163.今だけは許して
「まったく、無茶をするものですね。凍傷になりかけて、下手をしたら指が無くなっていましたよ」
ところが彼女は平然とこちらに寄ってくると、湯気を出すタライとタオルをサイドテーブルに置いた。それでも私は油断せずににらみ付ける。椅子に掛けた皇女は平坦な声で問いかけてきた。
「お兄様はどうなさいました」
その言葉で押し込めていた最後の場面がフラッシュバックする。唇を噛んだ私は率直に打ち明けた。
「追っ手と共に……川に」
「……そうですか」
はぁっと息をついたシュカさんは、急に居住まいを正すと予想外の事を切り出してきた。
「まずは謝罪しなければなりません。叔父を討ち取るためにあなた方を利用してしまったこと、本当に申し訳なく思っています」
「え……」
しっかりとした言葉と共に深々と頭を下げられ、私は面食らう事しかできない。叔父? 討ち取る? 私たちを利用した?
「どういうこと?」
震える声で問いかけるとシュカさんは頭を上げた。まっすぐな瞳で真相を語り出す。
「叔父があなた方に追っ手を差し向けたことで、城の精鋭部隊は大多数がこの山へと集結しました。あの場に残ったのは私の第弐部隊のみ。城を制圧し、サイゲツの首を刎ねるのは赤子の手をひねるより容易いことでした」
首を『刎ねた』という過去形にギクリとする。あの代理皇帝が、すでに亡き者になっている? 窓から差し込む夕陽で、私が気を失ってから数時間経過していることが伺える。私たちが暁宮殿から脱出したのは午前中だったから、半日もしない内に事を済ませてしまったということになる。混乱しながらもなんとか導き出したのは
「シュカさんが、クーデターを仕掛けたってことですか」
その言葉に、彼女の赤い瞳が燃え上がる。苛烈な感情を鉄の仮面で覆い隠した女将軍は、つとめて冷静な声で返してきた。
「クーデター? いいえ、元を正せばサイゲツがこの国を手に入れるために我が父を陥れたのが真実。反逆などではなく、わたくしは道理を正しただけです」
まるで全て自分が正しいと言わんばかりの口調に、私の中で反発心が生まれる。この人は私たちを囮にしたんだ。そんな、人を手駒のように使って……!!
「どうしてそんなことをっ、ラスプは……コウゲツは実のお兄さんだったんじゃ――」
「十年間!」
怒りをぶつけようとした瞬間、かぶせるように彼女は叫んだ。ふとその手元を見ると握りしめた拳が震えていた。爪が皮膚に食い込むブツという音が響く。すさまじい気迫に私は何も言えなくなってしまう。
「十年……幼かった私は自分を殺し続けひたすら耐えました。力を蓄え、たった一度のチャンスを掴むため、憎き叔父に愛想笑いを振りまき従順な傀儡を演じ続けてきたっ、全ては今日この日の為に!」
鉄の仮面が剥がれていく。感情のまま叫ぶ彼女の中に、私は確かにラスプの面影を見た。哀しいほどにこの兄妹は似ているのだとようやく気づかされる。
「これが私の戦い方です! 両親は死に、兄に見捨てられ、たった一人残された皇女の打算をあなたは笑いますか? 笑いたければ笑えばいい、なじりたければなじればいい!」
私はそこでハッとした。傷つき壊れかけたラスプはアキュイラ様に連れられてこの島を脱出した。だけど一人置いていかれたシュカさんは? 一人残された妹はどんな思いで兄を見送ったのだろう。
頭を振りたくった孤独な皇女は、悲痛な声で叫んだ。
「私が選びとってきた道は、決して間違いなんかじゃない!」
“あなたが選びとってきた道は 決して間違いではない”
スオミ妃のメッセージを、彼女もあのアトリエで見たのだろうか。たった一人で孤独に戦い続けた彼女をなじる資格が、私にあるんだろうか。
「まちがいなんかじゃなかった……」
……きっと嘘だ。心では後悔しているのに、自分に対して無理やり言い含めている。顔をクシャクシャに歪ませたシュカさんの目から、涙がひと筋こぼれ落ちた。顔を覆ってしまった彼女のすすり泣きを横に、私はぼんやりと窓の外を見ていた。
赤い赤い夕陽が、怖いほど綺麗だったのを覚えている。
「私はこうなることを予期して、あなた方を招き入れたのかもしれません」
ようやく落ち着いたらしい彼女が話しかけてきたのは、それからしばらく経ってからの事だった。再び冷静な顔つきに戻った彼女は、少しだけ目元と鼻を赤くさせていた。
「兄を犠牲にして機会を窺う計算高い女ですが、これが一人残された私の戦い方なのです。共に国の責任を負う立場として、どうかご理解下さい」
責任を負う立場という言葉が耳に残る。そうだ、私はハーツイーズの国王。しゃんとしろ。哀しみにくれてる暇なんてないはず。
「国内が混乱してはいますがお送りいたします。港に船が停めてありますのでどうぞ」
***
砂浜に着く頃には、すっかり陽も暮れて海は黒々と光っていた。注ぎ込む河口の方を見ると人だかりができていて、回収された兵士たちを嘆く声が遠くに聞こえている。遠吠えにも似たその泣き声も、今の私にとっては心の表面をだだ滑りしていくだけの雑音にしかならなかった。
「兄の遺体は上がっていません。おそらくはすでに沖に流されてしまったのかと……」
隣に立つシュカさんが言いづらそうに報告する。ラスプは泳げない。万が一川の水で死んでいなかったとしても、望みは薄いだろう。
「そうでなくとも、矢に川の毒を仕込んでいましたから……」
もういい、これ以上聞きたくなくて私は顔を背ける。口を開くと思ったよりしっかりした声が出せた。
「ラスプは我が国の優秀な将軍でした。ハーツイーズが失った損失は計り知れない。ですが、彼自身も過去の行いにけじめを付けなければならなかった。おそらくは本人もそう考えた上での行動だったのでしょう」
「魔王様……」
「私たちを策に嵌めたことは不問にします。その代わり、私が召喚した際は無条件でこちらに参じ、全力を尽くして我が国の戦力になること。いいですね」
拒否なんてさせないつもりだった。でもシュカさんはピシッと背筋を伸ばすと素直に応じた。
「もちろんです。今回の事件で半数の兵を削減したとはいえ、我が一族は生粋の戦闘民族。サイゲツの元で腐りきっていた軍を再編成し、必ずやお力になれると思います」
もう十分だ。一刻も早くこの島を離れたくて、私は船の方へと向かう。最後の最後で、背後から打ち明けるような声がぽつりと聞こえてきた。
「シュカはコウ兄様を恨んでなどはいません。ただ、もう少し気にかけて欲しかった。残された唯一の家族だったのだから」
「……」
私は振り返らず桟橋を渡る。船の甲板に立ち見下ろすと、海は全てを呑み込んでしまいそうなほど黒かった。とても探し物など見つかりそうにない。
それでも私は、出航してからいつまでも波の合間を探し続けていた。赤い何かが見えるんじゃないかと期待する気持ちと、見つけてしまいたくなんかないと拒否する気持ちがせめぎ合う。
結局、瘴気のエリアに突入して防護布が覆うまで私は甲板に立ち尽くしていた。部屋に戻りベッドに腰かけると、来た時のやりとりが思い出された。行きは二人だったのに、帰る時には一人だなんてあの時の私は想像できただろうか。
「ふっ、ぇっ……」
つらい、苦しいよ、全てを投げ出して泣いていたい。だけどそんな時、彼の今際の言葉がよみがえる。
――お前はいい魔王だよ。オレが太鼓判おしてやる
……そう、だ、私は、泣いてぐずっていればいいだけの女じゃない。国王なんだから、ラスプが認めてくれたように、しっかりとした魔王でいなきゃいけないんだ。
「泣くな、泣くな……泣くな私……」
おねがい、この船がハーツイーズに着くまでには、泣き止むから。
「……」
そうして私は、感情に蓋をした。