日ほど気持ちが込められていたことはない。きっと本気で嫌がっているのだわ。


 少しは距離が近づいていると思っていたのだけど。

 完全に私の勘違いだったみたいね。


◇◇


 なぜなのか休日に国王陛下に呼び出された。

 理由にまったく心当たりがない。もしかしたら今頃になって、婚約破棄は認めないと言い出すのではないでしょうね?


 心配になりながら指定された部屋に向かっていると、その手前でシルヴァン殿下の声が聞こえてきた。陛下と話しているらしい。

 これでは盗み聞きになってしまう。早く声をかけなければ。


 案内の侍従と顔を見合わせてから、早足で進む。開け放たれた扉まであと少しというところで――


「シルヴァン。お前が望むなら、ベルジュ公爵令嬢と結婚して構わないのだぞ」という陛下の声が聞こえてきた。 

 これってどういうシチュエーションなの?

 思わず足が止まる。


「一生望むことなどありません。彼女と結婚だなんて怖気をふるう!」

 その口調は表向きの優しく甘いものではなく、本心からのものだった。

 わかっていたけれど、改めて言われるのはキツイ。


 扉のもとまで、辿り着く。

 中にいるふたりは、すぐに私に気がついた。

「陛下のご用件は、今ので終わりましたかしら。私もシルヴァン殿下に負担をかけたいとは微塵も思っていませんわ。では、失礼しますわね」


 来たばかりの廊下を引き返す。

 無礼なことをしている自覚はある。

 でも、とてもではないけれど、泣かないでいられる自信がなかった。


◇◇


 あの日以来、シルヴァン殿下には会っていない。

 雑用係は、辞めた。お父様が、新しい婚約者選びに支障が出ると言ったので、それを口実にした。

 このままでは私はストーカーになってしまいそうだから、さっさと他の人と結婚したほうがいい。


 ラスボスには、計画が失敗する要因について詳しく紙に書いて送った。これでもう私の出る幕はなくなった。


◇◇


 私の嫁ぎ先が決まったのは、オラスとピアの婚約お披露目会が開かれる直前だった。

 どういうことか私にまで招待状が届いたのだ。もしかすれば、オラスが私を嘲笑うためのお誘いなのかもしれない。

 出席したら、シルヴァン殿下のお顔を見ることにもなる。


 どうするか迷ったものの、参加をすることにした。


◇◇


 王宮に到着した私は、ひとりだけ別室にとおされた。理由は教えてもらえず、状況がわからない。

 だけどすぐに、理解した。私ははめられたのだ。

 足元に巨大な魔法陣が出現して、私は強制的に転移した。

 視界の歪みと軽い浮遊感。

 そのあとにやって来たのは、水だった。

 転移先は水中だったのだ。


 突然のことでパニックになり、水を大量に飲み、目も開けていられない。もがいてももがいても水中から出ることができずに息が苦しくなっていく。


 私に死んでほしいひとは誰だろう。

 オラス?

 それともシルヴァン殿下?


 用無しで、気持ちの悪い私なんて存在しないほうがいいということ?

 ――だったら、もがくだけ無駄ではないの?


 半年も一緒にいて、楽しいことがいっぱいあった。

 そう思っていたのは私だけだったのね。


◇◇


 私は死ななかった。シルヴァン殿下が助けてくれたらしい。

 魔法陣の光は窓を通して庭まで届いたそうで、それに気がついた近衛兵が私が消えるところを目撃したのだという。

 それで筆頭魔術師たるシルヴァン殿下が救出に当たってくれたのだとか。


 さぞかし嫌だっただろう。

 ただ、犯人は彼ではなかったらしい。オラスだった。私を懲らしめたかったと話しているそうだ。婚約破棄を宣告したときの、私の態度が悪かったからだとか。


 本人は軽い気持ちだったみたいだけど、立派な殺人未遂事件だ。

 さすがの陛下も庇えるレベルではなく、オラスは王太子の地位をはく奪されることが決まった。いずれ王籍から除籍されるらしい。


 小説とはだいぶ違う展開になってしまったのが気になるところだけど、正直いって、どうでもいい。私が気になるのは、ラスボスであるシルヴァン殿下がどう行動するか。

 できることなら王宮に駆けつけて、シルヴァン殿下と話し合いたい。彼にその気持ちがなくとも。


 ただ、死にかけた私はかなり体力を消耗してしまったらしい。

 もう三日も経つのに、いまだに寝込んでいる。

 だけどのんびりしている時間はないのよ。


 気力を振り絞り起き上がると、ひとりで着替え始めた。メイドを呼ぶと、きっと止められる。


 長い時間と体力を使ってなんとか服を着終えたとき、寝室の扉が勢いよく開いてお父様が飛びこんできた。


「ロクサーヌ! シルヴァン殿下が――!」

 まさか、もう暗殺を!?


「このままではお亡くなりになってしまう!」

 え?

「どういうことですか、お父様!」


◇◇


『ロクサーヌが辞めてから、シルヴァン殿下は寝食を忘れるほど仕事に没頭していたらしい。周囲が心配になるほどに。それがお前を助けたあの日から――』


 王宮の一角にあるシルヴァン殿下の私室。そこに向けて全力で走る。

 弱った体では立ち向かえないから、モンベル前筆頭魔術師様に魔法をかけてもらった。


 私室に通じる最後の角を曲がり、思わず息をのんだ。行く手が凄まじく破壊されている。建物の原形をとどめず瓦礫の山と化しているのだ。天井も抜け落ち、上階が見えている。その中心近くには巨大な黒い渦があった。そこから黒いモヤが広範囲に広がっている。


「おお、ベルジュ公爵令嬢!」

 廊下を塞ぐように並んでいた近衛兵と魔術師の中から、国王陛下が走り出てきた。

「来てくれたのは嬉しいが、ここは危険だ。さがりなさい」

「シルヴァン殿下は……?」

 尋ねる声が情けなく震えた。

「あそこだ」と陛下が黒い渦を指した。「魔力の暴走だ」


「ですが、あんな規模も黒い魔力は見たことがありませんぞ」と私の後ろから声がする。近衛兵に背負われてここまでやってきたモンベル様だった。

「おお、モンベル殿も来てくださったか」と陛下。「シルヴァンを助けてくれ。魔術師が束になっても抑えられない。このままでは一刻ももたないのだろう? もうあなただけが頼りなのだ」

「できる限りのことはしますが……」


「私が行きます」


 もとよりそのつもりで来たのだもの。すでにモンベル様に防御魔法もかけてもらっている。

「シルヴァン殿下は私が助けます」

「いや、ご令嬢。先ほどの魔法ではあれに太刀打ちできるとは思えない」

「ならば重ねてかけてくださいな。おそばにさえ行ければ、きっと大丈夫です。時間が惜しいので議論はしません。さあ、早く」


 防御魔法を重ね掛けしてもらうと、走ってシルヴァン殿下の元へ向かう。だけれど黒いモヤの中に入ったら、急速に苦しくなった。

 全身が重く、手も足もうまく動かない。息が吸えず、視界はぼやけ、頭が重い。

 でも、この中にシルヴァン殿下はいる。私よりももっと苦しいはずだ。


 見えないなにかに圧し潰されそうになりながら、必死に前に進む。

 モヤはいっそう濃くなり、私は渦に入った。


 その中に黒い人型の塊がいた。ゆらゆらと揺れている。

「シルヴァン殿下!」

 名を叫ぶと、彼が大きく揺れた。

「シルヴァン殿下!」

 彼の名前を呼び続けながら、そばに寄る。口から入り込むモヤのせいで、喉が焼けるように痛い。でも、それがなんだっていうの?


 私は前世の記憶がよみがえったとき、絶対に彼を死なせないと決めたのよ。


 やっとのことで目前まできて、塊の中にシルヴァン殿下の姿があることがわかった。


 よかった……!

 

 ほっとして涙がにじむ。

 だけど彼はうつろな目をして、揺れているだけ。私のことには気づいていない。


「シルヴァン殿下」

 彼の頬に触れる。氷のように冷たい。

「これを――」

 ポケットの中から小さな缶を取り出し、彼の顔の前でフタを開けた。

 とたんに芳醇なアップルティーの香りが広がる。

 茶葉に魔法で濃縮した香りを閉じ込めたものだ。


 シルヴァン殿下の頬がぴくりと動いた。

「『シルヴァン。アップルティーがはいりましたよ。さあ、お母様と一緒にいただきましょう』」

 それは彼とお母様の、最後の幸せなひとときに交わされた言葉だ。


 小説にはそう書いてあった。

 このあと母君様は、都を席巻していた謎の奇病に倒れ、帰らぬひととなった。

 そしてそのことが、シルヴァン殿下が国王陛下に復讐したい原因なのだ。


 だからきっと、これでシルヴァン殿下は正気に戻る。

 いまだに彼はアップルティーを大切そうに飲むのだから。


「ほら。アップルティーですよ」

 震える声で、言葉を継ぐ。

 お願い。

 気がついて。



 彼の瞳がかすかに動いた。

「シルヴァン殿下!」

「……ロクサーヌ?」

「そうです、ロクサーヌです! 殿下!」

 彼の瞳がさらに動いて私を見た。

「殿下っ!」

 その頬に触れる。

「アップルティーをいれますから!」


 暗殺の計画が少し狂ったぐらい、なんとでもなるわ。陛下に復讐したいというのならば、手伝う。

 シルヴァン殿下が壊れてしまうくらいなら、私がなんだってする。だから――


「お願い。一緒にお休みしましょう?」 

「……ロクサーヌ!」

 シルヴァン殿下がはっきりと声を出し、私を抱き寄せた。

 黒いモヤがみるみるうちに消えていく。

 圧し潰されそうな圧も不快感も、あっという間に消え去った。


「シルヴァン殿下」

 名前を呼んで、抱き返す。

 ああ、でもまずいわ。いつの間にかお母様の演技を忘れていたわ。


 だけど、もう大丈夫かしら。


「ロクサーヌ」

「はい」

 というか、名前をシルヴァン殿下に呼ばれるのは初めてじゃないかしら?

 えっと待って。よく考えたら私、大好きなひとと抱き合っているのだわ。


 彼を正気に戻すためだけど!

 どうしよう。殿下があとで怒らないかしら。


「ロクサーヌ、好きだ」

「はい――え?」

「好きだ」

 シルヴァン殿下が私をぎゅうぎゅうと強く抱きしめる。

「頼む。いなくならないでくれ。ロクサーヌを失うくらいなら、全世界をぶち壊したほうがマシだ」


 えええええ――――??


◇◇


 シルヴァン殿下が魔力暴走によって、おかしくなってしまった。

 そう思ったのだけど、違ったらしい。


 彼は本当に私を好きみたいだ。


「そうではないかと思っていたんだ。オラスが婚約破棄をやらかしたときのことを聞いて」と陛下がため息をつく。

 私の目前には陛下ご夫妻がすわっている。


 傍らのベッドには、モンベル様から治療を受けているシルヴァン殿下が眠っている。あのあと倒れてしまっていまだ目を覚ましていないけれど、心配はないらしい。

 寝息は穏やかだし、体温も戻っている。


「でも殿下は私なんて『怖気がふるう』と」

「特別だからだよ」と陛下。「彼の母親がどうして亡くなったか、知っているかな?」

「流行り病だと」


 でも死の原因は、陛下にある。病の特効薬は流通しており、それさえ服用すれば助かったのだ。

 ただ、生産が追いついていなかった。


 シルヴァン殿下のお母様のもとにようやくその薬が届くというときに、陛下の妃が病にかかった。オラスがお腹におり、臨月だった。だから陛下は、シルヴァン殿下のお母様のものだった薬を奪ったのだ。


 本人の承諾を得てのことらしい。

 だけどお母様は次の薬では間に合わずに亡くなった。王妃様はご回復されオラスを産んだ。三年前に事故でなくなったけれど、子煩悩で素敵な母親だった。


 王の我儘のせいで大好きな母親を亡くした五歳のシルヴァン殿下が、どれほど絶望したかは想像もできない。

 しかも王妃は子供に好きなだけ愛情を注ぎ続けることができ、オラスは愛情を享受することができた。

 それは自分と母親が奪われた幸せだ。


「そう、流行り病だ。ただ、私にも多大なる非がある。そのことはいずれ話すが、母親の死によってあの子は、大切な人を持つことを恐れるようになったようだ」

 だから結婚もせず、恋人も持たず、誰かを特別扱いすることもなかったのだと、陛下は言った。


「シルヴァンにとって君はなによりも大切だった。だから、結婚したくなかったんだ」

「失う恐ろしさを考えたら、最初から得ていないほうがいいということね」と王妃様が嘆息する。

「そうだ。私はあの子のトラウマの原因だし、見守るしかないと思っていたんだ。そうしたら、あのバカ息子が――」


 オラスによって私は庭園の池に沈められた。シルヴァン殿下が助けてくれたと聞いていたが、それは魔法を使ったのではなく、自ら池に飛び込んでのことだったという。

 私の無事がわかったあとも、彼の動揺は激しいものだったらしい。


「動揺というよりは恐慌ね」と王妃様。「彼のあんな姿は誰も見たことがなかったわ」


 殿下は私を魔術師に託すと、転移して姿を消した。

 そして侍従が気づいたときには、自室で黒い渦に取り囲まれていたという。


「魔術師を集めて魔力の暴走を抑えようとしたのだが、どうにもならなくてな。ベルジュ令嬢が引き金だとはわかっていたが、あれを見た君がシルヴァンを恐れたらと思うと、呼ぶことはできなかった」

「恐れるはずがないではありませんか」

 だって私は、彼が禁忌の黒魔術を使い、甥の暗殺を実行に移すような人間だと知っているのだから。

 

 椅子から立ち上がり、ベッドに行く。

 手を伸ばし、シルヴァン殿下の頭をそっと撫でる。


「生半可な覚悟で雑務係に立候補したわけでは、ありませんのよ?」


◇◇


 いつの間にか眠ってしまったらしい。

 部屋は窓から入る夕陽の光で橙色に染められている。

 寝台にもたれていた頭を起こすと、シルヴァン殿下と目が合った。半身を起こして私を見下ろしている。


「殿下。お目覚めになったのね。どうして起こしてくれなかったの?」

「夢でないか、心配だった」

 そう言って彼は表情のない顔で手を伸ばしてきたけれど、私の顔に触れる直前で止まった。


 その手を握り、頬に当てる。


「ほら。夢ではないわ」

「……そのようだ」

「シルヴァン殿下。あなたが好き。おそばにおいてくださいな」


 縁談はお断りしたいとお父様にお願いをした。幸いなことにまだ、先方との話は進んでいなかったらしい。


「私、有用よ? 毎日あなたの好きなお茶をいれるもの」

 シルヴァン殿下の顔は無表情のままだ。

「俺はアップルティーが好きだった」

 あら。過去形なの?


「今はアップルティーを優しい顔でいれる、ロクサーヌが好きだ」

「嬉しいわ」

「いつだったかは傷つけて悪かった。ロクサーヌが来るとは知らなかったんだ」

「たくさん泣いたわ。でももういいの。今とっても幸せな気分だから」


 シルヴァン殿下が微笑む。

 偽物でも、意地の悪いものでもなかった。


◇◇


 その後。

 オラスは廃嫡され、僻地の廃城に幽閉されている。

 ヒロインのピアはオラスが私を殺しかけたことを知ったその場で、婚約証書を破り捨てたという。

 彼女はオラスと違って、純粋な子だった。かなりのショックを受けたらしく、自ら貴族籍からの離脱を申し出た。そしてそのまま放浪の旅に出たそうだ。


 令嬢なのに放浪って大丈夫なのかと心配になった。けれど、そもそも『成り上がる』小説の主人公だもの。きっと大物になって成功するのだと思う。


 そしてラスボスのシルヴァン。

 彼は国王陛下への復讐をやめた。許したわけではない。


「そんなことより、ロクサーヌを可愛がるのに忙しい」からだそう。


 魔力暴走したときを境に、彼は変わってしまった。

 常に柔らかな笑みをたたえて、誰にでも優しかったシルヴァン殿下はもういない。

 今はつねに無愛想で、嫌悪の感情を隠すことなく口にする。


 その代わり、私には甘い。異常なまでに甘い。

 いつだって蕩けるような笑みを浮かべているし、口を開けば『可愛い』『愛している』のオンパレード。時どき思い出したかのように、意地悪な口調に戻ってそれもまたキュンとする。

 

 今や私たちは、一日中一緒に過ごしている。

 私は雑用係に復帰したから、仕事中は当然同じ部屋にいるでしょ?

 それからプライベート。シルヴァンたっての願いで婚約したのと同時に、私は王宮に引っ越した。

 一応『花嫁修業のため』という名目があるけど、誰も信じていない。そんなものは王太子の婚約者時代に終わらせてしまっているもの。


 でもみんな、シルヴァンが魔力暴走を起こすよりは、行き過ぎた溺愛を見守るほうがずっといい、と考えているみたい。

 私もそう思うわ。


 あの暴走、私が死ぬ恐怖と、愛することへの葛藤と、他の男へ渡したくないという嫉妬のコンボで起きたらしいのだもの。


 お父様との結婚式の打ち合わせを終えて、筆頭魔術師の執務室に入ると、シルヴァンがチェストの前でなにやらしている。


「どうしたの?」

 と声をかけたとき、鼻に甘くフルーティーな香りが届いた。

「いれてもらっているばかりだからな」

 と、シルヴァンが照れた様子でお茶の入ったカップを差し出した。


「まあ、嬉しいわ。ありがとう!」

「キスと言葉だけでは、やがて見捨てられると魔術師たちが教えてくれた」

「素敵!」

 一口飲んでみる。爽やかな香りとスッキリした味わいが口いっぱいに広がる。


「マスカットティーね」

「これなら君も飲めるだろ?」

「ありがとう!」


 カップを置くと、背伸びをしてシルヴァンの頬にキスをした。

 そのまま抱きしめられそうだったので、胸を押して離れる。


「せっかくいれてくれたのだもの。お茶を飲みたいわ」

「ならば、そのあとは俺のための時間だ」

 

 シルヴァンは私を抱えたまま、椅子に座った。あとからカップが宙を漂ってやってくる。

 それをキャッチして。

「シルヴァン! これでは落ち着いて飲めないわ」

「ロクサーヌが可愛いのがいけない」


 ちゅっと首筋にキスを落とされる。

 まあ、いいか。

 雑用係になった理由は、彼の様々な姿を楽しむことだったのだものね。

 私は誰よりもシルヴァンを堪能しているわ。

 



《おしまい》

☆おねがい☆


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感想を言いたいけど、なにを書けばいいかわからない…という方、ひとこと「読んだ!」や顔文字「ヽ(=´▽`=)ノ」でも、新はとても嬉しいです!


☆おしらせ☆


連載『私を殺す攻略対象と、赤い糸でつながっているのですが!?』を始めました!

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