162.慟哭の果てに
その時、私は確かに叫んだはずだった。だけど自分の喉から出したはずの声でさえ、彼が足元に突き込んだ強烈な一撃の音にかき消された。
雪だけの脆い足場はあっけなく崩れ、まるでスローモーションのように向こう岸全体がなだれるように傾いでいく。
「いやああああ!!!」
私の叫び声が合図だったかのように、時が流れ始めた。途中までしっかり目でとらえていたはずなのに、兵士たちにもみくちゃにされて見失ってしまう。いくつかの塊になった追手たちは次々と死の渓谷へ落ちていき水の音が上がる。耳をふさぎたくなるような悲鳴が谷底から聞こえてきた。
「……」
物言わぬ肉塊になった狼たちが、浮かび上がっては流されていく。私はその光景に膝をついて言葉を失う。一瞬だけラスプの黒い服が見えたような気がしたけど、すぐに押し流されて川の底へと沈んでしまった。
どれだけそうしていたかは分からない、だけど現実はグズグズしている余裕を与えてくれなかった。先ほどの衝撃が連鎖的に響いたのか、あちこちからゴゴゴゴ……と不気味な低音が鳴り始めたのだ。上の方で雪が崩れ始めるのを見た私は尻もちをついたまま後ずさった。ほとんど本能のままに立ち上がり転げるように逃げ出す。
走った。涙を流して、意味のない叫び声を上げながらひたすら走って逃げた。正直、この辺りのことはよく思い出せない。
***
再び降り始めた雪は強さを増し、凍てつくような寒さになっていた。
痛いくらいの寒さだけど、それ以上に心がマヒして動かない。私は先ほどから無感情にただ足を動かし続けていた。
サクサクと新雪を踏みしめる。たぶん、チャコたちが用意してくれた魔法のヒートテックの効果が切れている。だけど、それが何だと言うんだろう。
「……」
唐突に道が終わり、木々たちが開けた広場の中心に、目指す花が咲き乱れていた。
白い花、透明に色をつけたような雪魂花は確かにそこにあった。雨に濡れると花びらが透けるようで、手のひら大の花から淡い光がこぼれ咲いている。普段の私ならこの息を呑むような美しい光景に反応したのだろうけど、今はただ虚ろに近づいていく。
「あった……」
膝を着いて荷物を下ろす。機械的な動きでリュックの中から丸いガラス管の入れ物を取り出し、上部の蓋を開けて雪の上にそっと置く。毒を通さないと渡された手袋を装着し、花を掘り起こす作業に入った。
「……」
今の私をかろうじて動かしているのは、もはやわずかに残った「国のために」という義務感だけだった。
土ごと掘り起こした花を一株、ガラス管の中に入れてキュコと蓋をしめる。それを抱えた私は、花には目もくれず引き返し始めた。山向こうの集落まで降りよう。降りて、えぇと、どうすればいいんだっけ
***
わたし、どうしてここに居るんだろう。吹雪が強くなってきた。雪の中から引き抜く足が、枷でも付けられているかのように重たい。なんだか全身が熱くてしょうがない。マフラーと帽子を外して放り投げる。コートも要らない。抱えたガラス管だけがひんやりしていて気持ちいい。なんだっけ、これ。すごく大事な物だったような気がする。私の大切なものと引き換えに手に入れた
「……?」
一瞬だけ記憶が跳んだ私は、気が付くと雪の中に倒れ込んでいた。起き上がらなきゃと思うのだけど、起きたところで何をすればいいのか分からないのでしばらく横になることにする。すごく眠たい。泥のような睡魔が身体全体に圧し掛かってるみたいだ。
わたし、だめだ、こんなところで倒れていちゃいけない気がする。だけど……このままじっと何も考えずに横たわっているという誘惑に抗えない。
(寒い……)
火照る全身の中で、唯一胸の辺りだけが冷たかった。ぽっかりと穴が空いてしまい、雪風が吹き込んでるんじゃないかってくらいキリキリと痛む。
(どこにいるの、私の、赤い……)
吹き付ける雪風が視界を真っ白に染めている。もうほとんど目が閉じかかった時、雪の向こうからそれは現れた。
近寄って来た赤い狼はこちらをじっと見下ろす。炎のように暖かい瞳の色で誰なのかを確信する。あぁよかった、生きてたんだ。私は口の端を弱々しく吊り上げて手を伸ばす。ふさふさの胸元の毛を撫でて引き寄せ顔をうずめる。あったかい……。
ひどく安堵した私は急激に魂を下に引っ張られるような感覚に襲われた。抗うことなく目を閉じて、そこで意識を手放した。
***
そこはどこまでも白い空間だった。雪とは違い温かみのある白の世界で、目の前にはラスプが立っている。
良かったね、助かったんだ。思わず飛びついて見上げると、彼は哀しげに微笑みを返してきた。持ち上げた手でいつものように私の髪をかき乱すように撫でる。普段ならセットが崩れるから怒るところだけど、いいよ、今日は特別。胸に頬をぴたりと寄せ、心地よい感覚を堪能する。
だけどふいに離れた手に顔を上げる。こちらの肩を掴んで押した彼は一歩下がる。最後に一度笑いかけると背中を向けて歩き出してしまった。その先には眩い光があって、私は思わず目をすがめる。
ねぇ、どこにいくの? 問いかけたはずの言葉が出て来なくて、自分の喉を押さえる。一度歩き出した彼は光へと向かい、その姿がどんどん遠ざかってしまう。
いくら叫んでも無声映画のように声が出せず、足も一歩も動かない。待って、懸命に手を伸ばすのだけど届かない。もどかしい思いが胸につかえ、はけ口を求めた感情が目からボロボロとあふれ出す。
待ってよ、行かないで、置いていかないで!
***
「ラスプ……」
ふと目を開けると、自分の頬を一筋の涙が伝っていくのを感じた。見慣れない木目板の天井と太い丸太の梁が見えて、二、三度まばたきを繰り返す。そうだ、雪山で立ち往生して、一歩も動けなくなって。
「花!」
ハッとした私は慌てて上体を起こし左右に視線を走らせる。ベッドサイドのテーブルに置かれたガラス管を見つけてひったくるように抱え込む。中の雪魂花が変わらず咲き続けている事を確認してほっと息をついた。それにしてもここ、どこだろう? 見た感じ小さな丸太小屋みたいだけど……。
部屋の中央には黒いストーブがパチパチと爆ぜていて、私が脱ぎ捨てたはずのコートやマフラーがその近くで干されていた。寝かされていたベッドも古いけど清潔みたいだし、しもやけで赤くなった手足には軟膏のようなものが摺りこまれていてペタペタしている。誰かが助けて手当てしてくれたみたいだけど、いったい誰が? まさか気を失う直前に見た赤い狼って、追っ手だったんじゃ。
「目が覚めましたか」
「ひっ」
そんなことを考えていたせいか、ギッと扉が開かれて反射的に飛び上がる。涼やかな声と共に入って来たのは予想外の人物だった。
「その容器、必死に抱きかかえていて離すのが大変だったんですよ」
「シュカさん……」
かけていたはずの眼鏡を外していたし、耳としっぽも出ていたけど間違いない、そこに居たのは玉座の間でサイゲツの隣に居た皇女だった。私は警戒して花を隠すようにギュッと抱え込む。