159.咎人は海を渡る
「報告いたします、標的は魔王を連れ山に逃げ込んだ模様。右後ろ脚に矢が一か所命中。現在第四~第十六部隊が追跡中です」
目だけを出した覆面の兵士が膝を着き報告する。ようやく催涙弾の影響が薄れてきた玉座を見下ろしながら、皇帝代理は鼻をこすり上げた。
「例の毒は?」
「ぬかりなく。さほど時間を置かずに効果が出てくるかと」
「よかろう」
満足げに微笑んだサイゲツとは対照的に、その横に控えていたシュカは油断なく表情を引き締めた。固い表情のまま進言する。
「叔父上、あの男は腐ってもセンゲツ帝の息子。追い込まれると何をし出すか分かりません。確実に仕留めるためにも増援を」
「フフ、実の兄にそこまでするとは。そんなにあの男が憎いのか?」
問いかけられた少女はわずかに目を細めた。その朱く光る眼差しの奥で憎しみの炎が燃えている。冷静さの奥に隠した苛烈なまでの感情が垣間見えるようだった。
「えぇ、幸せだった私の日常を奪っていった全ての元凶ですもの。一人逃げ出しのうのうと恥をさらして生きてきた男など兄とは認めませぬ。せめて身内として、始末をつける覚悟です」
サイゲツは考える。ある日前触れもなく独りになった皇女の絶望をあの男は知っているのだろうか。自分がそれを救い上げてやったことを、知る由もあるまい。
皇女の善き後ろ盾として、叔父は彼女の望むままにさせてやることにした。頬杖をついたまま率直に言い放つ。
「良いだろう、許可する。徹底的に潰せ」
軽く頭を下げたシュカは、待機していた兵士長に素早く指示を出した。
「第弐部隊のみ宮殿に残し、総攻撃を仕掛ける!」
「ハッ、シュカ将軍!」
積年の恨みをようやく果たすことができる。腰に佩いた細剣を握りこんだシュカは小さく呟いた。
「お父様、お母様、待っていて下さい……必ずやこの手で」
それを横目で聞いていたサイゲツは口の端をわずかに吊り上げる。各人の願いはすぐ手の届く場所まで来ていた。それぞれの思惑を覆い隠すかの如く、雪は降り続く……。
***
時間にすれば半時も経っていないのかもしれない。だけどどこかの洞窟に転がり込んだ時、私はもう何時間も生きた心地がしなかった。ラスプの背中からほとんど投げ出されるように地面に落ちると、乾いた土が手に着く。
「う、ぅ、逃げ切ったの?」
よろめきながら振り返ると、洞窟の外では相変わらず雪がしんしんと降り続けていた。荷物を下ろしてそっと外の様子を窺う。薄暗い世界の中で動く赤色は特にないようだった。
ひとまず胸を撫でおろし引き返す。見ればヒト形態に戻ったラスプが、洞窟の壁に背を預けてふくらはぎに刺さった矢を掴んだところだった。顔をしかめた彼は無造作にそれを引き抜く。すると傷口からぶしっと血が噴出した。
「うわっ、無茶しちゃダメだって!」
慌てた私は下ろした荷物の中からタオルと包帯を取り出す。止血のため裾をまくって強く押し当てながら口を開く。
「サイゲツは最初っから私との同盟話なんてどうでもよかったのね。だからあんな無茶な条件をふっかけてきた、捕らえるための口実が欲しかっただけなんだ」
この国に招かれたのだって、始めからラスプを捕らえることが目的で……。
――その男は、センゲツ帝とスオミ妃を殺した張本人なのだよ
ふと、先ほどの言葉が蘇る。私は顔を上げる事ができずに手元をじっと見ていた。
「……」
「……」
静かだ。嵐の前の静けさのように世界に音がない。雪ってこんなにも物悲しいものだっただろうか。
「オレが、殺した」
だからその苦し気な独白が聞こえてきた時、私はようやく自分に耳がついていることを思い出したのだった。
「オレが殺したんだ」
何も言わずに耳を傾ける。ラスプはぽつり、ぽつりと落とすように話し始めた。
***
十年以上経った今でも、昨日の事のように思い出すんだ。
オレさ、ガキの時、親父と母上に連れられて人間領に行ったことあるんだよ。何しに行ったのかは覚えてないし公式の記録にも残っていない。たぶん二人はお忍びでオレに外の世界を見せたかったんだと思う。
楽しかったな、オレは耳を隠すのがヘタクソだったから母上が布をしっかり被せてくれてさ。色んなニオイがして、色んな音がして、ニンゲンたちが楽しそうに笑ってて。それまでニンゲンって恐ろしい生き物だと勝手に思い込んでいたけど、そこに居る人たちは魔族と何ら変わりはなくて、もしかしたら友達になれるかもって、その時は思ったんだ。
でも、それも帰り道で野盗に捕まるまでだった。オレはシュカへのおみやげを持ってはしゃいで走り出してさ、気が付いた時には人さらいに捕まってたんだ。耳付きだ、魔族のガキだ、高く売れるぞって。そう騒ぎ立てる奴らに、オレは一歩も動けなかった。
どんなに腕っぷしの強いセンゲツ帝だって、息子を人質に取られちゃ手も足も出ない。アホな息子なんてそのまま見捨てりゃいいのにさ、そうしてくれれば良かったのに……本当に……。
二人は野盗に対して願い出たんだ、自分たちが大人しく捕まる代わりに息子を放してくれってな。たぶん隙をみて反撃するつもりだったんだろう。奴らはその取り引きに応じた。オレを解放する代わりに、大人の人狼二人に首輪をつけたんだ。
そう、覚えてるだろ、ナゴの首にもついてたあの爆薬付きの首輪だよ。
捕らえられた二人はそのまま連れていかれそうになった。その時、野盗の一人が母上に乱暴を働きそうになったんだ。下卑た言葉を浴びせて、あろうことかその場で……。思い出したくもない。
さすがに親父がキレたよ、自分の首に爆弾が付いてることも忘れて鬼神みたいに暴れ回ってさ。手が付けられないって判断したんだろう、野盗たちは情けない声を上げて逃げて行ったんだ。でも起爆装置は持って行かれたから油断はできなかった。オレたちはすぐにその場を去ろうとしたんだ。
…………わりぃ、こっから先は思い出すと今でも苦しくて……。いや、話すよ、お前をこんな事に巻き込んでんだ、話さなきゃフェアじゃない。
母上の首輪を外そうとしたんだ。こんなチャチな材質、引きちぎればなんとかなるって。バカだ、本当に考え無しのガキだったから、そんな軽率なことをして、……。普通に考えればわかるはずだろ、逃げ出した奴隷がムリに外せば、そりゃ見せしめのために……。
突然、目の前で音がした。オレはわけが分からなくて、最後に覚えているのは母上の見開かれた赤い目と、胸を突き飛ばされる感覚だった。オレの襟元を掴んで後方に投げ飛ばした親父が、入れ替わるように母上を抱きしめて……。
ものすごい爆風に吹き飛ばされて、オレの意識は途切れた。いや、本当に気を失って倒れていればどんなにラクだったろうな、
帰りが遅いって船の風司が迎えにきた時、オレは道端で二人の腕と頭を必死に身体に繋ぎ合わせようとしていたらしい。ほとんど覚えてないけど、あの手に持った時の感触は今でも――
……そんな顔するなよ、オレの痛みをお前まで背負い込むことない。聞いてくれるだけでいいから。
たった一人この島に帰還したオレは、サイゲツに表面上は暖かく迎え入れられた。でもその瞬間からもうシュカとは引き離されていた。親しかった臣下たちもいつの間にか居なくなっていて、もっともらしい理由をつけて隔離されたんだ。
サイゲツはオレにこう言った、「泣くな、お前は残された跡取りだ。お父上の意思を継ぎ、強くなければならない」ってな。
強い男は泣かない。皇位継承者が弱い姿を見せるのは許されない。毅然とした態度を取らなければならない。オレはそう自分に言い聞かせて頑張った。でも頑張ろうとすればするほど上手くいかなくてさ、オレに政治的な役割はムリだったんだ。