雨の中の決意
①放課後
② 夢
③ 深夜の雨の中で
①放課後
放課後の図書室は斜陽の赤い光が差し込み、開け放たれた窓からは風が吹き込み、カーテンが静かに揺れている。
少年は図書室の片隅の席で一人本を読んでいた。図書室には彼のほかに誰もいない。
彼は毎日授業が終わると図書室にやってきて閉館時間までそこで過ごすのを日課としていた。
本と読書が好きだったということもあるが、それ以上の目的があった。それは、閉館時間になると鍵を閉めるためにここにやってくる若い国語の女性教員だった。
少年はこの女教員を愛しており、彼女とほんのわずかでもいいから言葉をかわしたいがために、わざわざ放課後まで図書室に残っているのだった。
少年は眼が疲れてきたので本から顔を上げ、上を向いて眼を閉じた。しばらくそうした後、本の貸し出しを行うカウンターの上にかかっている時計を見た。針は4時半を指している。閉館時間まで残り30分だった。
「一体いつから僕は彼女をここで待つようになったのだろう。」
少年はふとそう思った。
「なぜ待っているのだろう。どんなに待ったところで、彼女を手に入れることは決してできないというのに。」
少年は席を離れると窓際に立った。
窓は開け放たれていて、そよ風がカーテンを静かに揺らしている。
少年は窓に寄りかかり、夕方の空を見上げた。
空は西の果てに沈む太陽の斜光を受けて赤く染まり、その中を白いひとつの大きな雲がゆったりと漂っている。
校舎の隣にある校庭のほうからは、部活動に青春を捧げる少年少女たちの掛け声が聞こえる。
こうして外の空気を吸い、若い喧騒に耳を傾けている間も、女教師の幻影は彼の心を捉えて離さない。
少年は胸が締め付けられる感じがして、思わずため息をついた。
「苦しんでいるようじゃな」
突然声をかけられ、少年は思わず飛び上がった。
いつの間にか隣に老婆が立っていた。
少年は怪訝な表情で老婆を見つめた。
見かけない顔である。教師ではなさそうだった。清掃員だろうか、と少年は思った。
「何か悩みごとでもあるのかね」
老婆は少年の眼を覗き込むようにしてじっと見つめ、にんまりと笑った。
少年は何か不快なものを感じて、さっと老婆から目を逸らした。
そして老婆のほうを見ないまま尋ねた。
「誰なのですか、あなたは。」
「わしが誰かということなどどうでもいいのだ。問題は、いかにしておまえがあの女の魂を自分のものにできるか、ということじゃ。違うかね?」
老婆は気味の悪い音を喉の奥で鳴らしながら笑った。
少年は思わず老婆の方を見た。
「わしは知っているぞ。お前が毎日ここであの女が来るのを待っているということをな。」
少年の心に再び彼女の幻影が現れ、彼は苦しみを感じた。
「知っているからといって、あなたに何ができるというのです?」
老婆は少し間をおいてから言った。
「あの女の魂をお前のものにする手助けをしてやろう。ただし、お前からもわしの欲しいものをもらうことになるがね。」
「何が欲しいのです」
「忘却の力じゃよ」
「忘却の力?」
「人の魂は輪廻転生を繰り返すだろう?だが人は新しい生を授かったとき、前の生の記憶と罪を覚えておらん。神の慈悲によって忘却の力を与えられたがためにな。」
「なぜその忘却の力が欲しいのです?」
「捧げるためじゃ、あの方々にな。」
少年は老婆の話を聞きながら、これはきっと学校にどこからか侵入した、近所に住む気違いばあさんだろう、と思った。これ以上関わりたくはなかった。
「ちょっと話が僕にはついていけません。いずれにせよ、そんなことをしてまで彼女を欲しいとは思いませんよ。それでは、僕はもう帰ります。」
「そうか。だが、もし気が変わったら、いつでもわしのところに来るがよい。わしはM通りにあるDいうところにいるからな。」
少年はただうなずくと、荷物をまとめて足早に図書室を出た。
②夢
その日の夜少年は夢を見た。
夢の中で彼はどこか遠い世界にいるようだった。
そこは古い石造りの建物が並び、その間を、苔の生えた石畳の通りが縫うように走っている、
まるで2000年前のペルシアの古代都市を思わせるところだった。
彼は茶色い古い布の買い物袋を両手で抱えて、大通りを歩いていた。袋にはりんごがいっぱい詰まっていた。
大通りには大勢の人々が行き交っているほか、牛や豚、ヤギなどの家畜も歩いている。そのせいか、悪臭がひどかった。
通りの両端には露天や屋台が並び、食べ物や雑貨を売っている。店主が通りを行き交う人々に自分の店の品物を売り込もうと声を張り上げている。
この通りは北の方に行くと、市民広場、そして神々を捧げる神殿がある都の中央に向かい、南のほうに行くと、市民が住む居住区へと向かう。
彼の住む家もこの南の居住区にあり、かれはそこで両親とともに住んでいるのだった。
今日は神々に年の平和を約束してもらうために生贄を捧げる「祭り」が行われる大切な日だった。生贄に捧げられるのは都に住む女である。毎年神々が神殿に仕える神官に示す神託によって、神々に選ばれた証明となる啓示が身体に現れた女の名前が告げられる。
彼は家に戻ると、祭りに参加する支度をするように、といわれた。
そして、彼は両親とともに、祭りが行われる神殿の前の広場へと向かった。
神殿に近づくと、なにやら騒がしく、不穏な空気が漂っている。
人々の話に耳を傾けていると、どうやら生贄の女が逃亡したらしい、ということがわかった。早く捕らえなければ、神々が不快感を表すために、都に災いを振り掛けるかもしれなかった。神官や兵士が総出で生贄の女を捜しにでていた。
都の最高権力者ともいえる「代理人」の使いが神殿からでてきて、広場に集まっている人々に告げた。
生贄の女をかくまったり、都の外に逃れさせるのを手伝って、神々の快楽の堪能を妨げるものは厳重な処罰が下されるだろう、と。
そして人々は女が見つかるまで各自に家にとどまってできる限り外にでないように、と告げられ、家に引き返すことになった。
彼は家に戻る人の群れの中を、両親の後に従って歩いていた。
ふと彼は建物と建物の間に目立たない小道があることに気がついた。その道は下りながら曲がり、建物の背後に向かっていた。
少年はそこに何かを予感し、大通りの人の群れから抜け出すと、そっと小道に入り込んだ。
その道は貧民街や監獄、下水道などがある、都の下層地区に続いているようだった。この道は神殿の前の広場や大通りの喧騒からは想像もつかないほど静かで、物音といえば、風が彼の服をはためかす音くらいだった。
ふと彼は道が2方向に分かれている箇所に行き当たった。一方は下層地区のほうへ、もう一方は神殿のある中央地区に向かっているようだった。
彼は下層地区のほうへと向かった。
やがて、下水道の上を渡る橋にたどり着いた。その先は貧困街に続いている。
橋のそばには階段があり、下水が流れる堀とトンネルに通じていた。
少年は階段を下りると、下水が流れる堀の淵にたった。下水は橋の下を通って、建物の地下を流れるトンネルへと流れていく。少年はトンネルのほうをみた。そのトンネルには西からの斜陽が注ぎ込み、内部が赤く照らされている。
少年はそこに一人の女がうずくまり、少年をじっとみていることに気がついた。
「僕は彼女を知っている」
女は少年がこの世界において唯一知っており、また、共感を覚えることができる人間だった。女のほうも少年のことを知っていた。
もはや、彼らはこの世界で孤独な存在ではなかった。
少年は女のほうに駆け寄り、その手を握った。
「さあ、一緒に逃げよう。2人で、この世界から遠いところへ。追っ手が決してたどり着けないどこか遠いところへ。」
女はそっと少年の背中に手を回すと、彼を優しく抱きしめた。
少年は目を覚ました。彼は自分の部屋の見慣れた天井を眺めていた。
彼の眼からは涙が流れていた。
③深夜の雨のなかで
少年は家を飛び出した。
外は激しい雷雨だった。
少年は家の扉の鍵も閉めず、かさも持たず、深夜の町を走った。
郊外の家々の間を通る通りの街灯の白い光の下を次々と通り抜け、大通りにたどり着くと、歩道橋を渡った。
雨に濡れた歩道には車のビームや信号の緑や赤の光が反射して光っている。
歩道橋をわたると、コンビニの前で少年は立ち止まった。
コンビニに客はおらず、暇そうにしている店員が、店の前でびしょぬれで立ち尽くしている少年のほうを怪訝な顔で見つめた。
「あの場所へ向かう道がこのあたりにあるはずなのだが」
少年はコンビニの少し先に道をみつけた。
そして、コンビニの明るい光から再び闇の中へと駆け出した。
少年の激しく降り注ぐ雨の中、古びた木製の家の前に立っていた。
家の右端に庇がついている階段があり、それを上った先に家の入り口の扉があった。
少年は扉をたたいた。
しばらくすると扉が開き、あの老婆が姿を見せた。
老婆は手を招いて少年を中に入れた。
室内は薄暗かった。
明かりは天井から垂れ下がっている豆電球のような小さなランプだけだった。
狭い室内には窓がひとつだけあり、そこから外の豪雨をみることができた。
雨は屋根や窓をたたきつけるようにして降り注ぎ、くぐもった音が室内に断絶なく響いていた。
老婆は少年に窓のそばのテーブルを指差した。そこにはテーブルを挟んで一対のいすが置かれていた。少年はびしょ濡れのままそこに座った。
「いつもはこんな夜更けにはもう眠っているのだが、今日はおまえが必ず来るとわかっていたから、こうして起きて待っていたのだよ。」
「僕は今、幻影のために人の道を外れようとしている。しかし、この幻影なき生は果たして僕にとって何の意味があるというのか。。
たとえ、いかなる闇に堕ちようとも、僕は彼女の幻影の中にありたいのだ。。」
こうして、少年は老婆と契約を結び、滅びの宿命へと足を踏み入れることになったのだ。