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「――ええ、大丈夫。行ってらっしゃい」
聞き慣れない女の声が飛び込んで来て、重い頭の中が掻き回される。ゆっくり瞼を開くと――。
「あらっ! あなた、目が覚めたのね。大丈夫?」
丸顔に、少しそばかすのある乾いた肌。私を覗く瞳の色は、あの人より濃くて深い。枯れた海草のように縮れた黒髪を頭の後ろで1つに纏めている。
「わ、綺麗な青い目! ……じゃなくって、えーと、あなた、あたしの言葉が分かる?」
くるくるとよく動く表情をぼんやり眺めていたら、不安気に段々と曇ってしまった。私は、慌ててコクンと頷いた。
「あー、良かった! あたし、異国の言葉は分からないからさぁ」
あははは、と安堵の笑顔を広げる。
私は寝かされていたベッドから身を起こす。着ている服は、シーツを被ったような白い寝間着。多分、彼女のものだろう。
室内は、木の壁に木の床。殊更に飾り気のない、質素な調度品が視界に入る。
「あたしは、メリッサ。兄貴と2人で暮らしてるわ。あなた、名前は?」
『私は、シシィ』
口を動かして、声を失ったことを思い出す。ハッとした私を見て、彼女の表情もまた固くなる。
「……もしかして、話せないの?」
私はゆっくりと頷いた。
彼女はサッと身を翻して、紙とペンを持って来た。サラサラと何か書き付けて、私に渡す。
「文字は、読める?」
悲しくなった。今の私には、発信する手段がないのだ。せめて、人間の文字を学んでおくべきだった。
「そっか……。でも、あたしの言葉が分かるなら、何とかなるわ!」
項垂れた私から紙を取り上げると、ポンポンと肩を優しく叩いて、笑顔を向けた。
「文字は、ゆっくり覚えましょ? 動ける? 何か食べるといいわ」
彼女は、ふらついて上手く歩けない私の身体を支えてくれた。右、左、右、と、一歩ずつ踏み出す。鋭い痛みは消えていたが、まだ二足歩行には慣れていない。
食卓に着いて、血の気が引いた。
彼女は、キッチンからスープを運びながら、漁師のお兄さんが浜で私を見つけて連れて来たのだ、と話していたが、私の目はテーブルの上に釘付けだった。
メインディッシュは、煮魚だったのだ。
「あら、魚は苦手? じゃあ、野菜のスープは? 果物もあるわよ?」
メリッサは勘の良い人だった。折角のもてなしなのに、申し訳なく思いながら、スープと果物を少し口にした。
夜になって、お兄さんのルドルフが帰って来た。私が頭を下げると、大きな身体に似合わず、彼は浅黒い肌を赤く染め、メリッサにからかわれていた。
「戦争が近いみたいでね、ここいらじゃ漁師も農家も町民も関係なく、岬の工事に駆り出されているわ」
彼女の話では、2年前、王子や貴族達の乗った船が、隣国の攻撃を受けて沈没したのだという。辛うじて末の王子だけが助かったものの、4人の王子達は還らなかった。怒りと悲しみに駆られた王は、戦に備え、隣国に面する岬の先端に、堅牢な砦を築き始めたそうだ。
「あたし達庶民に取っては、平和が一番なんだけどねぇ」
身寄りも身元も分からない私を、兄妹は快く居候させてくれた。
せめてもの感謝の気持ちで、私は家事を受け持った。ところが、初めてのことばかりで、何一つきちんと出来ない。メリッサは「お姫様みたいねぇ」と笑ってくれたものの、それは図星だった。海の宮殿にいた頃、私は日々遊んでいた。そのことに何の疑問も抱かなかったし、咎める者もいなかった。
メリッサは1人で漁をして、週末になると町に売りに行った。帰宅後、彼女は私に文字を教えながら、噂や流行など町の話をしてくれた。私が、人を探していると打ち明けると、手伝ってあげると笑顔を輝かせた。
そうして、ひと月が過ぎた、ある夜。
普段より帰りの遅いルドルフを心配していると、突然ドアが激しく叩かれた。
「石積みが崩れて、5人下敷きになった!」
村人に運ばれて来たルドルフは、頭部に酷い裂傷があり意識がなかった。四肢も何ヶ所も骨折している。気丈に村人に礼を述べたメリッサだったが、家族だけになると泣き崩れた。その姿に、胸が潰れるほど苦しくなる。
私に声があれば。「癒しの歌」さえ歌えれば――。
『人魚の身体には、不死の力があるのさ』
不意に、おばあ様の言葉が思い出された。私はキッチンに駆けると、グラスに水を入れた。そして小指の先をナイフで傷付けて、体液を水に垂らす。
皮肉なものだ。人魚を長寿たらしめるのは、人間なのだ。人魚は20歳を超えると、若さと生命力を得るため、数年に一度、人間の男性と交わらなければならない。勿論、都合よく人間が現れる筈はなく、時が近付くと――狩りに行く。歌声で惑わして、船ごと沈め、特別な夜を迎えるのだ。
「――シシィ?」
呼吸の浅いルドルフの乾いた唇に、少しずつ水を注いでいく。1/3ほど注ぐと、明らかに血色が戻った。良かった。私の身体には、まだ人魚の力が残っていた。
水が2/3まで消えた時、頭の裂傷が塞がった。手足の骨も繋がったのか、バキポキ小さく音が鳴る。
「嘘みたい……」
メリッサの涙声が歓喜に変わる。グラスが空になると、ルドルフは穏やかな表情で寝息を立てていた。
「あなた、天使だったの?」
笑顔で私に抱き付くと、メリッサは子どものようにワンワン泣いた。彼女の背中を撫でながら、その涙を少し羨ましく思った。
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瀕死で運ばれた5人の内、助かったのはルドルフ1人だけだった。
メリッサは口を閉ざしたものの、私が何らかの秘技を用いて救った、という噂が広まったらしい。
村から町へ噂が流れると、何処からとなく、1人、また1人……怪我や病を抱えた人達が、浜辺の家へ救いを求めて訪れた。
いつしか、私は人々の間で「癒しの聖女」と呼ばれるようになっていた。