断片その一(9)
あああもう、何やってんだか、逃げるなんて、置いてくなんて、あああ……――
どう考えても奇行だった。しかし零れた水は盆に戻らない。漸く冷静を取り戻して、やってきた羞恥と後悔に頭を抱えつつ、こそっと雑誌棚から顔を出し様子を伺う。怒ったかな。呆れたかな。信用問題に関わる、なんて今更だろうにそんな事を思う。
遠目からでも際立つ、スタイル抜群な長身の後ろ姿が見えた。距離を持って見れば、如何に人目を引くかに気が付き、小さく戦慄した。あれと私歩いてたのか。あんな目立つのと。
何やら出て行きたくない思いが衝動的に沸き上がるが、放置する訳にはいかない。此方を向いていなかった事をこれ幸いと、中腰だった姿勢を伸ばす。自業自得だというのに、今軽蔑の眼差しを受けたら心が折れそうだった。
しかし彼の全身を捉えた私は、おやと目を見張る。
彼は一人ではなかった。彼の向かいには二人の女性。おう逆ナンされてんぞ流石イケメン、と思ったのも束の間。新しい事態に戸惑う。
相手は格好からして若い。そうか学生は夏休みか。しかし驚くべきはこの短時間での逆ナンだろう。ええと今何時、恐らく5分も経ってないか。そして3分以上この状態から抜け出せなかった私にも驚きだった。私思ったよりもナイーブ。
いやいやそんな事より。
困った事になった。私に此処で出て行く勇気はない。ただの知り合いや友人なら、なま暖かい眼差しと共にスルーしてやる場面である。良かったねーぐらいの感想しか持てない。
しかし彼と私は普通の枠を優に越えた関係で、いやなんかその言い方気持ち悪いな主に私の勘違い的な意味で。
「いらっしゃいませー」
呆然とする私の耳に、店員の明るい声が届く。はっとした。
此処に居ても仕方ない。それは判るが足が竦む。
派手な髪の色の女の子は、満面の笑顔でフェルさんを見上げていた。
何故私の家だったのか、そんなのは判りゃしないが、彼を引き受けるのは、何も私でなくてもいい。
しかし私が心配なのは、そこ以外だ。なんてったって、彼は特殊な状況下にある。何処から来たのか判らない。言動は知らない人から見たら、意味不明。そのイケメンとんでもない事言い出しますから。
だから私は動けない。彼が彼女達と行くと言ったら、私は用済み。選ぶのは自由だ。ただ心配なのだ。見ているだけでハラハラするのだ。なんか言い出すんじゃないかって。声を掛ける勇気もない癖に、随分身勝手な心配もあったもんだ。私これ帰った方がいいのかな。いやでも心配だし。
雑誌コーナーの前でオロオロする。不意に高い笑い声が飛び込んで来た。客が入って来て扉が開き、外の声が聞こえたようだった。
「いいじゃん、私達とあそ――」
雑踏に紛れながら辛うじて聞こえたのはそこまでで、扉が閉まるとまた聞こえなくなった。
一つの決意が固まる。
よし出て行くのはやめよう。それがいい。
あ、でも彼の持ち物は、私の家にある。彼が何処へ行こうと、あれは彼には必要な物なんじゃないかな。それとも、それはあまり重要ではないのだろうか。私が重要だと思いたいだけかもしれない。え、なんで。なんでそんな事思いたい。あっれおかしい。
気付けば唸っていた。むむむ。まあいいやそこは今考えるとこじゃない気がする。今は荷物だ荷物。必要なら困ったもんだ。彼が道を覚えているとは思えない。何せ道中はキョロキョロキョロキョロ、それはもう落ち着き無く色んな物に目を奪われていた。
……取って来てやるか。
仕方ない。ため息を吐きながらコンビニを出た。
私はもう完全に名乗り出る気を無くしている。だってあんな反応された後だ。卑屈にならない訳が無かった。私じゃなくてもいい。寧ろ私じゃない方がいいんじゃないか。若さとはそれだけで貴重である。
「ね、行こうよー」
再びため息が出た。私は何を保護者ヅラしていたんだか。彼は子供ではない。自分で考え、自分で行動するだろう。
大体、此処で私がどう登場しようと場違いになること請け合い。絶対微妙な空間が出来上がる。そんな空気を読まない真似をしたら女の子のプライドとか自尊心とか矜持とかを傷付けて尚且つ何こいつ空気読めよ的な視線を受けかねないからやっぱり退場しま「ミホ殿?」貴様空気を読め。
余計な事は考えずさっさと帰れば良かった。
「ミホ殿!」
「はい、はいはい」
えーもう最悪なんですけど最悪のタイミングなんですけど。なんで気付いちゃうかな。最後の悪足掻きで無反応でいたのを、これ以上ないってくらい無駄にして、フェルさんが私の前に立った。返事をせざるを得ない。最悪だ。目を合わせられない。彼の向こうから、どの? とか疑問の声が。最悪だ。
「良かった……先程は、いきなりでどうされたかと、驚いたが」
「うん、はい、すみません」
「いや私が悪かったんだ」
「いやどう考えても私が悪かったです」
謝られるような事はないのだから、と言うか寧ろ怒られていいくらいだ。相変わらずフェルさんの胸板辺りを見つめていると、今度は後ろから声が飛んで来る。
「お兄さーん、知り合いー?」
「あ、ああ! そうなんだ!」
フェルさんが手を上げて応えているのが見える。
チラリと視線を投げれば、女の子二人はアイコンタクトを交わしているようだった。うわ、目が合った。
誰だお前。そう語っている。すいません!
「そっかあー」
つまらなそうな声と、つまらなそうな顔。それでも案外あっさりしたもので、ばいばーい、と手を振り彼女達は、踵を返し高いヒールを鳴らして歩いて行った。どのって何ー? 意味判んなくなーい? とか言いながら。陰口は陰で言うから陰口なんだぞ若者よ。
「ミホ殿」
と思ったけど、本人全然気にしてないみたいだからいいか。呼ばれ顔を戻すが、視線は相変わらず上げられない。
「はい」
「私は、その、あまりそういった事が得意ではなくて……」
そういった事。何の話だ。全く判らないので取り敢えず無言で返す。
「気分を害されたのなら、謝る。すまない」
いやだから貴方が謝る事は何にもないんだって。
「もっと上手く言えれば良いが、生憎私は剣ばかりを磨いてきたから」
こういう時ルアンなら、もっと気の利いた事が言えるんだろうが、そう漏らす彼を、漸く私は見上げた。
いやちょっと何言ってるか判らないです。
そういう顔で。
けれど彼は、目が合った瞬間、目に見えて判り易く、ほっとした。微かに上がった口角と、下がってしまった眉と。
「戻って来てくれて、助かった」
困ったように笑う、それが何とも情けない顔であるにも関わらず、私の心臓は跳ねた。ときめいたとか、そんなんじゃなく。
――ああもう、何やってんだ、私。
「ごめん、ごめんなさい」
だから、信用問題に関わる、なんて今更だろうに。視線が下がる。
今の状態は、私が思うよりずっと、彼には深刻なのだ。私は何処か他人事のように彼を引き受けた。ままごと感覚だったのだ。人間一人背負う事は、そんなに軽い事じゃないと言うのに。
一度拾った――と言うと語弊がありそうだが――責任は重大であり、途中で投げ出したり、放り出したり、あまつ他の誰かに担って貰うなんて、してはいけない。いけなかったのだ。
「もう、置いていったりしないから」
例え成り行き上だったとしても。
「……お心遣い、痛み入る」
ギクシャクしている。そう感じるのは、私に後ろめたい事があるからだろうか。心遣いなんてものじゃない。そんな出来た人間じゃない。だから彼の返答はとても間抜けている。それでも、真面目な、彼らしい返答。 一度失った信用って、どれくらい努力すれば取り戻せるんだろう。百の内、たった一度が命取りな気がする。そうなると、私は百以上の努力を重ねて初めて、彼の信用を取り戻せる事になる。ああ、変な事を考えている。
「悪かったのは私だから、お礼は要りません」
私は別に、信用を得る必要はないのだ。彼が居候である限り、私の信用を彼が得たいと思っても、その逆はなくても当然。私は家主の立場の上に、胡坐を掻いて座っていればいいのだ。何とも楽で横柄な立場。
眉間に力が入っている私を、困ったように見下ろしているこの人の、信用。
「帰りましょうか」
それが欲しいと思うのは、この人がいつも、誠意ある返事をするからだと思う。
「帰り、ましょう」
頷く彼は、私をどう思っているんだろうかと、初めて気にした。




