断片その一(16)
時間がとても緩やかに感じられた。
勿論、昨日と今日とで流れる時は変わらぬし、いつも同じだけ同じように時間は流れている。それでも私には、時計に刻まれる針は酷くゆっくりと動いているように感じるのだ。
その然程進まぬ盤面を、何度も見ては、もどかしく思った。ところが、とても長く感じられる時間の割に、仕事はいつもより進んでいない。気が漫ろで、仕事に集中出来ていないのだ。
つまり他に気掛りがあって、其方にばかり意識を向けるから、時間は酷くゆっくりに感じるし、仕事も捗らない。良くないと判っていても、心配事は常に私の中心にあって、無視しようにも何処かしら部分が見えているから、結局無視など出来ずにいる。
「――よね、ミホ」
「へ?」
鈍い反応を示した私に、同僚の椎野くるみが、眉をひそませた。
「ご、ごめん。聞いてなかった。何?」
「ちょっとお、大丈夫? 本当、今日はどうしたのよあんた」
「え……どうも、しないけど」
社員食堂のテーブルを挟み向かい合う彼女は、眉を寄せたまま、手元のオムライスへと視線を落とした。スプーンを操りながら、口を尖らせる。
「変だよ、今日。なあんか妙にソワソワして落ち着かないし。あ、デート?」
掬い上げたオムライスを口に入れずに、くるみは私を見上げた。私は慌てて首を左右に振る。
「違う違う」
「……怪しい」
くるみは大きな瞳を細め私を見た後、ぱくりとオムライスを頬張った。丸顔で愛嬌のある彼女は、私と同期だが、年下に見える。まだ学生のような瑞々しさ。成人式もまだのような小娘の初々しさ。
だが新社会人とはそういうものなのかもしれない。私も先輩方には事ある毎に若い若いと言われるから、他人から見れば私と彼女にそれ程差はないのだろう。
ああでも、先輩に言わせれば、くるみはどうも浮ついているらしいから、その辺りが私にさえ彼女を若いと感じさせるのかもしれない。
「本当にそんなんじゃないって」
苦笑して言えば、オムライスを飲み込んだくるみは、スプーンの先を私に向けた。くるみさん、行儀が悪いですよ。
「じゃあ何よ。何でも無いは駄目だからね」
「スプーンで人を差さない」
「だってどう見たって普通じゃないよ今日のミホ」
「スプーン」
念を押すように目を見返せば、彼女はフンと鼻を鳴らしてスプーンを皿の脇に置いた。置くと同時に目線で訴え掛けられる。再び苦笑が漏れた。
「ねぇ、本当に大丈夫?」
「ああ、まあ……大丈夫だよ」
「それでも」
マスカラたっぷりのくるみの目は、じっと私を見つめている。
「ミホがそんなふうに落ち着かないの、あたし初めて見るよ。何でも無いって言うなら……それでも、いいんだけどさ。ミホはあたしと違ってしっかりしてるし、そのミホが大丈夫って言うなら、大丈夫なんだろうし……でも、」
やがて迷うように動き出した彼女の瞳を見ながら、申し訳ない気持ちになった。この若々しい友人は、私を心配してくれている。
「うん……、うん、あのね、大したことじゃないんだけど」
それでも全てを話すのは憚れた。否、それ以前にどう説明すればいいのかも判らない。
「ええと、その、拾って」
「拾った? 猫かなんか?」
「猫……と言うよりどっちかって言うと犬?」
「なにそれ? 犬拾ったの?」
や、人間なんだけど。
私がまごついている間に、くるみはひとり納得したようで、ふうんと小さく鼻を鳴らす。
「で、その犬がなに? 暴れるとか?」
犬じゃないんだけど――
「いや、大人しいよ」
「大変なの?」
「うーん、環境に慣れて無いから、独りで残して来たのが心配と言うか……大変ではないよ、大丈夫」
「……そっかー。そっかそっか」
そう言いながら、くるみは晴れない顔で窓に顔を向けた。私は手元のうどんに目を落とす。
食べ掛けの冷やしたぬきうどんを見れば、家に置いて来た彼の事が頭に浮かぶ。
昨日の夜、家電の使い方やら何やら教え込んで来たけれど、大丈夫だろうか。お昼はちゃんと食べているだろうか。と、そんな事を考えた時に呼ばれ、顔を上げた。くるみは頬杖をついて、矢張り窓の外を見ていた。
「ん?」
「大丈夫じゃ無くなった時は言ってよね。あたしじゃ頼り無いかもしれないけどさ」
何処か拗ねた口振りの彼女に、小さく目を見張った。心配が申し訳なくて、気遣いが有り難くて、思いやりが嬉しくて、話せぬ事が後ろめたい。
私は再び手元のうどんに目を落とし、うん、とそれだけを返した。
ごめんくるみ、ありがとう。
「しかし犬とはね。あんた男の影無さ過ぎでしょ」
「……ほっとけ」
「よし今度合コンしよう!」
「それくるみがしたいだけでしょうが」
「何故ばれたし」
笑う彼女に救われる。追及しないでくれる優しさに、悪いと思いながらも甘えた。合コンは行かないけど。それどころじゃない。
お昼休憩が終われば、仕事が待っていた。くるみに言われた事もあり、午前中以上に意識して仕事に集中する。
それでも三時を過ぎた頃、上司に具合でも悪いのかと訊かれたから、矢張り普段通りには振る舞えていないらしい。更に、定時は六時半であるのに、今日は五時に上がれと有り難い許可を賜って、くるみ他同僚達に迷惑を掛けながらも、帰路に着かせて貰った。明日は少し早めに出社しよう。
電車さえも遅く感じ、自分が如何に彼を気にしているかがよく判る。こりゃ相当だ。
駅に着いた途端、くるみから後で電話するとメールが入った。え、この子まさか本気で合コンする気なのか。私フェルさんの事で手一杯だぞ。それに電話はちょっと困る。
こっちから電話すると返信を打ち、改札を出る。帰宅客でそれなりに混雑した駅を後にし、ガード下に併設された自転車置き場へ向かう。と、入り口付近に屯している若者の姿があった。
派手な容姿に、ちょっとだけテンションが下がる。でも、そこを通らないと自転車が取れない。仕方なく目を合わせぬよう通り過ぎる。
視線を感じるし、何かコソコソ話しているようだったのは判ったが、敢えてまる無視して、自転車を引きながら再び彼らの前を過ぎ去った。
まだ時間も早いからか、人通りが多くて良かった。自転車置き場は歓楽街の反対側にあるから、遅くなれば遅くなる程閑散とするのだ。そんな時に怖いお兄さん達と遭遇するのは避けたい。絡まれてもお金ないし。何事もなく良かった良かった。
ほっとしながら自転車に跨り、まずはスーパーを目指す。献立は決めていたので速やかに済ますと、再び自転車を飛ばす。息を弾ませ、階段を駆け上る。鍵を探す手間が焦れったい。
「たっ、ただいまっ」
「おかえり」
イケメンの出迎えである。微笑が眩しい。
何事も無さそうな様子に安堵し、ハアハア言いながら我が家に上がる。いや別にフェルさんの微笑にハアハアした訳ではない。単に運動不足という。
「どうでした? 困った事とかありませんでした?」
今回もスムーズに奪われた荷物は、フェルさんの手によってテーブルに置かれる。
「いいや」
「そうですか。あ、お昼どうしました? ちゃんと食べました?」
くすりと笑われて、首が傾いた。
「質問責めだな」
「あ……」
八の字の眉を見返して、苦笑する。どうやら私は相当に心配していたらしい。帰って来るなり矢継ぎ早の質問に、ありありと表れていた。
初日だとは言え、こんなんで私大丈夫だろうか。仕事に支障きたしまくりでは……。
頭を掻いて、気にし過ぎですかね、と呟けば、彼は小さく頭を横に振った。
「他人が家に居るんだ、気になって当然だろう。信用できないかもしれないが、私は誓ってミホの迷惑になる事はしない」
驚いて言葉が出なかった。
だって私は、そんな心配はしていなかった。独りで困っていないかと、不安に襲われているんじゃないかと、そんな懸念ばかりが頭内で渦巻いていた。
違いに絶句する私を見下ろして、彼は苦い笑みを漏らす。
「世話になっている身で言えた事ではないが」
「ええと、私、迷惑なんて言ってませんよ?」
そうか、そういう考え方もあるんだな、と今更ながらに気付いたとは言えず、否定だけをさせてもらう。迷惑と思ってないのは本当だ。
フェルさんはそんな私に、細やかな、しかし柔らかな笑顔で応えた。
「ああ、ミホなら、そうだろうな」
「……あれ、なんか馬鹿にされてます?」
「半分は」
「正直!」
「それはミホだろう」
くつくつと咽喉を鳴らし笑う彼は、口惜しい事に様になっていた。
彼が初めてのお留守番をしたその日。
フェルアラッツ・ゴーフェという人は、意地の悪い笑みを浮かべる事も出来るんだと、知りました。