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- origin -
美声と引き換えに貰った薬を飲むと、虹色の尾ひれは人間の足に変わりました。
『いいかい。その恋が叶わなければ、お前は泡と消えてしまうからね……』
魔女の忠告に、人魚姫は頷きました。
かつて私は、6姉妹の末娘だった。
姉達は、この世の誰もが羨み、感嘆する程美しく、私の誇りだった。
腰までの長い髪は、月を溶かした海原のように黄金の光に満ち。すべらかな肌は、一点の曇りもない乳白色の大理石のよう。
長い睫毛に縁取られ、憂いを湛えた大きな瞳は、露に洗われた貴石の如く輝いている。
そして、姉達の歌声は、比類なき眩惑の調べ。どんな人間も、一度耳にすれば心身を奪われ、魂すら抜き取られてしまう。
姉妹は、偉大なる父王の自慢の娘達だった。
けれどもあの日、私は彼女らと袂を分かち、父王の掟に背いてしまった。私が捨てたものは余りに大きく、もう取り返しがつかない。
それでも、もう一度、魔女に尋ねられたなら、やっぱり私は答えるだろう――『彼と同じ種族になりたい。虹色で冷たい尾ひれの代わりに、肌色で温かい2本の足が欲しい』と。
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「シシィ! あんた、何してるの?!」
すぐ上の姉、ハミシィの声が背中に刺さる。咄嗟に扉へ伸ばし掛けていた手を引っ込める。
「大袈裟ねぇ。ちょっと覗こうとしただけじゃない」
私は、ツンとむくれて見せる。彼女は焦ったように辺りをキョロキョロと見回しながら、私の腕を掴んだ。
「ダメよ、見つかったら大変でしょ」
ここは王宮の南端、普段使われていない倉庫の前だ。今夜のような特別な日だけ、余剰品が引き取られるまでの荷置場になる。
倉庫の中身が逃げ出す可能性など皆無に近いから、見張りなんていない。それでも心配性の姉は、不安気にエメラルド色の瞳を翳らせている。
私は身をくねらせて、彼女の手を尾ひれで払った。
「ちょっと、シシィ!」
「だって、こんなチャンス、滅多にないでしょ」
唇を尖らせて、再び扉に近づいた。その時――。
「……う……どなた……か……」
「キャッ?!」
扉の向こうから、低く掠れた声がして、私と姉は咄嗟に抱き合った。初めて聞く人間の――多分、男性の、声。
「……生きてるんだわ」
「待って! シシィ、何を――!」
ハミシィが止める間も与えず、扉を押す。
そこには、男女取り混ぜて10人くらいの人間が倒れていた。その中の一番小さな人間が、赤い手をこちらに伸ばしている。
「シシィ!」
部屋の中に滑り込んだ私は、姉の制止を振り切って、小さな人に近づく。不思議と恐れは感じない。
彼は、海亀の甲羅に似た褐色の瞳を揺らして、私をジッと見詰めている。けれども、命の光は薄く、消え行く運命を知るかのように悲し気だ。
伸ばしていた腕は、力なく床に萎れている。掌が赤いのは、彼の胸から流れる液体に染まっているせいだった。
「放って置きなさい」
いつの間にか、ハミシィが隣に来ていた。普段は臆病なのに。
「この人間は若過ぎる。助けても、姉さん達の役に立たないわ」
青ざめているものの、彼を眺める横顔は酷く冷静だ。
「ハミシィ。人間も死んだら泡になるの?」
「いいえ。ただ朽ちるだけ、とおばあ様が言ってたわ」
私達の会話が聞こえたのか、彼は諦めたように瞳を閉じた。まなじりからキラキラ光る滴が一筋溢れた。いつか年長の姉が話していた「涙」というものだろうか。
突然――胸の奥がキュウッと締め付けられ、堪らなくなった。私は、彼の金色の髪にそっと触れた。まだ濡れたままの髪はしっとり冷たく、彼自身の体温が失われつつあることを物語っている。
この人を地上に帰してあげたい。このまま海底で醜く朽ち果てるのも、大蛸の糧にされるのも耐えられない。強く熱い想いが駆け巡る。こんなことは初めてだ――。
『苦しみも 痛みも
波が 彼方に連れ去ろう
悲しみも 嘆きも
渦が 深淵に沈めよう
癒しの漣が 御身を包む
安らぎよ 永久に
安らぎよ 永久に』
「何てことを――!」
ハミシィが顔色を失った。
私が口にしたのは「癒しの歌」だ。我が人魚一族の歌声には神秘の力が宿っており、心に安らぎを、身体に治癒を、魂に生命力を与えることが出来る。
効果はすぐに現れた。頬が桜貝の色に変わり、触れた額にも温もりが蘇る。胸の血は止まり、傷もすっかりふさがった。
「お願い、姉様。一緒に来てくださる?」
腰の辺りの鱗を1枚剥がすと、彼の口に含ませる。これで水中でも呼吸できるはず。
「仕方ないわね。ここに置いておく訳にもいかないじゃない」
ハミシィは、覚悟を決めたように溜め息を付いた。左右両側から彼の身体を支えて起こし、倉庫を出ると、そのまま海面目指して浮上した。
幸い、今夜は特別な夜だ。警備も手薄で、私達は難なく宮殿を抜け出した。
「シシィ。あんたは、まだ海上に出ることが許されていないでしょ。ここで待ってなさい」
人魚は15歳になるまで、昼夜を問わず、海上に姿を現すことを禁じられている。私はまだ、半年足りない。
「ごめんね、姉様」
辺りの色が少し明るい。藍から青に変わる境界が、私の浮上が許される限界だ。
ハミシィは頷くと、独りで彼を連れていった。遠ざかる姿に、胸がギュッと苦しくなり、千切られたように痛んだ。あの褐色の瞳を見られなくなると思っただけで、身体がバラバラになるくらい悲しくなる。訳も分からず、グルグルと同じ所を夢中で泳ぎ回った。
腕を捕まれて、ようやくハミシィが戻って来たことを知った。緑の瞳を曇らせると、彼女は一言「忘れなさい」と呟いた。それ切り何も話さず、私の手を強く引くと、宮殿に帰った。