オーソドックスな文学作品
トマス・サトペンの物語はそのようなものです。彼の精神的動機は、黒人の召使いに軽蔑的に扱われたという少年時のたった一つのエピソードでした。そんなエピソードは何でもないと人は言うかもしれませんが、人は、大抵他人にはくだらないと思われるような事柄に固執して生きるものです。また文学はそういうものを描くのだと思います。
そうして発生したサトペンの野心は、彼自身を引きずって運動していきます。「人が理想を掴むのではない。理想が人を掴むのだ」という言葉がありますが、野心とか夢とかいったものも、それが成長していくと、それ自体がその本人を操り、動かしていくものとなります。私は、ナポレオンのような人は、彼自身が彼の夢の一兵卒だったと考えています。ナポレオンが理想を掴んだのではなく、理想がナポレオンを掴んだのです。
ナポレオンは自らの理想の為の第一の奴隷となって働きました。彼は他人から見れば恐ろしいエゴイストに見えたでしょうが、本人からすると無私の人だったのでしょう。ナポレオンの野心は、ナポレオンその人を道具として酷使し、最後にナポレオンを殺すところまで行きました。ナポレオンが悲劇的な人生を生きたように見えるのは、彼が恣意ではないものに自らを委ねた為なのではないでしょうか。
サトペンはナポレオンほどに巨大な人間ではないですが、自らの野心に取り憑かれたという意味ではよく似ています。もちろん、彼らの野心は結局は彼らが生み出したものなので、同情できるとはいえ「自己責任」なのは間違いないですが、もう少し考えると、これらの悲劇的な人生はそもそも「自己とは何か」という問いを孕んでいると思います。
私はこの文章の最初で、「「アブサロム、アブサロム!」は文学としてオーソドックス」だという事を言いました。この作品がオーソドックスだと言ったのは、こうした人間の悲劇を的確に描いているからです。人間が自らの夢に捉えられ、それ故に破滅するという普遍的な悲劇を取り扱っているからです。
「オイディプス王」のような作品においては、人間の運命を規定するのは神の託宣ですが、近代においては人間の意志=欲望が人間を決定していきます。人間という相対的な存在に対して、人間が勝てっこない神とか、自然、歴史とかいったものが人間の運命を規定する。それが古代の悲劇の主調音でしたが、近代においては人間の力がより自覚されてきた為に、人間が自らの力の強さ故に滅ぶという事がテーマになっています。
そのテーマを偉大に展開したのがシェイクスピアだと私は思います。ただ、シェイクスピアにおいては人間の意志は、客体的なものとまだ融合して存在しています。「マクベス」において、マクベスは魔女の言葉に従って成功しますが、魔女の言葉に従って破滅します。魔女は、マクベス自身の秘められた欲望を語るものであり、同時にマクベス自身の運命を決定する客体的な存在です。シェイクスピアにおいては、人間の意志は完全に自立したものとして現れてはいません。
シェイクスピアを越えた作家と言ってもいいドストエフスキーは、人間の意志の問題を更に強く展開しました。「罪と罰」のラスコーリニコフは、自らの肥大した野心に自らが耐えられず、最後には罪を自覚し、自首します。ここでは、人間が自らの意志を絶対視する危険性そのものが物語として展開されています。
その他にも色々言えるでしょうが、そうした人間の悲劇を取り扱っているのが「文学」だと私は考えています。そういう意味において、「アブサロム、アブサロム!」はオーソドックスな文学作品であると思います。この作品はアメリカ南部の盛衰をトマス・サトペンという一人の人物に託して描いたものでしょうが、同時に、そうした個別的な物語を普遍的な人間の作品に仕上げる事が、作者フォークナーによって目指されています。
だからこそ、私が大仰な比喩と呼んだ、抽象的な比喩を作品内にふんだんに散りばめたのでしょう。現実的、個別的な事柄を、その奥底にあるものを描く事によって、違う民族、違う時代の人々にも通じる普遍的なものに昇華しようという欲求もまた文学の基本と言えます。そういう意味でも「アブサロム、アブサロム!」はオーソドックスな文学作品であると感じました。
「アブサロム、アブサロム!」がオーソドックスな文学作品だと感じた、というのは大体そういう意味です。この作品の中心に位置するのはあくまでもトマス・サトペンであり、その野心が紡ぎ出すドラマですが、彼よりも精神の弱い人は、彼の傀儡となりながらも、彼に歯向かっていきます。この世界の複雑性は強いものが弱いものを支配するという一方向に運動するだけではなく、弱いものが弱さ故に強いものを支配する事もあります。西郷隆盛と弟子の関係もそんな風だと思います。
私にとっては「アブサロム、アブサロム!」はそういう作品でした。語りの複雑性と間接性によって多少薄れているものも、その奥にあるのはオーソドックスかつ本格的な文学作品としての相貌であると感じたので、私にとっては良い読書体験でした。この作品を通じて私はより、文学とは何を描くのか、その事に対するヒントが与えられたように思いました。