117.何度も言うようだけど
「……」
「……」
触れるだけのキスは静かに離れ、沈黙が降りる。もう限界だった。色んな事が一度に起きすぎてキャパオーバーになった私はわなわなと拳を握りしめる。キッと正面をにらみつけるとそれまでのモヤモヤを全部ぶつける勢いで叫んだ。
「なんで、なんでこんな困らせるような事するの、ばかぁー!」
「うおっ」
ぶわっと吹き出した涙を拭いもせず力いっぱい目の前の体を押しのけて脇をすり抜ける。うわーんと泣きながら逃走した私は、今度こそ自分の部屋に駆け込み勢いよくドアをしめたのだった。
***
本日の天気、快晴。
山野井あきらの気分、曇天・ときどき荒れ模様。
あの衝撃の告白から二日、私はどよーんとした気分でトーストをサクサクとかじっていた。ぶす暮れた表情の女にわざわざ話しかけてくる人も居らず(居たけど、取材メモ片手に喜々として小走りでかけてきたオッさんは居たけど、ライムが問答無用で引っ張っていってくれた)こうして一人で朝食を食べている。
(あたまの中ぐっちゃぐちゃ……)
考える時間が欲しいとは言ったけど、ぶっちゃけ落ち着いて一人で考えたところで答えなんか出やしなかった。
(どうしてあんなこと言っちゃったんだろう)
地の底までめりこむようなため息をついて机に突っ伏す。私の今の気持ちの大半を占めていたもの、それは罪悪感だった。曖昧に濁して困らせたのは私の方だって言うのに……。
その時、ツンツンと髪の毛をひっぱられる感覚がして頭を上げる。白いテーブルクロスの上で遠慮がちに進み出た手首ちゃんがメモ用紙を見せて用件を伝えてくれた。
――ラスプ様から伝言です、屋上で待つとの事でした。
***
屋上菜園へと続く木戸を押し開けると、いつものように軽く軋む音が響く。ここまで暗くて狭い螺旋階段を登ってきたのでまぶしい青空に少しだけ目がくらんだ。吸い込まれそうな夏空だけどまだ午前中ということもあり吹き抜ける風が心地いい。
「よぉ」
そんな鮮やかな背景をバックにしてその人は居た。ここ二日私の頭を悩ませまくった張本人は、軽く片手を上げて石塀の縁に寄りかかっていた。
「……」
私は挨拶を返しもしないでフラフラとそちらに歩いて行く。屋上のちょうど中央辺りで足を止め固い表情でジッと彼を見つめた。塀から離れて二、三歩こちらに寄ってきたラスプだったけど、気まずそうに頭を掻いては「あー」だの「うー」だの言っている。
「悪かった」
やがて観念したように彼の口から出て来た言葉が風に流れて届く。歩みを進めて私の目の前まで来たラスプは、後ろに隠し持っていた何かをこちらの手の中に押し付けるように渡してきた。バラだ。丁寧にラッピングされた一本の赤い薔薇が甘い香りを立ち昇らせている。彼はそのまま頭を掻きながらいつもより気持ち早口で話し始めた。
「もうお前を好きな事は隠さないけど、待つから。いつか元の世界に帰る段取りができて、全部気持ちの整理がついて、それでも断るようならきっぱり諦めるから」
ここで言葉を一度止めたラスプは、手を下ろし真剣な顔つきでこう尋ねて来た。
「だから、それまでは好きでいてもいいか?」
そよぐ風が髪をさらう。しばらく薔薇を見つめていた私だけど、口の端を吊り上げて問いかける。
「これ、ラスプが買ってきたの?」
「あ? まぁ、そうだな。あの妙な石はやっと外れたからダナエに返したし……」
「ふ、ふふっ、似合わないね。ラスプってこんな気障な真似できたんだ?」
「お前なぁっ」
怒ったように一歩詰め寄って来たラスプだったけど、こっちが声を出して笑いだしたのを見てつられたように笑う。それからしばらく二人で笑いあった。ここ数日のギクシャクが嘘のように消え去っていく。
ひとしきり笑った後は、ようやく素直に謝れそうな気がした。貰った薔薇を両手で握りしめ、すぐ目の前に居る彼を見上げる。
「私こそごめんね、ずっと気づかないふりしてた。自分の都合ばっかり考えて、見ないふりしてたの」
人から向けられる好意を無碍にするなんて本当に失礼な話だった。自分がされたらどんなに哀しいだろう、なのにこの人はそれでもめげずに立ち向かって来てくれた。
「気づかせてくれてありがとう。もう無視なんかしないから……だから、お言葉に甘えてもうちょっとだけ時間を貰ってもいい?」
「仕方ないな、『マテ』してやるよ」
茶化したように言い返す彼に笑いがこみ上げる。ここで視線をそらしたラスプは少しだけ頬を染めてこう続けた。
「それと、キスしたのはまぁ、野良犬にでも噛まれたと思ってくれ」
その一言で、ようやく落ち着いてきたはずの場面が一気に再生されてしまう。そのままだと再び話せなくなりそうで、私は慌てて話題をそらした。
「、でもっ、私があんな態度取ってたのはラスプにも責任があると思うの。最初っから人のこと散々ガキだガキだって言っておいて」
「そっ、それは……」
ギクッと痛いところを突かれたように言葉を濁すラスプ。そうそう、こういうやり取りがいつもの私たちだ。調子に乗った私は背中を向けてつーんとそっぽを向く振りをする。
「しかも何? 『お前が好きらしい』って。そーんな曖昧な気持ちなんだ?」
「だからっ、それはだなぁ」
焦ったような声が背後から聞こえる。ちらりと視線をやると途方に暮れたように立ち尽くす狼さんが見えた。耳なんかしょんぼり伏せちゃって、大の男の人なのになんだかちょっとだけ可愛く見えてしまう。クスッと口元に手をやった私は肩越しに振り返り、安心させるように微笑んだ。
「大丈夫、ちゃんと伝わってるよ」
その言葉にラスプは目を見張る。さてと、そろそろ戻ろう。気持ちがスッキリしたところで今日は頑張れそうだ。ここ数日うだうだして滞っていた仕事を片付けなくちゃ。
あー、それにしてもよかった。とりあえず保留にしてくれて。ラスプには悪いけどこの世界にお別れする時が来たらきちんと断――
「っ、」
ちくん、と。胸を刺されたような痛みに襲われて立ち止まる。ん? んんん? なんでこんなに戸惑ってるんだろう。
その時、背後から足音が近づいてくる。視界を覆い隠すように後ろから頭部を捕らえられ小さく悲鳴を上げた。そのまま引かれて重心が後ろに傾く。背中をトンと受け止められ、柑橘類のような男性の汗の香りに包まれた。鼓動が一気に跳ね、貰った薔薇を必要以上に強く握りしめてしまう。動けずにいると頭のすぐ上から声が降ってきた。
「何度も言うようだけど、オレ犬じゃなくて狼だから」
「え? っと?」
突然何を言い出すのかと目隠しされたままで視線を上げる。ラスプはどこか切羽詰まったような声をささやくように滑り込ませてきた。
「……待てなくなったら喰っちまうからな」
急に視界が開け、横をすり抜けた赤いしっぽが木の扉の向こう側に消えていった。完全に思考が停止して、無意識の内に唇に触れるとあの時の感触がよみがえる。
包み込むように優しく押し当てられた唇はやけどしそうに熱くて、それなのに嫌な感じはまったくしなかった。とびっきり美味しいものを食べた時のような幸福感が身体を貫いていったのを覚えている。
(私もラスプを好きになりかけてる、のかも)
気づいてしまった感情は心臓をダイレクトに殴りつけた。真っ赤になった私は一拍置いてから頭を抱えてその場にしゃがみこむ。
「~~~っ!!」
どうしよう、やっぱり何にも解決してない!!