111.好きになってはいけない
「ただいまー」
帰宅した私はステラを浴室へと放流すると部屋へ戻り、そのまま倒れ込むようにベッドにダイブした。慌てて寄ってきた手首ちゃんが「せめて着替えだけはしてくれ」と云わんばかりにペシペシと腕を叩く。やる気なく転がった私はポケットを探り、平べったいグレーのケースを彼女の前に置いた。
「おみやげ」
しばらく固まっていた手首ちゃんは、我に返るとくるっと人差し指を回転させた。浮遊魔術フロートで鏡台に置かれていたメモ帳を引き寄せると、ちょっと崩れた走り書きで一文を綴る。
――わたくしにですか?
軽く笑った私はようやく上体を起こしあぐらを掻いた。震える手でケースをこじ開けた手首ちゃんは、中のブローチを目(?)にして再び固まった。私はケースから取り出して切断面を覆い隠しているハンカチに付けてあげる。
「気に入ると良いんだけど」
そう言った途端、ようやく動いた彼女は猛烈な勢いで人差し指を打ち付け始めた。これは私との間で決めていた簡単なハンドサインでタップすると「はい」と言う合図だ。つまり今の状態を訳すと「はいはいはいはい!」になるだろうか。それだけでは表現しきれなかったのか、手首ちゃんは見たこともない動きでピョンピョンと私の周りを跳ね始めた。あはは、喜んで貰えたようでよかった。
――ありがとうございます、とても嬉しいです。一生の宝物にします。例のドワーフ職人の所で購入したのですか?
「うん、いい出来でしょ? 舞台でも使おうと思って内定出してきた。だけど聞いてよ――」
仰向けに倒れ込んだ私は、先ほどあった事をかいつまんで話し始めた。主にあの吸血鬼さんの突拍子もない行動についてだ。黙って聞いていた手首ちゃんが肯定的な意見を出す。
――素敵ですね、ルカ様のことですからとてもスマートにやって見せたのでしょう?
「そりゃお芝居みたいに完璧だったわ。だけど相手が私っていうのが間違ってるでしょ! ほんとにもう何考えてるんだか、こっちをからかってるつもりなんだろうけど、あの顔で真剣に言われると勘違いしちゃいそうになるから困る。ないない! 私とルカの組み合わせはない!」
うぅ、思い出したらまた顔が熱くなってきた。両手で顔を覆い隠していると、カリカリと筆が紙にひっかかる音が静かな室内に響く。ツンツンと髪をひっぱられる感覚で目を開けると思いもよらぬ一文が飛び込んできた。
――向けられた好意は素直に受け取ってよろしいのでは?
「好……意?」
メモを手に意味を考えていると、次なる言葉が舞い込んで来た。
――ルカ様がご主人様に向ける感情がどのような物であれ、真正面から否定してしまうのは少し可哀想な気もします
――ご主人様はご自分を下に下に置こうとする悪いクセがありますよね
――「私なんて」そんな言葉は使わないで下さい。あなたは愛情を向けられるに値するとても魅力的な方なのですから
「……」
――わたくしもご主人様のことが好きですよ。もちろん直して頂きたい点もありますけど……それらをひっくるめて大好きなんです
その時、浴槽の方でとんでもない音がして手首ちゃんがすっとんでいく。きっとまたステラがいたずらをしたんだろう。
一人残された私はまくらに顔をうずめてひたすらニヤけていた。どうしよう、嬉しい……。
でも、それと同時にとてつもない不安に駆られた。私だってこの国のみんなが大好きで、とても大切な物になっている。
(いつか向こうの世界に帰った時、耐えられるのかな)
おひさまの匂いがする枕をぎゅっと抱きしめる。あと二か月もないんだ。どうして忘れていたんだろう。私はこの世界の人間じゃないのに。
それにやっぱり手首ちゃんの意見はズレてる気がする。言葉にして貰って嬉しかったけど、友情と男女の愛情はまた別の話だ。私はいつかこの世界から居なくなる存在。悲しい結末になるのが分かっているぐらいなら友達以上には踏み込むべきじゃない。
「最後は笑ってお別れできるようにしなきゃ」
揺れそうになる自分に言い聞かせる。少しだけ帰りたくないと思ってしまった気持ちも嘘じゃないけど、でも、やっぱり私は魔王アキラじゃなくて山野井あきらだから。
(お父さんもお母さんも待ってる……先輩だって、きっと)
***
その晩、久しぶりに日本の夢を見た。
季節は夏に移ろい、ジリジリとアブラゼミの鳴く通勤路を駅まで歩く。アスファルトでゆらめく陽炎、吸い込まれそうになる夏空と入道雲、それらを見上げた私はぼんやりとした違和感を覚える。
(あれ、なんでこの光景)
その正体を捕まえられずにいる内に景色が波のように流れていく。答えなんてどこにもなくて、気づけば水の中に沈んでいくような感覚と共に別の夢へと落ちていった。
***
「あはははは、嫌ですよ魔王様ぁ。ビビりのわたし達がドラゴン様のところから卵なんて盗むわけないじゃないですかぁ」
燦々と太陽が降り注ぐ青空の下。庭、とは名ばかりの手入れの行き届いていない広場に鈴を転がしたような人魚の声が響く。水を張ったタライにもたれたピアジェは笑い続けながら尾ひれをピチピチと水面に叩きつけていた。だけど急にキリッとした顔つきになると親指を立てて誇らしげに自分を指し示す。
「だいいち盗めるわけないですね! 人魚族の戦闘力のなさは折り紙つきですから。出会いがしらにパクっとされちゃいますよ、踊り食いです」
「そういう美味しそうな単語を私の前で発言しないで頂きたい、ピアさん」
頭の中に浮かんだ活き造りを追い払いながら視線を逸らす。抱えてきたパラソルをドスッと地面に差して広げると夏の厳しい日差しが少しだけ和らいだ。後からやってきた手首ちゃんが浮遊魔術フロートで椅子と簡易テーブルを運んできてくれるのだけど、勝手口のドアにガッと引っかかってしまう。
「あ~、こんにちわぁ手首さん。わたしも手伝いますよぉ~」
こちらもフロートで受け取ったピアジェが、木陰からひょいひょいと操作してお茶会の会場を作っていく。便利そうだなぁ、あの術。一回グリに習おうとしたんだけど、膨大な魔術理論にめまいがしたのよね……。く、悔しくなんかないですし! 私は土魔導一筋ですから!
ふんっ、と気合いを入れた私はしゃがみこんで地面に両手を添える。しばらくすると地中から伸びた蔦があちこちのしげみに覆い茂り、名も知れぬ白い花たちがポポポポと咲き始めた。ドヤァァ!
「おぉ~、土魔法ってお花も咲かせられるんですねぇ。わたしも使ってみたいですけど、こればっかりは相性ですから~」
そうそう、適材適所ってやつなのよ。決して魔術数式が理解できなかったわけじゃなく!
仕上げにテーブルクロスを広げ、最後に手首ちゃんお手製のクッキーとレモネードを受け取って着席する。タライごと飛んできたピアジェが近くに着地してようやくお茶会が始まった。
ここは城の正面向かって右側にある庭園。見上げると大広間のバルコニーが見えるので、いつだったかゴブリンたちが雁首揃えて襲撃しに来たところだ。
ピアジェが来訪したので話でも――と、思ったのはいいけど、執務室はルカが大量の書類を広げていたので使えず。なら優雅に外でお茶会でもしようじゃないかと思ったのが間違いだった。花より団子の我が国では庭師なんぞいるはずもなく、長年放置された庭園は荒れ放題でこんもりしている。なんかイメージしてたお茶会とは違うけど……まぁいいか。その内にここも整えよう。
「で、お願いなのですが――」
見てください! 見てください! ご主人様から頂きましたの!
あ、手首です。こちらではお久しぶりですね。
とても嬉しいのですが、汚したり壊してしまうのが怖いです…大切に扱いましょう。
懐かしいですわ、生前もこうして――