雨空と鯰とおっさんズ 8
「さて」
壁に立てかけた木箱を睨みつける。今日は掛け軸を広げずに寝たらどうなるか、を試す。結果は見えている気はするが。まあ、どんな夢を見るのか分かっていれば心構えはできる。…いやできたところで冷静でいられるとは思えないけど。それでも今朝のような衝撃は無いだろう。きっと。夢の内容も話さなくてもいいって言われてるし。いやでも頼まれてるのにそれをちゃんと果たせないのは…。
また同じところで回り始めた思考を抱えたまま、ベッドに横たわる。こんなんじゃ眠れないかも、と思いながら目を閉じた。
雨が静かに降っている。朝だというのに教室は薄暗い。窓を背にして、未来が立っている。
あーこのパターンね。はいはい。昨日と同じとは芸がない。夢だと分かっていれば何とかなりそう。
「おはようございます。今日も蒸しますね」
「うん」
未来が近付いてきた。掃除の時のように机が前に集められていて、妙に広々とした教室の中で向き合う。これは夢。これは夢。
湿度の高い空気がまとわりつく。未来が額の生え際あたりを指で拭った。うっすら汗が浮かんでいるのに気付いて、慌てて目を逸らした。…いや逸らす必要ある?べつに変なことしてる訳じゃなくない?
「気になりますか?」
未来の瞳が金色を纏う。白くて長い指が、胸当てのホックを外した。襟を少し上げて、浮き上がった鎖骨の下をなぞる。小さな汗の玉が
喉に感じる違和感が自分の拍動だと気付くのに少しかかった。薄ぼんやりと白い天井を為す術もなく見上げる。いつのまにか夏掛けは床に転がっていた。
──無理。
いや無理無理ごめんなさい。夢だと分かってても無理。何?私はいつもあんな目で未来を見てたってこと?いや綺麗だなとはずっと思ってたよ?全然変な意味じゃなくてね?だいたい体育の着替えでもっと色々見てるじゃん。今更あれくらいで動揺するか?何なん?
スマホの画面はまだ起きるには早いと告げている。もう一度寝て…また夢見る、かなあ?どうしたらいい?このまま起きた方がいいかな?うーん?
「お悩みですね?」
未来が横たわる私を見下ろしている。ベッドに腰掛ける彼女は相変わらずの制服姿だ。三つ編みに纏めた髪が、するりと肩から落ちる。括っていたゴムを外すと、それは柔らかな香りを振り撒きながらくるくると広がった。
「え──」
思考の止まった私に覆い被さるように未来が近付いてくる。髪がシーツに擦れてさざなみのような音を立てる。未来の指が私の鼻に触れた。そこからするりと上唇、下唇、顎をなぞり、おとがいから耳へとなぞっていく。耳朶を弄ばれて喉がひりつく。未来の体温と重さが私を覆い尽くす。くっくっと楽しそうに笑うその振動が、身動きの取れない私にも伝わってくる。指が耳にかかる髪を掻き上げ、吐息が直接耳に届いた。ざわっと腰から首筋まで弱い電流を流されたみたいになった私に、囁く声が聞こえる。
「どうして欲しいですか?」
「へぇ?」
間抜けな声で目が覚めた。さああっと濡れた道を車が通り過ぎる音が聞こえる。目の奥がずきずきする。少し遅れて、スマホのアラームが空虚に鳴り出した。
無理。狂う。毎日こんなんじゃ狂う。何が来るのか分かっていたって、回避できないんじゃ意味がない。未来には申し訳ないけど、この掛け軸はもう突っ返すしかない。ちょっと邪魔臭いが学校に持っていって…。
アラームを止めると、雨音が一段と高くなった。今日の天気、雨。午前中は雨足が強まるでしょう。一日傘が手放せません。スマホの画面に並ぶ文字は、掛け軸の持ち歩きを否定している。
未来、週間天気まで把握してあの日に掛け軸を私に預けた訳じゃないよね?そういう小細工をするタイプ…では、あるかも?
寝癖でボサボサになった髪の中が蒸れて気持ち悪い。睡眠時間はしっかり取れているはずなのに、寝た気がしない。まだ痛む目を揉んで開くと、壁に立て掛けた細長い木箱が映った。曰く付きの骨董品。テレビで見る分には笑っていられるが、身近にあるとこうなるのか。
前に訪れた未来の部屋には、そんなものばかりが揃っていた。彼女はあの中で、日々どんな生活をしているんだろうか。ずっしり湿った気持ちのまま、私は朝ごはんを食べにリビングに向かった。




