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飼育

作者: 植木天洋

 バスルームからは生臭いにおいが漂ってくる。ドアをキッチリと閉めても、隙間をガムテープでふさいでも、消臭剤を部屋中においても、ひどい臭いはどこからか忍び入ってくる。

 締め切ったバスルームから、バシャバシャと乱暴に水をはねる音がする。

 ああ、時間だ。僕はのろのろと立ち上がって、冷蔵庫へむかった。冷蔵庫の扉を開けると棚をすべてはずして押し込んだ大きな寸胴が現れる。僕は右手に使い捨ての手袋をはめた。

 手を差し込み引き上げると、ぬるぬるとした感触に腕が粟立った。ずるっと糸を引いて、それで寸胴はいっぱいになっている。バケツにそれをうつして、片手に持ってバスルームへと向かう。

 バスルームへ向かうごとに胸をムカつかせる臭いはひどくなり、腐った水棲生物を思わせる潮臭さも混じる。

 気持ち程度の防臭効果を願ってマスクをつけているが、全く役にたっていないようだ。いや、マスクがなければさらにひどい臭いなのかもしれない。

 バシャッ

 ドアを開けると、いきなり冷たい水をぶつけられた。生臭い液体が顔から胸からしたたり落ちる。

 ああ、もうーー

 「それ」は興奮したように何度も水面を打ち据え、生臭さをまき散らす。ミルクを前にした赤子のような「それ」に、バケツを差し出す。

 生白い手がにゅるっと延びて、待ちかねたようにバケツの中のぬめる黒い襞を掴んだ。それからクッチャクッチャという粘着質な音を立てて黒い襞を貪る。次に、次にと掴んでは貪っていく。

 なんて意地汚いーーこれじゃまるで野性動物じゃないかーーって、野性・・・・・・なのか?

 海水の風呂に浸かったまま昆布をがっつく若々しい美女は、その真っ白な膚に真っ黒な昆布の襞をまとわりつかせながら、両手で豪快に掴んでモリモリと喰っていた。桃色の頬はリスのように膨らみ、昆布の間から真珠のような歯並びがチラチラと覗く。それは、けっこう鋭い。いや、かなり鋭い。肉食系のそれだ。でも昆布を食べている。ムシャムシャと。

 最初の昆布をペロリとたいらげると、次を次をと手を伸ばしてくる。バケツを差し出して、昆布を与える。

 人工の海水でほつれた美しい黒髪を、僕はぼんやりと眺めた。あれ、昆布でできてるのかな。海草を食べれば髪が生えるとか都市伝説だと思っていたが、本当かもしれない。

 それにしても、金魚とか、グッピーとか、そういうのを預かる気分でいたのに。先輩。先輩。このクソ先輩。

 ーー悪りぃ、今度ダチらと泊まりがけで山登っからさ、ちょっとウチのお魚ちゃん預かってくんねえ? ほんの一週間だけでいいからさァーー

 先輩のリア充満タンな台詞がよみがえる。

 ーー飯とか色々、必要なのは宅配で送るから、んじゃ、しくよろ〜ーー

 しくよろ? アナグラムか。リア充らしい先輩の謎に満ちた言葉のチョイスがイタい。

 中学から男子校に通い続けて大学デビューをすることもなく、平々凡々な学業生活をしていた僕。そんな僕にどうして輝かしいばかりのリア充オーラに充ちた「先輩」ができたのだろうーー出会いのシーンなど先輩が繰り広げる軽薄で濃密な毎日に埋もれてすっかり忘れてしまったーー本当にどうしてああいう人と知り合って、生き物を預けられるくらいに信頼されてしまったのだろう。頭を抱える。

 バシャッ

 また生臭い水をかけられて、我に帰った。ウンそうだ、生臭い。

「そうだね、わかったよ。水をとりかえるよ」

 昆布の欠片をチューインガムのように噛んでいる彼女の体に腕を回し、浴槽から抱き上げる。

 虹色に輝く鱗に包まれた美しい下半身が、てろりと洗い場に落ちる。半透明の尾がビチビチと水をはねて、僕の体中をぬめぬめに、生臭くしていく。この服は、捨てよう。

 先輩直筆の(今の時代に!)きったない文字と怪しげな図の踊る「取扱説明書」を解読したところによると「彼女」は少しの間なら海水から出ていられるらしい。大体三十分位なら。とはいえ三十分経ったら突然死ぬとかでもなく、およそ十五分くらいからぐったりしはじめるということだ。なのできわめて素早く水替えの作業をしなければならない。

 体が渇かないよう浄水器付きシャワーを彼女にかけつつ、洗面所からひいたホースに別の浄水器を接続し、排水を終えた浴槽をきれいに磨き上げ水を満たす。

 それから、200Lの浴槽満タンの水に塩6Kg加えて海水塩分濃度に近くして、一人遊びに飽きて不機嫌になってきた彼女の脇に再び腕をまわし抱き上げて、浴槽へ戻す。ざああぁーーーっと人工海水が流れ出て、彼女は新しい環境にご満悦な様子だった。

 ぷかぁ、とカエルのオモチャが彼女の目の前に浮いている。彼女はそれが獲物であるかのように、指を槍のようにしてツンツンとつついている。

 やれやれ。僕は風呂掃除用の大きなスポンジを手に、バスルームを掃除しはじめた。海へ流しても分解される洗剤を使って、淀みきった生臭さをできるだけはぎ取るようにしてひたすら壁や床を磨きながら、ふと思った。

 抱きしめた、彼女の上半身。乳房というにはささやかな膨らみがあるあれが、どうにもーーどうにも気にならない。おかしい。動物の無防備な胸部を見た時のちょっと奇妙な気分になるだけで、女性に感じるような性的欲求を微塵も感じない。

 そりゃあ両手で昆布を貪り食われたら百年の恋も冷めるけど、それでも女性に免疫のない僕が、たった半身だけでも生身の女性に照れや恥を感じないのはおかしい。

 バスタブから抱き上げた感触を思い出す。そういえば、なんだか知っている感覚だな、これはまるでーーテレビで見たアザラシの飼育員みたいだな。うん。

 僕が一週間限定ミッションとして手渡された「人魚」は、おとぎ話で見聞きしたそれとは全く違った。いや、上半身が美女で下半身が魚。それは大体合ってる。

 でも、海神ポセイドンの令嬢である神話性だとか、鼠の国のヒロインになった赤毛の人魚とはなんだかイメージが違う。

 なんていうか・・・・・・すごく・・・・・・野性だ。いやもっと正直に言うと、ケモノだ。

 無邪気といえばそれまでかもしれないけど、山の熊さんが気さくにハグをして人間はポッキリ折れ曲がってしまうような感じだ。

 根本的なモノが何か違う。そこには夢もロマンも性欲もない。

 ふは〜ぶくぶくぶぅ〜と浴槽に身を沈める彼女は、幸せそうだ。冷たい塩水に浸かっているというのに、まるで温泉でくつろいでいるような様子だ。

 しかしその浴槽、あくまで学生向けワンルームの一人用浴槽。風呂好きな僕はワンルームでも風呂トイレ別でバスタブが大きめなのを気に入って物件を決めたのだけど、預かり一日目にして豪快にバスルームを占拠された。さらに先輩から送られてきた彼女の食料や塩の袋で部屋の半分が占められている。

 ーー彼女とはさあ、イギリスのマルドンにいった時に出会ったんだ。船でふい〜っていってたら、顔をひょこって出したんだ。う〜ん、一目惚れだったかもね。どこに出会いがあるかわからないなッーー

 それで人魚を拾って帰ってくるのだから、先輩のパワーはどれだけなのだという話である。ワシントン条約とかひっかからないのか? 外来生物法とか関係ないのか?

 そもそも人間なの? 魚なの? どっちなの?? 少なくともFBIのどこか隅っこの部署でしか取り扱いのない案件の生物ですよね?

 世紀の大発見ーーUMAだ。いやもう未確認とか言ってる場合じゃない存在感なんだけど、ややこしくなるから考えるのはやめよう。

 とにかく一週間が過ぎたら、彼女は無事先輩の元へつき返すーー僕はちょっぴり預かっただけだから何があっても無関係だーーと思いながら、ぬめぬめとして魚臭い服をまとめてゴミ袋につっこんで、きつく封をした。

 それからーー腰にバスタオルを巻いて、シャワーを浴びた。彼女はアヒルに夢中で僕のことは放ってくれている。基本的に空腹でなければおとなしい人なのだ。人? 魚? もうどっちでもいいけど。

 とにかく、さすが人魚と言うべきか、観てくれは悪くない。いやむしろかなりの美女だ。

 でもそんなテレビやネット以外で見たことのない半裸の美女がいるにもかかわらず、相変わらず僕の下半身は冷静そのものだった。

 いや彼女の下半身が魚だからどうだとかそういうことじゃなくて、とにかく、なんというかーー彼女の全体的な印象があくまで動物、いや、魚? 

 とにかく何度見返したところで、どれだけ見た目が美女で、そこにささやかなバストがついていたところで、彼女をそういう対象としてみるスイッチは微塵も入らなかった。

 世界には動物を性的対象とするフェティッシュな人種がわずかながらいることは知っているが、それにしても彼女はイレギュラーすぎる。

 そんなことを考えながらも、彼女がアヒルに夢中になっている間に、体についた魚臭いどろどろを流して、そそくさと脱衣所に出た。どうしてマイルームの風呂を使うのにこんなに肩身の狭い思いをしなきゃいけないんだ。

 はぁ。

 ため息をついて、下着とスウェットの上下を身につける。部屋には相変わらず潮を交えた生臭いにおい。これじゃ食欲もなくなるーーというわけにはいかず、しっかりと腹は減っていた。そこは健全な男子大学生の悲しいところではある。

 仕方なく、さすがに魚はたべる気にならなかったので、ささみの缶詰を使った野菜炒めを適当に作った。オリーブオイルとトマトペーストを使うとそれなりの味わいで、美味しかった。香りは台無しだったけど。

 しかも冷蔵庫が昆布で占拠されているので、僕の食料は常温にさらされている。冷房を入れているとはいえ夏の気温は油断ならない。卵とレタスは早めに食べなければ。って、もう完全に僕の生活が犠牲になっているじゃないか。

 もう、手間がかかるし、わけがわからないし、迷惑でしかない。でも引き受けたからにはやり遂げるしかないのだ。そもそも先輩のお願いは断れない。先輩には大恩がある。

 先輩はあのノリで一部上場企業に勤めていて、彼の口利きでそこの就職が決まったようなものなのだ。だから、真夏だというのに喪服みたいなスーツとバッグで汗をかいて足を棒にして面接行脚をしなくてすんでいる。親も大喜びだ。とてもありがたいことだ。ラッキーだ。

 だから、「一週間」くらい。

 お世話になった先輩の頼みだし。

 たった一週間だし。

 そう思って、引き受けたのが運の尽きだ。

 棺桶じみた発泡スチロールの荷物を抱えた屈強な配達員二人を思い出す。朝早く、爽やかに暑苦しく汗を光らせながら、白い歯をむき出しにして「おっとどけものでーす!」

 なんでこの運送会社の誰も彼もが起きたその瞬間から太陽が絶頂だぜ!みたいなテンションで配達をしてくるのだろう。寝起き→チャイム→「おっとどっけものでーす!」のコンボでかなりHPゲージが減った。ついでにMPも削られた。

 そんな感じでげんなりと棺桶スチロールをあけると、水に浸かったままの人魚と、塩と昆布と浄水器付きシャワーヘッドやらがはいっていた。

 ーー人魚ちゃんは海水でよろ!ーー

 それじゃあわからんでしょ、先輩。まあわかりましたけど。っていうか、人魚はお魚なんでしょうか?

 とにかく仕方なく、ネットで調べて調整してバスタブに人工海水を満たし、棺桶から抱き起こした彼女を移したーーそして今に至る。

 度を超した生臭さは、たとえフロアに二部屋しかないアパートとはいえ、クレームがつきそうで気が気でない。換気扇をまわせばどこかにその臭いが排出されるわけだし、窓を開けても同じなので、不用意に換気もできない。

 屍臭とまではいわなくとも、この魚特有の生臭さは強烈に不快だ。もっとまめに人工海水を交換すればいいのか? しかし水道代もバカにならないぞ。 

 そうこうしているうちに、突然電気が切れた。というか、通じない? 

 そうだ、何かの点検のために電気を一時間ほどとめるとかなんとか連絡がーーなんでこんな真夏に? 冷凍庫の食品はどうするんだ! ていうかクーラーないと熱中症で死ぬぞ! なんて住民のクレームは華麗にスルーされ、停電は情け容赦なく実行されたようだ。

 茫然自失。

 冷蔵庫の中の冷えた昆布ーーどうしよう。食事は四時間おき(!)だし、真夏に一時間室温で昆布を放置したらどんなことになるか、想像するのもいやだ。

 でもせっかく冷やした昆布が無駄になるのもイヤだなーー生来の貧乏性が、彼女に追加の食事を与えることになった。

 が、それが大きな間違いだった。

 先輩が指示した量以上の昆布を喰ったヤツは味をシメたのかさらなる昆布を要求し、ノンストップ「ギブ・ミー・ミルク!」状態の赤ん坊と化した。

 水をひたすらバシャバシャ、強靱な下半身で浴槽や壁をビッタンバッタン! とにかく大暴れする。震動もすごい。これじゃあ、釣り上げたばかりのカジキマグロじゃないか!(動画で見ただけだけど)

 とにかくお隣さんや上下の部屋の住人に迷惑をかけないために、餌、いや、ごはんをあげないと。

 そう思い、即、追加の昆布を水で戻す。でも昆布はすぐにもどらない。地味な作業だ。昆布がベロベロになるまでに一時間はかかる。しかも大量だ。じりじりとしながら時計を見つめる。

 ベロベロになりつつある大量の昆布。水を吸い膨張して寸胴からあふれ出る黒い襞は名状しがたき悪魔生物の触手か何かのように見える。

 もどした昆布を彼女に与える。彼女は食べている間は大人しい。けれど昆布が切れると暴れ出す。だから昆布を与える。その繰り返しだ。

 何度も何度も何度も何度も、繰り返してついに育児ノイローゼの意味をぼんやりと理解し始めた頃、僕は思わず水に戻す前の乾燥昆布の袋を差し出した。いや、差し上げた。どっちでもいい。

 もう無理だ、どうかこれを喰ってくれ、頼むーーと、女神は意外にも微笑んで、袋を噛みちぎり乾燥昆布をバリバリと喰いはじめた。

 新食感!とリポートする地方局女子アナウンサー並の笑顔を浮かべて、喜々として喰った。ボリボリボリボリ。

 よかったーー。

 バスタブに寄りかかって、ため息をつく。

 先輩、昆布、水でもどさなくてもよかったですよ。むしろすごい喰ってますよ。

 ああ、生臭い。水を換えなきゃーー水道代ーー暑いーーああ、生臭いーー。

 これはいかん。かなり、臭いがますます殺人的なってきた。僕は体中に消臭スプレーを吹きかけ、財布をひっつかんでコンビニに走った。氷袋をカゴいっぱいに購入。走って部屋に戻ると、そいやっとばかりに袋をちぎって氷を浴槽に投入した。

 ボチャボチャと音をたてて10袋分の氷が浴槽に落ちる。ヤツはそれを不思議そうに見る。それからーーニヘェッと喜色を浮かべた。ゾッとするような笑み。はっきり言って、気持ち悪い。怖い。ああイヤだ。

 氷を掴んでは壁にバシッ、バシッ、と投げつける。ペロペロなめる。完全に遊んでいる。気に入ったらしい。これなんか見たことがあるなーー真夏のシロクマか。動物園の。氷の差し入れの光景。それだ。

 とにかく、臭いは少しマシになった。冷やせばなんとかなるのだ。そうだ、スーパーの生魚だって氷の上にのせて売られているじゃないか。魚は冷やすものなんだ! 先輩、書いておいてくださいよ!

 空っぽになった氷の袋をまとめてゴミ袋に入れて、僕は力つきて床に大の字になった。氷一袋108円×10袋。請求させていただきます、先輩! レシートをしっかりと握りしめる。

 腹もすいたしのども乾いたーーインスタントラーメンでも食べようかとキッチンへ向かおうとして、何かを踏んだ。

 昆布!

 ずるうぅっと滑って、僕の体は一瞬宙に浮いた。事故でよく起きるあれーー時間が妙にゆっくりと感じる現象ーーに見舞われる。体が上を向いて、天井が見える。重力がくるりと回って、僕の体はゆっくりと床に落ちる。頸の後ろーー後頭部から。どぉおんっという音が妙に間延びして聞こえた。

 それからーープツッと意識が途絶えた。

 次に目が覚めた時、部屋はもう暗かった。夜だ。朝方かもしれないけど。いや雀が鳴いていないから朝じゃない。とにかく、夜の時間帯だ。

 妙に気分が悪い。上半身を起こそうとして、力が入らないことに気づいた。いや、入らないとは少し違うな。普通力を入れれば筋肉がプルプルと震えるけど、今はそれさえもしない。「動け」という命令に筋肉が全く反応していない。

 あれーーどういうことだ?

 ハーハーハァハァと息をしながら考える。まずは指を動かそうーーできない。力を入れたつもりが、何の感触も感じないし、動かない。

 目をぐるりと回す。目は動く。それに頭ーー頸も。逆に言えば、それ以外は動かないーーそんなーーまったく感覚がないーー体がなくなってしまったかのような感じだ。

 それから、後頭部が塗れているような感覚。生温かいものがじっとりと広がっている。わずかに動く頭を揺らすと、痛みとともにぬめりと、ぱりぱりとはがれる感触。

 血だーー。

 頭を打って、出血したのだ。と、他人事みたいに分析する。僕は冷静なのか、それともショック状態で現実逃避しているのか、それさえ分からない。

 クーラーが切れたままの部屋は蒸すように暑く、生臭さが酷くなって、血の臭いも混ざって、ますます気分が悪い。

 だれか・・・・・・

 声が出ない。

 誰か助けてェーッ!

 しかし真夏の学生アパート。夏休みに突入したワンルームマンションに残っている輩がいるだろうか。きっとみんな友達や友人と泊まりがけで旅行や海やバーベキュー付きのキャンプとかに出かけているんだ!

 リア充爆発しろ!

 非リア充の俺、大ピンチ!

 ていうかマジで死ぬ! 煌めく一級河川の向こうに去年死んだバアチャンが見える!

 バシャッ

 バアチャンが手を振る手前で、水が派手に跳ねる音がした。なんだかすごくイライラしてーー赤ちゃんじみた、不快と要求の示しーー誰かを呼びつけているようだった。

 ああ、いかなきゃーー漠然とした中で彼女のことを思いだし、でも手足が動かなかった。夢の中にいるようだった。夢の中では、たいていうまくいかないものだ。

 どだぁっという重い何かが床に滑り落ちる音がした。

 ビチャ、ビチャ

 水の音だーー。

 頸しか動かない。今の位置からはその音源を探れないーーどこからしているのかーーそれはバスルームしかないだろう。

 ギッ・・・・・・ギギィ・・・・・・

 まるで爪で床をかきむしるような音が床についた頭から伝わってきた。

 チャッ ベチャッ・・・・・・チャッ・・・・・・

 ぬめりを帯びた粘着質な音が続く。濡れた海草を叩きつけるような音だ。

 ギギギィ・・・・・・ギ・・・・・・

    ず・・・・・・ぅるう・・・・・・うずぅ・・・・・・

 何か重いモノを引きずるような音。一定しない動きが、不気味さを増す。

 一体何が近づいてきているんだ? 考えられるのはひとつだけだけど、想像したくない。

 何かが床にたたきつけられて、その後に重い物が引きずられる。同時に生臭さが、潮臭さが、魚臭さが迫る。

 音は次第に大きくなる。かろうじて目をやると、暗闇のなかでなにかがこちらに向かって這い寄ってきていた。汚水ともいえる粘液がバスルームから続いている。

 濡れた黒髪を振り乱して匍匐全身でにじり寄ってくるそれ。強烈なデジャヴ感。間違いなくホラー映画で観た怖気をふるう光景だ。

 体は動かない。それは振り乱した髪の隙間から覗く恨めしげな上目遣いで、尖った真珠色の歯をむき出しにして、こちらへ少しずつ這い寄ってくる。指が鉤爪のようになって床をかきむしっている。

 怖い。マジで怖い。いやもう怖いとかそういうのじゃない。無理。思考停止。

 ちょっとの間気を失っていたらしくて、目をあけると目の前に彼女の端正な顔がせまっていた。

 大きく濡れた両目に、顔をひきつらせた情けない僕の顔がうつっている。、彼女の黒髪が首筋にからみつく。チビりそうなのに体が動かなくて、動いているのはもう早鐘連打に近い心臓だけだ。

 彼女は口を開けて、真珠色の凶悪に尖った歯を見せた。ずらりときれいに並んでいる。ダメだーーきっと腹をすかせて不機嫌な彼女に喰われるーー生きたまま貪り喰われる!!

 で、でも、こんな美女に喰われるのなら、それでもいいかも。と一瞬思ったのは弱っているせいだと思いたい。イヤ普通にだめだろ。キスもしたことないのに。22年間守り通した僕の純潔が、こんな形で奪われるとはーーある意味甘美なのかーーいや、だめだから僕!

 恐怖に震える僕の目の前で、彼女はその歯で自分の紅い唇を噛んだ。歯は鋭くて、当然唇には深い傷ができる。みるみる血が膨らんであふれて、ぽたりと僕の唇にーー落ちた。

 え? 血? キスは? あれ?

 つうと流れ込む彼女の血。

 鉄錆の味が舌にからみついた。吐き出すこともできず、かといって飲み込むことはもっとできず、喉を伝って流れ込むそれを拒むことができないで息をとめ唇を半開きにしているしかなかった。

 彼女は苦しむ僕をじっと見下ろして、それはまるで獲物が弱っていくのを観察している捕食者の目のようで、ひどく冷酷だった。まずい、これは絶対にまずい。

 ちょっと泣けてきた。

 だが次の瞬間、彼女は白目をむいてどうと僕の真上に倒れてきた。僕は反射的に彼女を抱き留めた。

 ん? 手でーー抱いた?

 手が動いていた。手足を動かしてみる。あれっ、俺なんか元気になってる? さっきの怠さが嘘みたいに、前よりいい気分だ。

 助かった。いや助けられたーー絶対に喰われて死ぬと思ったのに、どうやら彼女は僕を助けてくれたようだ。

 反対に腕の中の彼女はぐったりとしていて、皮膚もところどこ乾いていた。ここまで這ってくるのに、海水から出て30分のリミットを超えたのかもしれない。

 僕はあわてて彼女を抱えると、慎重にバスルームへ向かってーーなにせ彼女が這った後でぬるぬる滑るのだーーできるだけそっとを浴槽に戻した。

 彼女は人工海水に浸かって死んだように青白い横顔をしばらく見せてから、ハァと小さく息を吐いた。ピチャリ、と水が跳ねる。

 彼女をバスルームまで運ぶという重労働をしたわりに、疲れはない。今なら彼女を背負って全力疾走できそうだ。しないけど。

 そういえば人魚の肉を喰べると不老不死になるとかいう伝説がある。その血は、怪我を治癒させたり体力を上げる力があるのかもしれない。とにかく、彼女は命がけで僕を助けてくれたということだ。

 海水に浸かったことで、彼女の具合はだいぶ良くなったみたいだった。うつらうつらとし始めた彼女を後にして、僕はそっとバスルームのドアを閉めた。

 部屋には彼女の這った後がべっとりと残り、その先に僕の血が固まってこびりついていた。全くどんな殺人現場だ。僕はクーラーをつけてから、部屋を片づけ始めた。

 そうだ、昆布、買い足さないと。ええと、どれくらい買えばいいのかな。昼間に甘やかしたせいで、先輩にもらった在庫はすでにかなり消費している。今日のうちに行っとくか。財布を握りしめると、近くの業務スーパーへと自転車をとばした。

 店員に聞いて売場へいくと、大袋に入った乾燥昆布がずらりとあった。なるべく安くて大量の昆布をと思ったがーー1袋280gで1,370円本体価格! マジか! こんなに少しの量で? いや、水でふやかせば増えるから、いいのか。思い切り「業務用」と書いてあるけど、これは安いのか? 高いのか? いまいち分からなくて悩ましい。

 それから思い出して、臭い消し用の氷ーー業務用を大量購入した。こちらは単価は安いけど、量が半端じゃないので結局高くついた。しかも滅茶苦茶重い。

 昆布と氷を山ほどつめこんだカゴを両手で引きずるようにしてレジへいって精算をして、改めてその合計額に崩れ落ちそうになった。

 この調子で一週間も彼女の面倒をみていたら、ささやかな貯金が吹っ飛ぶ。とはいえ命を助けられたのかと思うと、多少の無理は仕方がない気もする。

 イヤ待て、そもそも預からなければこんなことになってないのか?

 やっぱり領収証はすべて先輩宛で!

 なんとか荷物をアパートへ持ち帰り部屋へ戻ると、魚臭さも少しマシになっていた。というか、もはや鼻が慣れたのかもしれない。

 静かなバスルームを音を忍ばせて覗くと、顔を半分水に沈めて、あどけない顔で眠っている彼女がいた。胸元にはカエルのオモチャを抱きしめている。艶のある黒髪が、幻想的にゆらゆらと揺れて広がっていて、僕は思わずみとれてしまった。なんだかちょっと・・・・・・いや、かなり可愛い。

 はあ。

 まあ、こういう生活もちょっぴりいいかな。

 ・・・・・・

 いや、あくまで「ちょっぴり」ですからね、先輩! 早く帰ってきてくださいよ!


 おしまい

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