青年と糸
街に商店は腐るほどあるが、一番物が揃っているのはこの店で間違いない。
最後の買い物にはうってつけである。
若い男が小型の鋏を指差して、これひとつ、と店番の少女に目を合わさずに呼びかけた。
無数のテントがひしめき合い、我先にと商品を求めて群衆が蠢く早朝の商店街では、彼一人のぼそぼそとした声は聞き取りにくかったに違いない。
しかし店番の少女はよく通る声で、はいっ、と元気よく返事をした。
男は金を払って鋏を受け取った。
「ありがとうございました」
ハキハキとした少女の声。
男は少女の顔を見て、どうも、と会釈してその場を去った。
日頃通いつめた商店ではあったが、男はその時初めて、ああ、この娘は結構可愛い顔をしているな、と思った。
男は、背中の使い古したナップザックを揺らしながら人混みの中を歩いた。
ナップザックの中身は、水筒と食料、マッチ、毛布、少しの銅貨、そして先程の鋏が入っている。砂漠に泊まることになっても三日はもつだろう。
街の地面には無数の線が入っている。男は線を踏みながら歩く。当たり前の事ではあるが、今日ばかりは意識して踏みつける。
線は糸。青、黄色、緑、桃色……。様々な糸が線を描いている。糸は自由自在に伸縮するので長さに際限が無いが、辿ればやがて人の指に辿り着く。
男の指にもまた、糸が伸びている。無数の色とりどりの糸が、毛が生えるように伸びている。
その一本一本が、一人一人に繋がっている。そして一人一人に、それぞれの決まった糸の色がある。
糸は人との縁だ。
人とのつながりが出来た時、この糸は生えて、増えていく。人との縁が無くなって、もう二度と会えなくなった時、糸は切れて消えてしまう。それがこの世の人々の運命だ。
男は、人々が日常として受け入れているこの糸が鬱陶しくて仕方が無かった。糸に重さは無い。絡まる事もない。しかし男には、糸が自分を縛っているような気がしてならなかった。
「おい」
背後から声をかけられる。振り返ると予想通り、友人が立っていた。彼もまた、ナップザックを背負っていた。友人は男と待ち合わせをしていたので、会うことは必定だった。
この友人の色は青。
男の指から生える無数の糸から、青を辿って行けば友人の指に辿り着くだろう。そして、糸は人と人との間のちょうど中間から、もう一方の色に変色する。
男の色は赤。友人の指から赤い糸を選んで辿れば、男に辿り着くだろう。
「準備は出来たのか?」
男は友人に聞いた。友人はにやりと笑った。
「出来たさ。いつでも行ける」
男は友人の言葉に頷いた。彼らは、自らを糸から解放する旅に出ようとしていた。
二人は馬小屋に来ると、ナップザックを下ろした。どっと音を立てて土煙があがる。馬小屋は友人の家が所有するものだった。
馬の世話をするのは友人自身であるので余計な人目が入らない。ただ馬の美しい瞳だけが彼らを見守っている。
馬の泥臭い体臭と、顔を顰めるような糞の匂いが、狭い小屋の中を満たしていた。
二人の指から糸が土床に垂れて、小屋の玄関へ、さらに外の世界へ続き、歪な虹のように模様を描いている。
一本一本が、男と人を繋いでいる。
家族、友人、恋人、恩師……。
数え上げればきりが無い。そして男は、糸の先の存在を思う度、憂鬱になる。
人からの支えなど、所詮、抑圧に過ぎない。皆が友情など仮初だと知っていながら、馬鹿丁寧に糸を扱う。
周りの人を大事にすれば自分にも恩恵がもたらされるという信仰の、なんと愚かなことか。
その証拠に、自分がいくら周りを大事にしようとも、周りは自分を傷つけるばかりだった。誰ひとりだって、自分を大事にしてはくれなかったではないか。
男はナップザックから鋏を取り出した。友人も同じように鋏を持つ。薄暗い小屋の中、刃先が僅かな太陽光を受けて輝いている。
最初に計画を考えたのは男だった。
糸から解放される為の計画。自分に繋がる糸を全て切り落とす。
余計な縁は全て捨て、自由になるのだ。糸を切れば、相手には二度と会うことはないし、会ったとしても気づくことは出来ない。互いが目に見えぬ亡霊のような存在となる。
糸を人の手で切ったり、繋げたりすることはこの世界では罪だ。
牢獄へ入れば、自由どころではない。だから旅に出る。友人は男の計画に賛同した。自分も自由になりたいと言った。
二人を繋ぐ糸だけ残して、二人で旅に出ることにした。友人は男の冷酷な考えを理解する、数少ない人だった。
「切るぞ」
男が糸を少し持ち上げ、鋏の刃にかけて言った。声色は淡々として、落ち着き払っていた。
「ああ」
友人は嬉々として頷いた。
「これでおれたち、自由になれるんだな」
友人のうわずった声に、男は頷いた。
「これで……自由だ」
男は力いっぱい鋏の取っ手をぶつけた。力尽きたように、糸がはらはらと地に落ちた。
鋏の軽い金属音が鳴る度に、二人の指から糸が消えていく。淡々と糸を切り続けていた二人だが、ふと男は鋏を止めた。男の糸は残りわずか二本。一つは友人の青い糸。そしてもう一つは紫の糸。
「彼女のか」
友人が尋ねた。友人の指につながる糸は、もう男の赤い糸だけだった。男は無言で紫の糸を見つめている。
紫の糸は、男の恋人の糸だった。
家族との縁を切ることも躊躇わない彼だったが、ただこの糸を切ることだけは心苦しかった。
「残しておけばいいんじゃないか」
友人の言葉に、男は思わず彼の顔を見つめた。元々自分が言い出した計画だ。青い糸の他に糸を残しておくことは、この友人を裏切るような心地がする。
「いや、おれは」
「元々おまえの計画なんだから、やりたいようにやれよ。今は切る気が起こらないんだろう。切りたくなったら切ればいいさ」
男は頷いて、鋏を下ろした。自分につながる糸は、青い糸と、紫の糸。
床には無数の糸が横たわっている。
最早どれが誰の糸か分からないものもある。心なしか体が軽くなったような気がした。
友人は鋏をナップザックに入れて、一頭の馬の方へ歩いた。馬は鼻先を友人に擦り付けて甘えた。友人は馬の首に腕を回し、たてがみを撫でる。
「よしよし、いい子だから、告げ口しないでくれよ」
男はナップザックを背負い、行こう、と声を掛けた。友人は名残惜しそうに馬から離れる。二人は散らばった糸を踏みつけながら馬小屋を去った。
やがて、地面の糸は蒸発するように消えていった。
小屋には世話役を失った馬と、二人分の足跡だけが取り残された。
♢
旅は想像より気楽に進んだ。
街の外は森が続くばかりだった。定期的に水が手に入るので死の危機を感じたことはなかった。後にも先にも不規則に木が生えている。二人は旅に出てから三度目の夜を迎えていた。
今から街に戻るとするならば、手がかりは男の指に生えた紫の糸を辿るしか方法は無いだろう。
罪を犯してまで手に入れた自由も、手に入れてしまえば退屈なものだった。やることと言えば、食料の採取と、食事と、寝ることぐらいだった。
開けた場所に出ると、二人はどちらからともなく足を止めてその場に座った。四方を木々に取り囲まれて、空を見上げても木の葉の隙間から星がちらつくだけだった。
二人の間には、真ん中から赤と青に別れる一本の糸が伸びている。
この糸を切ることがあるとすれば、それは。
「なぁ」
木にもたれて座っていた友人が口を開いた。
「旅に飽きたらどうするんだ」
友人は無口な男に比べて饒舌であったが、旅が続くに連れて口数も減っていた。口には出さないが、不慣れな旅に疲れていることは明白だった。男も同じだった。
「死ぬしかないだろうな」
男は時刻でも答えるかのように即答し、マッチを擦って、集めた小枝に火を付けた。
小さな火花が上がり、少しずつ、しかし着実に炎へと成長し、小枝を飲み込んでいく。
友人は炎を眺めながら、そうだな、と呟いた。
男は友人に目をやって、彼は炎を見ながら炎を見ていないと思った。
その夜、二人は魚を焼いて食べ、眠りについた。男は木にもたれて、友人は地面に寝転がり、毛布に縋るように眠った。
肌寒く、葉が擦れる音がしてなかなか寝付けなかった。しかし互いに話題も見つからないので、どうにか自分を眠りに落とすしかなかった。
がさごそと手探りする音がして男は目を覚ました。途端に喉元に冷たいものが触れて息を飲んだ。
鋭い眼光に射抜かれて、男は獣に襲われたのだと思った。
しかし違った。獰猛な瞳は友人のものだった。
「動かないでくれ」
友人の唸るような低い声を聞いて初めて、男は喉元に触れるものがナイフだと認識した。
ナイフを取り出す音が、男の目を覚ましたのだった。男は、何か言おうにも唇を震わせるので精一杯だった。再び友人が命じる。
「手を出せ」
男は言われるがまま、ゆっくりと自分の手を差し出した。友人は片手でナイフを突きつけて、片手に鋏を持っている。
ぱちん、と軽快な音がした。
男の手から紫の糸が舞い落ちた。
それを見て、男の心は妙な落ち着きを取り戻した。
この友人も、他人であることに違いはない。例え自分を貶めようともそれは驚くべき事ではない。
友人は鋏を置いて糸を拾い上げ、器用に片手と口を使い、ナイフを持っている手の薬指に結びつけた。
男は、目の前で紫の糸が結び目を作り、友人の指に絡みつくのを黙って見ていた。
そして、恋人の指に繋がる赤い糸が青に染まるさまを想像した。友人が仕上げにきゅっと糸を絞ったとき、ようやく男は口を開いた。
「それがそんなに大事か」
「切れなかったくせに言うな」
男は反論の言葉を見失った。彼の言う通り、自分は紫の糸を切ることを後回しにした。あの時自分が紫の糸を切っていたら、友人は糸をひったくって逃げたのだろうか。
どうせ切るつもりだったからおまえが切ってくれて丁度いい、などと皮肉も思いついたが、口に出せば嘘になる予感がした。
代わりに男はため息を吐いて言った。
「そんなもの、おれから奪うほどのものじゃない」
その瞬間、胸ぐらを強く引っ掴まれ、息が詰まった。
「――おれがずっと欲しかったものを、そんな風に言うな!」
男の鼓膜を突き破る悲痛な叫び。
感情が入り乱れ、混沌とした瞳が男を睨む。
友人は興奮で息が上がっていた。
男は感情の篭らない目で応えながら、ゆっくりと片手を伸ばし、友人が置いた鋏を握った。
「すまなかった」
友人の手から、赤い糸が崩れ落ちた。
♢
木漏れ日に輝く朝露が、葉脈を伝って零れ落ちる。冷たい風が肌を刺す。遠くで小鳥が歌を歌う。
男は意識と無意識の狭間を彷徨いながら夜を明かした。深夜の記憶は、一本の糸も繋がっていない自分の手を見る限り現実らしかった。もう男を縛るものは何もない。
自由だ。
男の目先の地面には、友人が置き忘れたナイフが転がっていた。
♢
商店の朝は早い。
どんな早起きの客にも足を運んで貰えるように、日の出ぬ頃から商品を並べ、日の出と同時に店を開ける。そして店員は、今か今かと客を待つ。
私もまた同じ。
店先で鳥の歌を遠くに聞きながら、朝日に向かって伸びをした。同時に手に生えた無数の糸が上に伸びる。手を降ろして、自分の糸束の中から一つ選び、指ですくい上げて眺める。
赤い糸だった。
赤い糸の彼は、毎朝買い物に来て食材や日用品を買っては挨拶もせずに去っていく。
誰かと一緒に買い物に来ることは無かった。糸の多さを誇り、糸の少なさを恥じるこの世の中で、彼のような人間は珍しかった。私は彼の糸が欲しいと思った。
彼が店に来るたびに私は元気よく挨拶をして、精一杯の接客をした。それが裏目に出たのだろうか。
彼は一向に私の方を向かない。挨拶もくれない。仕方がないので私はこっそり自分に繋がる一本の黄色い糸と、地面から探し当てた彼に繋がる一本を切り、切断された二本を結んで、強引に彼と糸を繋げた。
その瞬間、黄色い糸が真っ赤に染まった。彼の糸だけを切って自分の指に結べばわざわざ二本切る必要もないけれど、なんだか不平等な気がして出来なかった。
とは言え、彼と誰かと、私と私の友達との縁を犠牲にしたのだ。罪悪感が無いと言えば嘘になる。
でもまぁ、二本ぐらいなら、捕まることもないだろう。多分。
これでいつか彼と知り合いになれると思っていた矢先、彼は店で鋏を一本だけ買って去ってしまった。それから四日が経とうとしている。
彼は糸を全て切ってしまうのではないか。
根拠は無いが、そんな気がした。けれど、私の手にはまだ赤い糸が繋がっている。今なら彼を止められるだろうか。
思い立ったが吉日。
私はテントの奥から麻袋を取り出して、店の倉庫を開け、売り物にならなくなった食料を乱暴に詰め込んだ。
店の奥から、何してんだ、と店長の怒鳴る声が聞こえた。構わず私は、急用が出来たと店先に置き手紙を書き残し、そそくさと店を去った。
赤い糸を辿る旅に出るのだ。
「きっと、大丈夫」
自分に言い聞かせる。だって私の糸は――。
♢
男はゆっくりと重い腰を起こした。
ずっと同じ体勢だったせいで、全身が石のように固まっていた。
ふらりふらりと歩いて、ナイフを拾い上げる。
そよ風が吹いて、哀れむように男の髪を撫でる。木の葉が揺れてざわめく。清々しい気分だった。
これが自分の運命だ。こうなる事は分かっていた。自分のような恩知らずは、見捨てられて当たり前だ。誰に裏切られてもおかしくはない。何を絶望することがあるだろうか。
男はナイフの刃先を見つめた。
男の目は、ナイフをもつ自分の手に移った。土で汚れた手の甲に、短い白い線が入っていた。
光だった。
何かが日光を受けて輝いている。
男は人差し指を光の線の下に差し入れてなぞった。指の腹が窪み、線を描いた。
糸だった。すき通るような透明の糸。
誰の糸か、検討もつかなかった。けれど糸の先に居る人を見たいと思った。自分も所詮は人間だった。
糸は地面に垂れて、繊細な光の筋を作っていた。男は糸が示す方へ、一歩足を踏み出した。