156.穿月と朱臣
意気込んで話題を切り出そうとした瞬間、代理皇帝さんは両手を広げて流れを止めた。
「まぁまぁ、今日のところはお疲れでしょう。疲れを癒し、明日改めてお話を伺おうではありませんか。それにそういった挨拶はきちんと式典としてやった方がいい」
「はぁ」
意気込みキャンセルを喰らい、私はなんとも間抜けな声を漏らしてしまう。
んん、こっちとしては魔焦鏡のXデーが迫ってるから、一日でも早く帰りたいところではあるんだけど……でも、公式の場でっていうのも分かる。機嫌を損ねてもマズいしここは承諾しておこう。どの道、今夜はもう船が出ないだろうし。
「わかりました、では明日改めて。お心遣い感謝いたします、サイゲツ殿」
それにしてもこの人、私が入って来てから一度も立ち上がろうとしないんだよなぁ。うちの城よりはるかに高い位置にある玉座から、肘をついて見下ろされているのは正直いい気分はしないっていうか。
そんな微妙なモヤモヤを呑み込み退出しようとした時、ラスプに向けて皇帝代理から親し気な声がかけられる。
「コウ、久しぶりの故郷だ。歓迎するぞ」
振り向くと彼はニコニコと笑っていた。それを鋭い目つきで見ていたラスプは、どうもと小さく呟いて踵を返した。私も慌てて後を追う。
玉座を出たラスプは慣れた足取りで屋根のある回廊を進んでいく。その後を追いながら、私は好奇心のうずうずを隠そうともしなかった。そんな気配に気づいたんだろう、ハァっと軽くため息をついた彼は白状した。
「……紅月がオレの本名。コウって呼ばれてた」
「へぇ、コウくん。やっぱり名前だったんだ」
おぉ、結構しっくりくるかも。そうだよね、ラスプって『ライカンスロープ』を縮めただけの種族名だもんね。だけって言ったら命名したアキュイラ様に失礼か。
「コウくん、コウくん。えっへへっ、いい名前だねぇ」
「うるせぇ、無意味に呼ぶなっ」
頬を染めたラスプが、扉を壊す勢いで開ける。その向こうに見えてきたのは皇帝一家が住んでいたという離れだった。今夜はここに泊めて貰う予定だ。
「まぁ入れよ、普段からシュカが住んでるから汚くはないと思う」
「シュカさんもこっちに泊まるの?」
彼の後に続きながら何気なく尋ねる。その途端、ビクッと跳ねたラスプから耳としっぽが出現した。
「い、いや、アイツ、今日は別のとこに泊まる、って」
カタコトな言葉の意味を考えて数秒、私はボンッと爆発したように顔が熱くなった。
「あ、あああ、そうなんだぁ、お話したかったのに残念だなー」
うわぁ、わざとらしいセリフっぽくなっちゃった。そ、そうだよね、私は『ラスプの婚約者』って体で来てるんだから、これは自然な流れだよね。
「とりあえず、座って、どうぞ」
「あ、はい」
お互いにぎこちなく客間に入る。勧められるまま革張りのソファに腰掛けるとラスプはお茶を入れに行ってしまった。残された私は室内を見回す。
とても落ち着いた内装だ。暖かみのある木で造られていて、宮殿の方の無機質な白い石材よりもずっと生活感がある。ところどころ深い緋色で差し色が使われているのは、やっぱり赤がこの部族のシンボルカラーだからなのかな。壁には交差した剣と月が織り込まれたタペストリーが掛けられ、正面には大きな暖炉があって火がチロチロと揺れている。私たちが来る前に、誰かが暖めておいてくれたんだろう。
「ん?」
その暖炉の上に興味を惹かれるものがあった。額縁に入れられた小さめの肖像画だ。ソファから立ち上がって近寄ってみる。立派な椅子に腰かけたお父さんと、その隣でなぜか緊張したような顔をして座る息子。そして父親の膝に甘える娘が描かれている。
「おい、そんな近寄ると燃えるぞ」
「ねぇっ、もしかしてこれラスプのちっちゃい頃?」
茶器セットを手に戻ってきた彼に、私は顔を輝かせながら尋ねる。一瞬「あ」って呟いたラスプは、何となく照れくさそうに苦笑いした。
「まぁ、そうだな」
「かわいいーっっ!」
うわーうわー、確かに今の面影あるなぁ。ちょっと生意気そうなところとか、キリッと上がった眉毛だとか。
「それにしても、お父さんそっくりだね」
だってこのお父さん、今のラスプに生き写しなんだもの。後ろで束ねた燃えるような赤毛に精悍な顔つき。よく見ると貫禄だとか、大人な余裕感が段違いなんだけどね。って言ったら怒るかな。うーん、しかし男前だ。
「一瞬、ラスプに隠し子でも居るのかと思っちゃったよ」
「あのなぁ」
「お父さんは何て言うの?」
問いかけると、なぜかラスプは眉間にシワを寄せながら答えてくれた。
「穿月。あー、何か思い出してきた。この時、親父に鍛錬とか言われて空気椅子やらされたんだよ。絵ェ描いてる間、四時間ぐらい」
「あははっ、だからこんなけわしい顔してるんだ」
「笑いごとかっ、それを三日もだぞ! しかも終わった後に稽古つけられるし」
会話をしているとさっきまでの気まずい雰囲気は消えていた。私は後ろで手を組んで尋ねてみる。
「お父さん、強かった?」
「……国一番の戦士だった」
どこか誇らしげに微笑みながら、ラスプは肖像画の父親を親指でなぞる。私も笑って、先ほどから気になっていたことを聞いてみた。
「ところで、お母さんは一緒に描いて貰わなかったの?」
「あぁ、それを描いたのが母上だから」
「えぇっ」
意外な事実に肖像画をもう一度食い入るように見つめる。めちゃくちゃ上手いんですけど!?
「絵を描くのが好きな人だったんだ。こっち」
案内されて回り廊下を歩いていく。ラスプがある部屋の戸を押し開けると美術室のような特有のむわっとした匂いが鼻を掠めた。薄暗い室内のあちこちに描きかけのキャンバスや布をかぶせたイーゼルなどが置かれている。ためらわずに踏み込んだ彼は奥の方にあった一枚を手に戻ってきた。
「わぁ……」
見せて貰ったのはたおやかに微笑む一人の女性だった。ゆるやかに波打つ赤い髪が陶磁器のような白い頬を包み、慈愛に満ち溢れたまなざしがこちらに向けられている。
「朱臣妃。オレの母親だ」
「綺麗な人……」
「実際はもっと美人だったぜ」
さらっと言い放つラスプを見上げてニマニマしてしまう。それに気づいた彼は眉を寄せた。
「なんだよ」
「いや、ふふっ、仲のいい家族だったんだなって」
母上って呼んだり、素直に褒める言葉の端々から両親を敬愛する気持ちが伝わって来る。私は辺りのキャンバスを一つ一つ見ながら続けた。
「写真とか絵って、描き手が見ている世界そのままが描写されるって聞いたことがあるの。ここにある絵からはどれも暖かい気持ちが伝わって来る、みんなスオミ妃に笑顔を向けている」
城で働く女中さんの何気ない洗濯風景。武闘大会の活気あふれる日の思い出。子供たちが摘んできてくれた木の実と葉っぱ。どれを見ても優しい色使いで皇后様の人柄がにじみ出てるみたいだ。
「優しい人だったんだねぇ」
しみじみと呟いてありし日の都に思いをはせる。だけど、しばらくしてポツリと聞こえてきた声は、憂いを含んだものだった。
「優しすぎたのかもな」
「え?」
聞き返す間もなくラスプは部屋を出ていた。戸の外で伸びをして肩をグルグル回している。着ていた上着をぬぐとこちらにバサッと放り投げた。
「さて、オレはそろそろ例のアレを取って来る。すぐに済むと思うから先に風呂でも入っててくれ。誰か来たら適当にごまかせ、多分その服のニオイで騙せるから」