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断片その一(17)

 それから、カルチャーショックもままあるが、穏やかな日々が続いた。

 十日も経てば、フェルさんも生活に慣れつつあり、私も仕事に集中できるようになった。

 だからと言って。


「うう、先輩の鬼。悪魔」

「黙ってやれ」

「だってなんですか明日までってなんですかこの量ー!」


 現在、私の前には山のように積まれた化粧品サンプルと、書類の束が幅を効かせている。


 私の勤める会社は化粧品会社で、私は事務処理担当なのだが、納品用サンプルと、納品書の相違確認等も行う。だがこの量は異常だ。普通なら残業込みでも三日はかかる。

 そんな膨大な量の仕事を持ってきたのは、私に付いて色々教えてくれた先輩である。今朝、納期を間違えてたーてへっ、と可愛くも何ともない台詞を吐いた先輩を、本気で目潰ししてやろうかと思った。


「大体なんで私の担当部分だけ忘れちゃうんですか。嫌がらせですか。イジメですか」

「俺だって悪いと思ってるって。だからこうして残業してまで手伝ってやってんだろー?」

「何故上から……」


 もうすぐ三十路の溝呂木(みぞろぎ)先輩は、作業しながらも、ふんと胸を張った。


「先輩様だから」


 もう一度言う。この苦行は、先輩が納期を間違えたからである。


「いいからさっさと手え動かせ」

「へえい」

「おま、俺を先輩だと思ってねえだろ」

「いえいえそんな事ございませんよ。よしこっちはオッケー。あ、この貸しは明日のランチでいいですよ」

「お前のが鬼じゃねえか」


 給料日前なのに……と情けない声で呟く溝呂木先輩は、実はかなり優秀な人だ。

 溝呂木先輩は、普段こんなミスはしない。私がしたミスをフォローする事はあっても、フォローされた事は今まで一度もない。

 その理由は別の先輩から聞いた。私が本気で怒れないのも、この理由があるからだ。


 此処最近、私の様子がおかしかったから、定時で帰れるよう彼が仕事を負担していたんだと、そう聞いた。つまり単純に、彼の仕事は倍近くなるという事だ。

 いくら仕事の出来る先輩でも、追い付かなかったのだろうと容易に連想できる。


 そして悲劇は起きた。

 でも、これを聞いて怒れる筈ない。元を正せば、自分のまいた種だ。私の皺寄せ先である先輩は、被害者とも言える。


「後少しだし、先輩お先どうぞー」


 だからこそ、そう言った。

 だが先輩は、私の言葉にも顔をあげず、しれっと言い返す。


「何言ってんだ。後少しだから、二人でちゃちゃっと終わらせんだろ」


 何でも無い事のように言うから苦笑してしまう。

 チラリと時計を見上げると、もうすぐ22時になろうとしている。終わりが見えているとは言え、確かに私一人なら、終電にも間に合わないだろう。

 ラグビーをやっていたというガタイの良い、四角い顔の先輩は、一見ぶっきらぼうに見えがちだけれど、とても面倒見がいい。実は人懐っこくて、優しいと、彼を知る誰もが口にする。


「えー、でも深夜のオフィスに二人きりですよ? 襲われたら困るじゃないですか」

「やめろ鳥肌が立った」

「失礼極まりないです先輩」

「どっちが失礼かよく考えてみるんだ新人」

「先輩です」

「よし頭を出せ」

「嫌です」


 手を止めずに軽快な取りが出来るのは、これが日常茶飯事だからだ。仕事にいっぱいいっぱいな最初こそ、おざなりな相槌しか打てなかったが、今ではこの通り、テキトーかつ、くだらない応酬を交わせるようになった。

 先輩が話しながら作業する人だから自然に身に付いたんだけど、これ役に立ちそうにないスキルだよね。実際役に立った事ないし。

 それから一時間ほどして、最終チェックは明日の朝に回し、作業は終わりを迎えた。

 会社を後にし、二人並んで駅まで歩く。


「こんなに遅くなって、奥さんに悪いです」

「俺に悪いとは思わないのか」


 溝呂木先輩は新婚さんだ。奥さんは、万里(まり)さんと言って、スレンダー美人で、私と面識もある。結婚式の二次会で初めて会って、何故か私をいたく気に入ってくれたようで、何度かおうちにもお邪魔させてもらった。新婚の家にお呼ばれなど、何の罰。リア充爆発しろ。


「先輩にはどっちかって言うと、感謝ですかね。ありがとうございました」

「おーそうだ、感謝しろ感謝しろ」


 まあ間違えたのは先輩なんだけどね。元は私の仕事でもミスったのは先輩なんだけどね。

 互いの間に小さな笑いが起きる。それが治まると、不意に先輩は声を落とした。


「もう、大丈夫なのか」


 本当にこの人は、もう。

 苦笑を浮かべながら、頷く。面倒見の良い先輩を、思ったより心配させていたようだ。


「色々とご心配おかけしました」

「ん。あー、腹減ったなー」


 駅が見えてきた。フェルさんの顔が過る。

 一応、今朝の時点で連絡はしてある。フェルさんには家の電話には出ないよう言ってあるので、家の電話に留守電を残した。何かあれば私の携帯に掛けるようきも言ってあるから――電話の掛け方も練習済み――、大丈夫だと思うのだけど。

 流石に、いくら気安いとは言え、仕事中先輩の目の前で携帯チェックはできない。


「先輩はいいじゃないすかー。帰れば愛情ご飯が待ってるんだから」

「ふふん、羨ましいだろー?」


 リア充爆発しろ。

 夜も遅いと言っても、駅は人気があり、ホームにはアルコールの匂いが漂っていた。乗り込んだ車内もしかり。隣で吊り革に掴まる先輩は、何を思い出したのかニヤニヤしている。

 一切の妥協なく気持ち悪いな。これに何故あんな美人の嫁が……。


「万里さん元気です?」

「おう。そう言やあ、最近花流からメールが来ないって嘆いてたぞ」

「寂しがりやですか」

「私の可愛い美穂ちゃんが、一週間メールして来ない! 私に黙って彼氏でも出来たんじゃ! きーっ! 私に! 黙って! って、そりゃもう凄い剣幕で」

「何故そんなに……」


 私の何が彼女を惹き付けるのか、未だに謎だ。あと私は万里さんに、彼氏ができると報告をしないといけないらしい。知らなかった。


「あいつは俺が田舎から引っ張って来ちまったから。あんま知り合いも居ないし、花流が良ければ連絡してやってくれ」

「……はい」


 ここの所フェルさんにかかりきりで、万里さん含め友人関係が疎かになっていたのも事実。近々連絡しよう。

 私も実家を離れ、寂しい気持ちは良く判る。でも一番傍に居る人に、こんなに想われているのは、ちょっと羨ましい。先輩の中身がこうだから、万里さんは彼を選んだのかもしれない。

 どっちにしろ私は幸せの当て馬なんだけども。それは常に変わらないんだけれども。彼氏、か……。


「じゃあな、明日遅刻すんなよー」


 私が遠い目をしているうちに、先輩の降車駅に着いたようだった。愛する妻の待つ家へ颯爽と帰って行く先輩に、目礼して見送った。

 疲れたー。久々に心身ともにぐったりだ。眼下には赤い顔のサラリーマンが、ぐでーと身体を弛緩させて居眠りこいている。

 ふうと息を吐き出して、携帯を取り出す。

 液晶画面に書かれた、着信の文字。開いて、瞬間、心臓に冷水が差した。


 不在着信マークが付いた、自宅の電話番号。ぞっとして、慌てリコールする。

 が、耳に当てようとし、はっとする。そうだ、電車ん中だった。

 舌打ちしそうになるのを抑え、一度切ってから時刻を確認する。23時22分。

 着信は21時少し過ぎ。その後に21時40分頃。更に22時丁度。全部自宅から。

 ざわざわと、這うようにして不安が広がる。顔を上げれば、過ぎ去る景色が見えた。その進みはやたらと遅く感じた。

 先輩が降りた駅から、次の駅にもまだ着いていない。一度降りて掛けるか、否、それでは帰宅が遅れる。到着してから掛けた方が効率がいい。だが頭で理解しようと不安は消えない。ああもうっ、まだなの!?

 自宅最寄り駅まで、あと4駅もある。焦燥から指先で携帯をトントンと叩いた。

 ――何かあったら掛けてください。

 そう言ったのは私。何かあったら。何かって何。何かって何なのよ!

 きっとフェルさんは、滅多な事では掛けてこない。と言う事は、緊急である可能性が高い。緊急。つまり、緊急だと?

 血の気が引いていく。

 何か、壊したとか? いや壊しただけならいい。まさか怪我をしたとかじゃ。怪我も軽いならわざわざ電話しないかも。何しろ緊急。だとしたら大怪我なのでは。

 様々な懸念が次から次へとわいて、それはより最悪の事態へと変わっていった。

 最終的に家が火事になったところで、駅に着いた。

 扉が開き切る前に飛び出し、自宅へと電話を掛ける。耳に届くコール音。出ない。出るなと言ってあるのだから当り前ではある。

 だが私は焦っていて、自分の逞しい想像力の所為でパニックに落ち掛けていて、繰り返すコール音に怒鳴りたくなった。なんで出ないの。出て。お願いだから。

 留守電に切り替わったところで、叫ぶように彼の名前を呼ぶ。


「フェルさんっ、フェルさん!? そこに居ますか!? 私ですっ美穂です!」


 階段でスッ転びそうになりながら、問いかけ続ける。


「フェルさん! 居るなら受話器を取ってくださ、きゃっ、す、すみません!」


 改札を出たところでスーツの男性にぶつかった。慌て頭を下げる私に、相手は迷惑そうな目線を寄越して通り過ぎる。


「フェルさ、」


 再び携帯を耳に当てると、留守電が終わったのか、ツー、ツー、という音が返ってきた。ダイアルし直す。

 まだ人通りのある歓楽街とは逆に進み、自転車置き場へと向かう。何度呼んでもフェルさんは出なかった。

 ここまでくると私の想像は、全焼したアパートをバックに、警官に連行されるフェルさん、という最早どうにもならないような最強最悪な事態にまで、発展している。どうしようフェルさんが牢屋行きに!

 だから目に入ってなかった。だから気が付くのが遅れた。たまに見かける派手な若者達が、駐輪場入り口脇に屯しているのを。

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