3
その日の深夜。後片付けをした澄は先に二階に上がると、風呂敷包みと角巻を抱え、着物のままで布団に潜って狸寝入りした。――そして、香が寝付く時分を見計らうと、静かに布団を出た。抜き足差し足で襖に手をやった瞬間、
「どこへ行く」
香の低い声がした。驚いた澄は、手にしていた角巻を落とてしまった。途端、明かりが点いた。
「どこへ行くかと訊いてるんだ。答えないか」
「……憚りに」
「便所に行くのにわざわざ風呂敷包みを持って行くのか」
「……」
「いいから、ここに座れ」
その言葉に澄は振り向いた。丹前を羽織った香が褥に正座していた。澄も香の前に正座した。
「そんなに良治に逢いたいか」
「……」
澄は俯いていた。
「澄。これを見ろ」
香はそう言うと、寝間着の衿を大きく開いて胸元を見せた。そこにあったのは、緋い牡丹の刺青だった。澄はあっと声を漏らして、目を丸くした。
「これは、惚れている証しに彫ったものだ。昔の話だ。惚れた男はやくざだった」
「……」
澄は緋牡丹を見つめていた。
「お前にこれほどまでに惚れられるか? 死ぬほどに、命懸けで惚れることができるか?」
香はそう言いながら衿元を整えた。
「……」
「澄。尽くすことが惚れることじゃないぞ。惚れると言うのは簡単なことじゃない。その辺に転がっているもんじゃないぞ。お前にそれだけの覚悟があるのか? 澄。命を懸けて惚れる覚悟があるなら逢いに行け」
「……女将さん」
顔を上げた。
「だが、いいか。捨てられたのなんのかんのと言って、戻ってくるようなことがあったら中には入れんぞ。そんな甘っちょろい気持ちなら逢っちゃいけない。偕老同穴 。死ぬまで良治と離れない覚悟があるなら逢いに行け。……昔惚れた男は、もうこの世には居ない。その男のためにも生きているんだ。分かるか? この刺青があの人なんだ。この私が惚れた男なんだ」
香は自分の乳房を掴んでいた。澄は、そんな香の目を真剣に見つめていた。
「……私、行きます。良治さんに逢いに」
立ち上がった。
「ちょっと待て」
香も立ち上がると押入れを開けた。
「こんなことがあるだろうと思って用意していた」
取り出した風呂敷包みを手渡した。
「若い頃の着物だ、持っていけ。こんなことぐらいしかできないが、門出の祝いだ。風邪を引かんようにな」
「……女将さん」
澄は涙ぐんでいた。
「ほら、早く行け。今頃よしさん、酒を呷っているだろ。早く行って笑顔を見せてやりな」
「……女将さん」
「場所は杉原さんから聞いてるだろ? 木島って表札があるから」
香はそう言いながら、その風呂敷包みを澄に背負わせた。
「女将さん、お世話になりました。ありがとうございました」
頭を下げた。
「元気でな」
「女将さんも」
澄は角巻と自分の風呂敷包みを持った。そして、感謝を込めて深々と頭を下げた。――静まり返った路傍に下駄の音が響いていた。
〈木島〉と表札がある借家からは明かりが漏れていた。軽く戸を叩くと、
「誰だいっ」
良治の声がした。
「澄です」
澄の声に、良治は大急ぎで鍵を開けた。そこには笑顔で見上げる澄が居た。
「……澄さん」
風呂敷包みを抱えた澄の格好で、ここに来た理由を察すると、
「さあ入って。寒かったろ」
早口で言うと、中に入れた。
「どうしたんだい」
察しはついたが訊いてみた。
「……あなたのおそばに置いてください」
羞じらうように俯いた。
「……澄さん」
互いは暫し見つめ合った。そして、澄の手から風呂敷包みを受け取った。
澄から経緯を聞いた良治は、
「……こんな俺でもいいのか」
ぽつりと言った。
「こんな私でもいい?」
澄が逆に訊いた。
「ああ。こんな俺で良ければな」
「うん。いい」
良治の呑んでいた湯呑みで、二人だけの祝言を挙げた。そして、その日が初夜となった。――
それは、ひと月ほどが過ぎた頃だった。
「……足を洗いてぇ」
酒の入った湯呑みを手にした良治が独り言のように呟いた。
「えっ?」
飯を食っていた澄が顔を上げた。
「……だが、そう簡単にはいかねぇ」
困惑した表情を見せた。
「あんたがその気なら、女将さんに頼んでみる。女将さんならなんとかしてくれるよ」
澄は箸を置いた。
「……すまねぇな。お前には苦労ばかりかけちまって」
良治は頭を下げた。
「何言ってんだい。私達、夫婦じゃないか」
澄が気丈夫を見せた。
〈酒処 勝〉の閉店時間を見計らうと、店内を覗いた。客は居なかった。戸を開けると、香が板場から振り返った。
「女将さん」
「お澄、元気だったか? どうした」
「……女将さんにお願いがあって」
深刻な顔を向けた。
「金か?」
「ううん。良治さんのことで」
「分かった。今、店を閉めるから二階に行ってな」
板場から出ると、澄の肩に手を置いた。
「……はい」
事情を聞いた香は、
「よし、分かった」
一言そう言うと、便箋と筆を出した。――二通のそれを澄に渡すと、
「東京の浅草という所だ。佐野組を訪ねろ。住所も書いてある。もう一方の〈佐野昭様〉は、直接本人に手渡してくれ」
念を押した。澄は大きく頷くと、
「……女将さん、ありがとうございます」
涙ぐんだ。
「馬鹿、泣くな。ちょっと見ない間にかみさんらしくなったな。よしさんは可愛がってくれるか」
「はい」
笑顔で返事をした。
「良かったな。幸せにな」
「はい」
「それよりほら、思い立ったが吉日だ。始発なんて悠長なことを言ってないで、これからすぐ旅立て。線路を東へ。東へ」