悲劇の発端
欠点についてはこれで片付いたので、ここからは作品の本質について私なりに考えていこうと思います。
その前に、トマス・サトペンにまつわるもう一つのエピソードについて説明しておいた方がいいでしょう。それはサトペン自身が死ぬエピソードです。サトペンの破滅を表すのは、このエピソードと、上記のヘンリーのチャールズ殺害事件の二つ、この二つが特に大きいと思います。
サトペンが初老の年齢に差し掛かった頃の話です。上記の殺人事件の為に、息子の一人は殺され、もう一人は殺人犯になってしまいました。サトペンは、巨大な邸宅を持ち、自分の王国を作るのが夢でした。この夢が生まれたのはある事柄が原因ですが、それは後で説明します。この王国は、サトペンの息子が継がなければならない。サトペンはそう考えていました。ですが、今言ったように息子二人はもう跡取りとして期待できません。
そこでサトペンは自らの土地に住んでいたウォッシュ・ジョーンズの孫娘に目を付けます。娘はまだ15才ですが、彼女を誘惑したのか、言いくるめたのか、そのあたりはよくわかりませんが、彼女と関係を持ち、無理矢理に子供を生ませます。しかし生まれたのは娘だったので、サトペンは娘に侮辱的な言葉を浴びせかけます。
孫娘と関係し、子供を生ませ、更には侮辱したサトペンに、祖父のウォッシュ・ジョーンズは怒り狂い、サトペンを殺害します。ジョーンズはその後に孫娘も殺してしまいます。二人を殺したジョーンズは、民警団に殺されます。これで、サトペンの夢は破れます。これがサトペンの破滅の重要なエピソードの第二です。
このエピソードで強調しておきたいのは、サトペンを殺したウォッシュ・ジョーンズという人物も元々は、サトペンの言いなりだったという事です。ジョーンズがそういう独白をする場面があります。「わしはあんたの命令に背いた事がなかった」とかなんとか、そんな感じです。
これらのエピソードを概観してわかるのは、サトペンの破滅は全て、サトペンに精神的に支配されていた人間が引き起こしたという事です。ヘンリーやチャールズ・ボン、ウォッシュ・ジョーンズ、ジュディス、ジョーンズの孫娘。これらのキャラクターの背後にあるのはサトペンその人であり、またそのようなサトペンを突き動かしていたのはサトペンの王国設立の夢です。この複雑な作品の中心に台風の目のように位置するのはトマス・サトペンであり、またサトペンの野心です。それらが渦を巻いて全体を構成しており、それはやがてサトペン自身を破滅に導きます。
こうした事態は人間にとって普遍的な事とも言えます。わかりやすく言えば、人間が人工知能を生み出し、その人工知能によって人間が滅ぼされるというような事です。私が思い起こすのは西郷隆盛で、西郷隆盛は自らの精神的な末子と言っていい、弟子達に引きずられるように破滅していきました。自分の思想を完全にコピーした他の人間がいたとしても、それが「他者」である事によって、本人には思い寄らないドラマが引き起こされます。こうした事は過去、人間に普通に起こってきた事だと思います。
さて、それではその台風の中心になっているトマス・サトペンとはどういう人物だったのでしょうか。いや、トマス・サトペンというより、トマス・サトペンという個人を動かしていた彼の野心、夢というのはそもそもどういうものだったのでしょうか。ここに私はこの作品を読み解く鍵があるように思います。
サトペンが野心を持つようになったエピソードは作品の後半部に描かれています。サトペンがまだ子供の頃、用事を言いつけられて、ある金持ちの家に行きます。すると、用事を話す前に黒人の召使いが現れて、侮蔑的な言葉を投げつけられます。サトペンはショックを受けてすごすごと引き返し、その事について、繰り返し反芻して考えます。彼は、のっけから自分を汚いものでもあるかのように取り扱った召使いの態度にショックを受けたのです。サトペンの生涯に火をつけたエピソードとは、たったこれだけのものです。
このエピソードには何があるのでしょうか。私は、それは、この時にこの少年がこの世界の真実を知った、という事だと思います。真実というのは、現実というのは理想的な、滑らかなものではなく、不合理で、でこぼことしていて、そして何よりも「力」が支配しているという事です。
サトペンは、このエピソードに出会う前は「無垢」だったと作者は繰り返し注意しています。サトペンは用事を話す前から、黒人の召使いに見下され、人間扱いされませんでした。これは今にも通じる問題と言っていいでしょう。例えば、我々の社会においても「社員には挨拶するけど、バイトには挨拶しない」とった人はたしかに存在します。彼にとっては対象の「人間」は問題ではなく、人間が作り出した権威が問題なのです。こうした人は人類が文明化して以来ずっといたでしょうし、これからも居続けるでしょう。
無垢な少年のサトペンは、黒人の召使いに出会うまでは、少なくとも自分は一人の人間であり、たとえどのような地位であろうと、立場であろうと、一人の人間として扱われると無意識的に期待していました。もちろん、彼には「どのような地位であろうと」というような社会的観念があったわけではないですが、少なくとも、彼は一人の人間として、他の人間と普通に関われると期待していたのです。
それが、そういう甘い観念が通用しない世界があると彼は知ったのです。黒人の召使いにそのような態度を取らせたのはその主人の地位であり、更にその主人の存在を許しているこの世界そのものーーそれが一つの巨大な現実としてサトペンの眼に降り掛かってきたのでしょう。
ここからサトペンの野心が始まりました。彼の黒人嫌悪もそこに端を発しているのでしょう。彼は、いわば怪物に打ち勝とうとして自身が怪物になってしまった人間に例えられます。彼は、彼を押し潰した現実に打ち勝とうとして、自らもその現実になってしまい、そうしてその自重によって自身も滅びてしまいました。彼は、彼を軽蔑した金持ちよりももっと大きな自分だけの世界を作ろうとし、その世界を維持する為に強引に子供を作り、その強引さ故に殺される事になりました。
だから、サトペンの野心の発端は、アメリカの南部に限定されるものではないと私は思います。そうではなく、現代の我々にも通底するテーマではないかと思います。それはこの世界が、現実には力で支配されており、力がものを言う世界だという事です。そしてその事に徹底的に気づく瞬間というのがある種の個人にはあるのだと思います。例えば、学者の丸山真男は、左翼学生と見られて警察の取り調べを受けた時、随分ひどい扱いを受けたそうですが(殴られたりしたのでしょう)、取り調べを受けて外に出た時、警察の建物の裏でバナナの叩き売りをしているのに衝撃を受けたそうです。
さっきまでは理不尽な血と暴力が支配していたにも関わらず、そこから一歩外に出ると、平和で日常的な「バナナの叩き売り」が展開されている。この光景のコントラストに丸山は衝撃を受けたそうです。丸山真男はその時、彼なりに世界の相貌を発見したのでしょう。彼は、この世界がそんな風に異なった風景を平気で同居させるような、矛盾に満ちたものだと知ったのでしょう。
こうした精神的な衝撃が、丸山を単なる東大の優等生学者という立場から抜け出させ、一個の思想家に作り上げていったと私は思います。そうした経験を通じて人は何かに気づくのだと思います。