欠点一 語りの複雑さ
一つは、語りが複雑すぎる事です。また、語りが間接的過ぎて、トマス・サトペンという主人物の姿が作品終盤になるまで見えてこない事です。
通常、小説におけるキャラクターがその印象を読者に与えるのには二つの方法があります。一つはキャラクターの行為を描く事、もう一つはキャラクターが「」で喋る事です。
この場合、特に二つ目の「」で喋る事が重要と思われます。あるキャラクターが「」で話す事は、そのキャラクターの印象をほとんど決定づけると言っていいでしょう。シェイクスピアの作品におけるキャラクターのセリフの重要性は言うまでもないと思います。シェイクスピアにおいては、キャラクターの行為は、キャラクターのセリフを裏付けるものであるように私は感じます。それほどに、言葉で自分を表現するというのは、読者に強い印象を与えます。
この場合、()で内心を打ち明けるのも、私は「」で話すのと同じ事と捉えます。()で内心を打ち明けるとか、「」で会話するというのは、そのキャラクターの本質を読者に伝える重要な要素です。キャラクターの行為を描く事ももちろん重要ですが、それ以上に「」のセリフは、読者に、キャラクターに対する直接的な印象を与えます。
ですが、「アブサロム、アブサロム!」では語りの技巧が複雑化しており、あまりに間接的になっているので、トマス・サトペンのセリフは作品終盤までほとんど見られません。その為に、読者は、トマス・サトペンというキャラクターに対する印象が遠回りすぎて、いまいちこの人物が把握しきれません。トマス・サトペンがわからないという事は、この作品全体がわからないという事とイコールと言っていいでしょう。トマス・サトペンはそれほど重要な人物です。
作品の筋としては、トマス・サトペンの息子ヘンリーが腹違いの兄弟チャールズ・ボンを殺害するという事が重要となっています。解説すると、トマス・サトペンは、若い頃に、プランテーションの所有者の娘と結婚し、娘はチャールズ・ボンを産みます。しかし、娘が黒人との混血だと後から知らされ、サトペンは裏切られたと感じ、娘と離縁します。
その後、サトペンはエレンという娘と結婚して、二人の子供が産まれます。一人がヘンリーでもう一人がジュディスです。ヘンリーは男で、ジュディスは女です。ヘンリーは長じて、運命の偶然か、大学でチャールズ・ボンと仲良くなります。
ヘンリーは、妹のジュディスに近親相姦的な愛情を抱いています。また、親友のチャールズ・ボンに対しても親友として強い情愛を抱いています。ヘンリーはその感情を間接的に成就させる為に、チャールズ・ボンとジュディスを結婚させようとします。
ですが、二人が結婚すると、チャールズとジュディスは腹違いの兄妹なので、近親相姦となってしまいます。サトペンは近親相姦を防ぐ為、また、黒人の血を持った子孫を回避する為に、チャールズに黒人の血が混じっている事実をヘンリーに伝えます。ヘンリーは、チャールズに黒人の血が混じっている事、ジュディスの腹違いの兄である事に耐えられず、チャールズを殺してしまいます。
このエピソードは作品の中でも、特に重要な出来事として取り上げられています。このあらすじを見てもわかるように、ヘンリー、チャールズ、ジュディスという人物は全て、トマス・サトペンという人物が産んだ子供であり、また精神的にトマス・サトペンに支配されている人物です。チャールズ・ボンはサトペンを憎んでいますが、憎しみという形もまた、対象との一種の関係のあり方です。全ての発端はトマス・サトペンにあり、チャールズ、ヘンリー、ジュディスの三角関係はあくまでもトマス・サトペンの破滅を客体化する為に表された関係だと言えます。
ですので、あくまでもこの作品ではトマス・サトペンというキャラクターが大切です。ヘンリーはトマス・サトペンの傀儡であり、チャールズ・ボンはトマス・サトペンに対する憎しみによって行動しており、トマス・サトペンに固執しています。ジュディスは無気力で、ほとんど印象がないのですが、彼女はヘンリーの言いなりで、自分以外の強い他者に隷属するタイプの女性なのでしょう。これらの関係の中心にはトマス・サトペンがいます。
だからトマス・サトペンという主人物が読者に伝わるかどうかがこの作品の成否を決めると言ってもいいのですが、語りが間接的すぎて、複雑すぎて、わかりにくくなっています。私はこの語りは欠点だと捉えています。おそらく、フォークナー研究者や愛読者は『それこそがフォークナーの良いところだ』と言うと思いますが、私はそう感じませんでした。
描こうとしている事そのものはオーソドックスな文学作品なので、語りの構造を、例えば三人称にするとか、あるいは事件を知っている一人の人物が聞き手に事件の全貌を語る、というようにすればもっとわかりやすくなったと思います。また、わかりやすくなるだけでなく、トマス・サトペンの人物像を直接的に表す事になり、作品が伝えようとしているイメージはより鮮明になったと思います。これが、私が感じた欠点の第一です。