77.街に降り注ぐ歌声
窓とは言えガラスは嵌められていないので、そのまま「よっ」と乗り越える。保護バブルの効き目はまだ切れていないので濡れることもなくそちらに飛び跳ねていった。一番高い岩場を登っていくと予想通りピアジェの後ろ姿が見えて来る。彼女は岩の先端に腰掛けて美しい歌声を街中に降り注いでいた。私はしばらく後ろに立って旋律に聞き入る。歌詞もなければ抑揚もない、ただひたすらにシンプルなメロディの繰り返しだ。だからこそ彼女本来の声質が引き立つ。目をつむって聞くと声帯ではなく楽器から奏でられている音みたいだ。
「これは古くから伝わる子守歌なんです」
歌をやめて振り向いたピアジェは人好きのするいつもの笑みを浮かべながら声音を変えた。
「どうされたんですか~魔王様、やっぱり寝床が合わなかったのでしょーかぁ」
「演技しなくてもいいよ、大丈夫」
私が苦笑しながら言うと、間延びした口調のまま口を開けていた彼女はスッと雰囲気を変えた。再び眼下に広がる街へと視線を落とし少しだけ笑う。
「知ってたんですね」
「まぁ、そこまであからさまに温度差があるとね」
やっぱりそうだ、この子は少しだけ演技をしてたんだ。下手に出るのに合わせておつむの弱いふりをしていたのね。
水流に合わせてゆるやかにウェーブする彼女の髪の毛が揺れる。天井に開いてしまった穴から差し込む月の光に照らされて、まるでスポットライトの中に居るかのようだ。
「白痴を演じていれば、多少は油断してくれる事が多いものですから。明日のお返事は色好いものになりそうでしょうか?」
「……厳しいかも」
聡い彼女に何を言ってもバレてしまうだろうと判断した私は素直に白状した。その答えを予期していたらしいピアジェは半ばあきらめ気味に笑った。
「ダメ元で申し入れましたが、やはりですよね」
「あのっ、みんなでまとめて地上に引っ越してくるとかできないかな? そうしたら全然受け入れられるよ」
「難しいと思います。わたしのように浮遊魔術が使える者ならともかく、そうでない民は移動すらままならないでしょう」
「一時的な避難って考えてくれても――」
「あなた方が水中で生きられないように、わたしたちも地上では生きて行けないのです」
避けられない現実に私はグッと唇を噛みしめて黙り込む。振り向いた人魚姫は哀しそうに笑っていた。
「そんな顔をしないで下さい、無理を押し付けているのはこちらなんですから。魔王様が気に病む必要はどこにもないんですよ」
「でもっ……」
「仕方ありません、時代に合わせて人魚は滅びていく運命だったのでしょう」
諦めたような口調に、私の中に少しだけ反発心が沸き起こる。相手の気持ちも考えずについその一言が出てしまった。
「あなたは、それでいいの?」
少し考えれば分かるはずだった。誰だって自分の一族が滅んで嬉しいはずがない。しまったと思った時にはもう遅く、拳を握りこんだピアジェが感情を必死に押し殺しながら口を開いた。
「いいわけ……ないじゃないですかっ、本当は国の誇りを捨てたくなんかありませんよ!」
水中で泣いているんだろうか、顔を歪ませたピアジェは自嘲するように胸元に手を当てて自らをあざ笑った。
「魔王様、見ました? これが今の人魚族の姿なんです。戦う力を持たない我らは住んでいた都を追われ、強者にすり寄ることで生きようとしています。情けないですよね。でもどうしようもないんです、わたしたちには武力も才能も無いから!!」
ひぐっと一度しゃくりあげた人魚は、前傾にそのまま倒れていく。
「わたしにも、あなたみたいな才能があったらよかったのに……」
慌てて駆け寄ると、だいぶ遠くの方ですでに小さくなっている姿が見えた。最後に一度キラリと光を反射したかと思うと岩陰に消えていく。一人残された私は頭を掻きながら正直なところを言った。
「あなたみたいなって、別に私に才能はないんだけど」
うちの場合はたまたま有能な部下が居てくれただけであって――
「……」
そうか、あの子は仲間が居なかった私自身の姿なんだ。ルカたちが居なかったら私はどうしてただろう、同じように誰かに助けて下さいって命乞いしてたかもしれない。
さっきまでピアジェが座っていた岩の先端に腰掛けて、私はそれからしばらくぼんやりと光る街並みを見下ろしていた。
***
翌朝、シェル・ルサールナの広場には大勢の人たちが詰めかけていた。その中央に位置する少女英雄のブロンズ像の前には、柔らかいクッションが積まれてイオ様がうずもれている。その横には気まずそうな顔をしたピアジェも控えていたけど、決してこちらを見ようとはしなかった。みんなが固唾を呑んで見守る中、私は一晩考えて出した結論をハッキリと宣言した。
「この国をハーツイーズ国に吸収はしない事にしました。シェル・ルサールナにはこのまま国家として存続して貰います」
事実上のお断りに人魚たちの間から失望の声があふれだす。より一層老け込んだように見えるイオ様は、それでも縋るように懇願してきた。
「どうしても……どうしても考えては頂けませんか、どのように使って頂いても構わないのです、奴隷としてでも無理でしょうか」