プロローグ
玉座の間にただ静寂が響く。しかし空気の方は全く重みを持っていなかった。落ち着き払ったリッチが。ぼろ衣を纏ったおしゃべりなリッチが。とにもかくにも呑気調子なせいだ。
「ザーラス陛下。城門が突破されたようですよ」
「そのようだな、ナギ」
「最後の魔王軍は潰走はおろか掃討されております」
「そのようだな、ナギ」
「魔王討伐隊が、ここにたどり着くのはそろそろでしょうか」
「そのようだな、ナギ」
二人しかいない、伽藍堂のような魔王城。ナギの間延びした語り口が余計に鬱陶しく際立つ。
「敵といえど礼節を欠くのは品位に欠けますでしょう。そろそろお茶を入れる、丁度よい頃合いでしょうか」
「ナギ…」
私は玉座から腰を上げた。
見下ろす形になると、元々小さいこの側近がますます小さく見える。あるいは、私が巨躯すぎるとも言えるか。
そして、わざわざこの大きく重い腰を上げたのは、思いの丈を叫んでやらなければならないからだ。いくぞ。
「何が茶だこのバカたれが! 今! まさに! まさにだ! 魔族存亡の危機が迫っているのだぞ!?」
「貴様、忠臣なら民と王を救う策を必死になって考えるところだろうが! もてなしの評価など心配している場合ではないだろう!」
もう滅茶苦茶にナギの体を揺さぶる。リッチのナギに体重などあるべくもない。布切れを振り回す虚しい感覚が残るだけだ。わかっていても、感情のままにナギをぶんまわすより無かった。
無論、ナギはそのふざけた態度を崩さないのだから、甲斐など望むべくもない。
「ほとんどの民が、世を去っていますから。焦る必要もないのでございます」
「それに僭越ながら、わたくしは陛下のお力をいみじく信用しているのです」
「陛下が敵様を単独で打ち倒せば、円満にことは解決でしょう。信頼の証にございますよ信頼の」
「昔から、その屁理屈癖は本当に治らんな貴様はペラペラペラペラと!」
こやつ投げ捨てようかと思ったその矢先、金属のぶつかる轟音が雰囲気を征す。
開け放しになった扉。その中心に立つ影。
そこを目掛けて右手をかざす。すかさず、撃つ。撃つ。撃つ。爆せる闇の魔法。
立ち込める硝煙。すぐに引き裂かれる。
飛び出してきた一人の男。その手には剣。勇者、その絶技が閃く。軌跡が、無数の軌跡が、私を襲う。
だが、届かない。当然だ。魔王であるがゆえに無双。無双であるがゆえに魔王なのだから。
「討伐『隊』だと? フン、一人じゃないか」
「我が軍勢は、討伐隊を壊滅させた強き者共か? それともたった一人に負けた弱き者共か?」
「教えてくれ」
眼前に強者。虚しさも怒りも忘れ、ただただ血が滾る。魔族の証、魔族の性。
拳を握る。闇が渦巻いて。あまねく者に向けてきた拳を今、彼に向ける。
私の構えを前にしてなお、勇者の猛攻は止まらない。斬る。何度も。何度も。
「素晴らしい。素晴らしい。なんという力」
素晴らしい。並大抵の技ではない。どんな強者も、この剣技を前にすれば、絶命は免れないだろう。だが…
「私は死なない。魔王であるがゆえに」
そうだ。魔王であるがゆえに。相手がどれほど強くても。相手がどれほど無敵でも。この拳は必ず届く。悔いをゆるさぬ拳。
逃れた者は、いない。
『魔王拳』
黒き腕が、叩き潰す。発する闇が。ぶつかる闇が。大気を震わせる。地を割る。条理ごと、打ち砕くーーー
だが、だが。男は生きていた。私の拳を受け止めていた。
「どういう…ことだ?」
「貴様、そんなことはあり得ない」
魔王拳は総てを打ち砕く。だからこそ、この男が生きているはずがないのだ。拳を引こうとするが、腕を掴まれてそれも叶わない。
勇者が初めて、口を開く。
「この拳。本当に規格外だ」
「でも」
「俺も規格外なんだ。終わりだ」
そんな言葉で納得できるものか。不満の一つでも言ってやりたい。しかし、実際に、私の拳が初めて届かなかったのだ。嫌でも認めざるを得ない。
負けた。
剣を捨てた、やつの拳が何かを纏って。私を貫いた。
ナギが何かを喋っている。その語り口はおそらくいつもと変わらない。最期までぶれないやつだ。その声が、幼い頃から聞いてきた声が、走馬灯を誘う。ああ。魔王になる過程で、強者を殴り倒しまくった記憶ばかりだ。ろくでもない。いや、一つだけ、雰囲気を異にする記憶があって…それを思い出すには…時間がなさすぎた。
暗闇が、やって来てしまった。