うちの子
「お前、臭いなー。ママ、早く行こうぜ。こんなやついなくていいよ、あっちいけ、シッシッ!」
小春日和の空の下、街中の公園の片隅にホームレスが来た。ボロボロのジーンズに、くすんだ灰色のシャツ。近づくだけで据えた匂いを感じる。明らかに久しく切っていない長髪、そしてひどい髭、できれば近づきたくない。片岡晴美は、嫌悪感を顔で表した。
いや、晴美だけではなく、周りにいたママ友達も不愉快極まりなかったと思う。
しかしながら、近づかずにはいられなかった。このホームレスは近所でも話題のホームレス。引いているリヤカーにはこんな風に大きく書いた看板が掲げられていた。
「子どもの声、通訳します」
さっきの声も、ホームレスが言った言葉だった。晴美のママ友の一人、沙紀の子どもの声を表したのだろう。沙紀の子はまだ1歳半、「ばぁば」「ブゥブー」などの言葉がかろうじて出せるか出せないかくらいである。もちろん、流暢な日本語を話せるわけがない。
その子の声を通訳したというのである。
「ねぇ、うちの子、そんな風に話すのかしら?」
「ママ、いいから。臭くて鼻が曲がりそうだよ。家帰って、早くアンパンマンのDVD見ようぜ」
沙紀の問いにも、子どもの声を通訳した言葉で返していた。
「大河は、もうちょっと口のきき方がしっかりしていると思うんだけど」
「何言ってるんだよママ、あんたの口のきき方が移ってんじゃねーか。俺のせいにすんなよ」
「ちょ、ちょっと、そんな風に私がいつも話しているっていうの?」
「そうだよ。自分で気づいてないのかもしんないけど、パパが仕事に行った後とかひどいじゃん。『はぁあ、やっと寝てくれたよ。毎日毎日ビービー泣きやがって、離乳食の食べ方は汚いし、すぐうんこはもらすし、臭いし。あー、カラオケ行きてー』とか言ってんじゃん。ま、気持ちはわかるから、別にい…」
「ちょっと、やめてよ!そうやって、私のこと馬鹿にしてんじゃないわよ!」
「図星だからって逆ギレすんなよ、ママ。ちょっとかっこわりーよ」
「うるさいうるさいうるさい!もういいわ。胡散臭い、あんたなんてのたれ死んじまえ。行くわよ大河」
「だから、早く帰ろうって」
沙紀は、晴美たちの方を振り返って言った。
「私、気分悪いから先に帰るね。みんなも信じない方がいいわよ」
頭から湯気を出しながら、沙紀は子どもを抱っこして帰って行った。気持ちはわかるけど、独り言でも子どもに聞かせちゃだめだなぁ、と晴美は心の中で思った。
ホームレスは、そのままそこに立ち尽くしていた。別に何をするわけでもなく、何かを望むわけでもなく、子どもの声を通訳し続けている。
彼がこの公園に来たのは3日ほど前のことだっただろうか、ふらりとやってきて、その子どもに合わせた声を出す。ただ、通訳するだけなら胡散臭くて誰も寄ってこなかっただろうが、夫婦のプライベートな話も出てくるから、信憑性が増していた。
「ねぇ、お母さん。あんまり、夜遅くに喘がない方がいいよ。うちのアパート壁薄いから、隣の人に聞かれちゃうよ」
「ママ、浮気はやめた方がいい。トドックで来る男の人なんて未来ないしさ。僕の教育上にもよくないし、パパにバレたら刺されるよ」
「株式投資は危ないよ。素人が手を出すもんじゃない」
母親と子どもの様子からなんとなく話しているのだと思っていたのだが、浮気や株の話はもちろん本人たちしか知らないことだろう。周りでも、デタラメだと思って聞いていたら、当の本人は青ざめた顔して子どもの手を引いて帰っていく。そんな光景をこの3日間、晴美は遠巻きに見ていた。
そして、今日、また来たホームレスにママ友達と近づいてみたのだった。
「やっぱり気持ち悪い、やめておけば良かった…」
と晴美は心の中で毒づく。昨日の貴志との口論をネタにされては嫌だなぁと、心が陰った。娘の学資保険をどれくらいにするかで、口論になったのだった。特に貴志はその手の金銭関係にはうとい。完全に晴美にまかせっきりなのにも関わらず、「金額が高い」だの「必要ないんじゃないか?」だの文句をネチネチ言ってきた挙句に、「新しい車がほしいなぁ」との言葉が出た瞬間、晴美も爆発してしまったのだった。
朝は完全に、無視して送り出してしまったのもあり、後ろめたい気持ちがある。そう考えると、娘と手をつないでいる力も強くなってしまった。
「ねぇ、やっぱり帰りましょう?」
と同じママ友の京子が口に出した。口元が若干ひきつっているので、晴美同様に後ろめたいことがあると想像に難くない。
「そ、そうね。沙紀ちゃんも帰っちゃったしね」
と、もう一人の美穂も続いた。
「じゃあ、今日はこの辺で帰りましょうか」
晴美はホッとした気持ちで言った。
ホームレスはじっとしている。しかし、その目が娘を見ていることに気が付いた。
晴美は、背筋がゾッとするのを感じながら、平静を装いながら口に出した。
「じゃ、じゃあ、また今度ね。またメールするね」
「うん、それじゃあね」
「また、ね」
「その子の声は聞こえない」
ホームレスはちょっと驚いたように話した。
「え?」
晴美は思わず聞き返した。
京子と美穂は、チラッとこっちを見たが、足早にさってしまう。声をかけるタイミングも失ってしまった。晴美は足を止めてしまったことを後悔した。
「その子の声は聞こえないよ」
「ちょ、な、何?何を言っているの?」
「その子の声は聞こえないんだ」
「何?どういうことなの?」
晴美はちょっと涙ぐみそうになった。あのまま、帰ってしまって何事もなかったようにしてしまえば良かったのだ。娘を思わず抱き寄せながら、ホームレスの目線から隠すようにした。
「俺は、いつも子どもの声が聞こえる。いい親ならいい声が聞こえるし、嫌な親ならそれに合わせた嫌な声が聞こえる」
「・・・」
「なぜかはわからない。いつからかもわからない。でも、ある時から、子どもの声が聞こえるようになったんだ。そして、子ども達はそれを親に伝えたがっていた」
ホームレスは、今までは違う声や口調で話している。本来の話し方がこうだったんだろう、と晴美は思った。娘のしがみつく力が、少し強くなったような気がした」
「もともと子どもっていうのは、前世の記憶を多く残したまま生まれてくるんだ。だから、ある程度のことはわかっている。母親や父親の言うこともわかるし、社会情勢だって知っている」
「そんなことどうしてわかるのよ?」
「子ども達が言っているんだ。子ども達同士で遊ばせると、ジッと見詰め合う時があるだろう?あれは、『お互い大変だなぁ…』と目で訴えているんだよ。そして、自分の感情もはっきりしているけど、肝心の身体が思うように動かないんだ」
晴美はしがみついている娘を見た。思い当たる節がないわけではない。もともと、おっぱいを吸うという行為だって、生まれた瞬間から備わっているなんて不思議すぎる。
「そして、子どもの身体が成長していく。しかし、感情や記憶はどんどん退行していくんだ。筋肉と同じ、使っていないと衰えていく。顕著なのは言葉さ」
「じゃあ、赤ちゃんはもともと私たちの言葉がわかっているってこと?」
「そうさ。でも、2週間も言葉を話さないで暮らしてみな。声を出すことなんてできなくなるんだ。そう、ちょうど入院患者が歩けなくなっちまうみたいにな」
晴美は、完全にホームレスの話に聞き入ってしまっていた。娘はじっと晴美の右足にしがみついていた。ちょうど何かを訴えかけるように。
「そうこうしているうちに、脳も使わなくなって何もわからなくなってくる。俺が聞けるのは、まだ脳がちゃんと動いている時の声、だから安心しな。奥さんの心の声は聞こえないんだ」
「でも、この子の声が聞こえないってどうして?」
「おかしいんだよ。その子いくつだ?」
「1歳と1か月くらい…」
「それなら、声はたいてい聞こえるんだ。間違いない。さっきの他の子ども達の声も聞こえていたんだ。でも、その子の声は聞こえない」
「そんな、どうして…?」
晴美は不安に思った。そういえば、隣の優斗君より言葉がちょっと遅れているかも…美月ちゃんはもう走るくらいだっていうのに、娘はつかまり立ちしかできない…言葉が聞こえないっていうのが関係あるのだろうか…嫌なイメージばかりが浮かんできた。娘のしがみつく力は強くなった。
「娘さんの顔を見せてくれるかな?」
「え、ええ…」
と言って、晴美は娘を抱っこした。ホームレスと娘の目が合う。ホームレスはじっと娘を見つめていた。
「なんてこった。この子、自閉症だ」
「え?今、なんて?」
「この子は完全な自閉症だよ」
晴美の頭はグワングワン揺れた。自閉症って、あの自閉症?うちの子が…まさか?そういえば、手づかみ食べもしないし…あんまり目を合わせようともしないし…いや、そんなの…晴美の目には涙が浮かんできた。
「けど、な、今なら何とかなるよ」
「えっ?」
「さっきも話したけど、俺は子どもの声が聞こえるって言ったよな」
「ええ」
晴美はもどかしく、強い口調で答える。
「自閉症ってのは、もともと脳みそに悪いところがあるって考えるけど、脳みその一部がちゃんと動いてない状態なんだよな」
「そんなことはいいのよ。うちの子は、なんとかなるでしょ?どうやったらいいの?」
「簡単さ。これから俺とこの子で会話をするんだ」
「どういうこと?」
晴美は今にも掴み掛らんばかりで問い詰める。
「いや、だから、今はまだ人見知りをして俺とも会話をしようとしていない状態さ。奥さんにもあるだろ?旦那とケンカして、口もききたくない状態の時が」
晴美は昨日の出来事と、今朝の振る舞いを思い出した。
「そんな時が生まれてからずっと続くって感じなのさ、自閉症ってのは。だから、これからまだ脳みそが若いうちにそれをなくしてやればいい。俺との会話を楽しませて、脳みその動いてないところを動かしてやればいいのさ」
「そんな…そんなことができるの?」
「できるさ、だって、今までだってやってきたもの。だから、俺はこういう力を神様にもらったと思うんだよな」
ホームレスは満足そうにうなづいた。さっきまで無表情だった顔に笑顔が浮かんでいる。晴美にとって、それは神の微笑だった。
「じゃあ、やってちょうだい!今すぐに!できるんでしょ?」
「できるけどさ、ねぇ?」
ホームレスの顔がニヤつく。
「俺も、ほら、こういう立場だからさ。わかるだろ?」
わざとらしく、ホームレスはOKサインをしてみせた。晴美は我慢ならない様子で続けた。
「お金ならいくらだってあげるわよ。いくらあげたら、この子を普通にしてくれるの!」
思わず大声になる。ホームレスは周りを見渡したが、晴美が気にする様子はなかった。
「そうだなぁ。せめてこれくらいは」
と言って、ホームレスは両手を広げた。指の間から、ニタニタした顔のホームレスが見える。晴美には、もうそんな顔は目に入っていなかった。
「わかったわ。10万円ね」
「100万さ」
「ひゃ、百万?」
「安いもんさ。この子の一生を左右することだもん。そして、この会話にはいろいろと物も買わなくちゃならないしな。必要なものも多いんだ」
晴美は時計を見た。短信は2時を回ったばかりだった。銀行に行けば、100万くらいすぐに用意できるだろう。
「わかったわ。銀行に行って、降ろしてくるから。明日払えばいいわよね。だから、今すぐやってちょうだい!」
「いや、明日は無理だ。明日には違う町に行かなくちゃならない」
ホームレスは、目を細めながら言った。口元は笑ったままだった。晴美は、一瞬躊躇したが、
「わかったわ。今すぐ行ってくるから」
「そうだな。それがいい。俺はここで4時まで待っているから、すぐに来るんだな」
「4時ね」
「ちょっとでも過ぎたら、アウトだぞ」
「わかったわ」
と晴美は言うが早いか走り出した。娘は寝ていたのか静かにしていたが、いきなり走り出したのが居心地悪いのか泣き出した。
晴美は泣き声を聞きながら走った。
どうしよう、この子が自閉症なんて…100万くらいのお金でなおるんなら安いものよね…貴志も納得してくれるはず。車なんて安いのでもいいもの。そうよ、なんとかなるわ。いざとなれば、実家の母さんに泣き付けばいいかもしれないし…
玄関のカギをがちゃがちゃさせて、家に入り、通帳と印鑑を引き出しから出して握りしめる。また、玄関を出るとカギをかけることももどかしく、銀行に走り出した。
早く、早く、なんとかしなきゃ…
抱きかかえていた娘は、いつの間にか泣き止んでいた。見ると、すぅすぅと寝ていた。晴美は、こんな状況でも眠れる我が子を見て、やはり普通の子とは違うと、より焦った。
銀行に入り、係員に詰め寄る。
「すいません。急用で、今すぐお金降ろしたいんですけど!」
晴美の剣幕に押されたのか、係員はすぐに対応してくれた。手続きを取り、100万円が帯にくるまれて、出てきた。それを掴み、また走り出そうとしたその時、
「びぇーーーーーー!」
さっきまですやすやと寝ていた娘が、火をつけたように泣き出した。今までに見たことがないような泣き方だった。
晴美は驚いて、さすがに走り出すことはできなかった。
「よしよし、いい子だから少しおとなしくしててね」
「びえーーーーーーーー!!!!!」
娘は一向に泣き止む様子はない。あやしてもあやしても、かまわず泣き続けた。係員も周囲の客もざわざわしている。
「お願いだから、泣き止んで」
「びぇーーーーーーー!!!!」
一人きりあやしてもやはり一向に泣き止む様子がない。しかたなく、泣いたまま晴美は銀行を出て、走り出したが、
「びえーーーーーー!!!」
と泣き続けている娘を抱きながら、走ることはなかなかできない。
「あなたのためなのよ。ちょっと我慢して頂戴!泣き止んでよ!」
とあやし続けるが、やはり一向に様子は変わらない。少し、人気のない通りに移動してあやし続けた。
ふと、時計を見ると、「3:57」を指していた。
「びえーーーーー!!!!」
もうかれこれ40分以上泣き続けていることになる。すさまじい勢いで、40分も泣き続けるとはどういうことなのだろうか?と晴美も途方に暮れて泣き出してしまった。
「どうして泣き続けるのよ。もう4時になるじゃない…あなたのためになんとかしようとがんばっているのに!」
と、その時、ピタッと娘は泣き止んだ。そして、ニタァと口元を緩めた。目は涙を流し続け、真っ赤に腫らした状態で、微笑んだのだった。
晴美は時計を見た。短信は4を指していた。約束の時間になってしまった、と思い晴美は急いで駆け出した。公園までは5分とない。
ぜぇぜぇいいながら、公園に向かった。すると、ふと一台のパトカーとすれ違った。ランプもついている。嫌な予感が晴美によぎった。
公園に入り、見ると、リヤカーが取り残されていた。ホームレスの姿はない。辺りを探してみるが、やはりいない。
どうしよう…警察に連れて行かれちゃったのだ…と晴美は途方に暮れた。晴美は、抱きかかえている娘の顔を見る。先ほどと同じように目を真っ赤に腫らしながら、キャッキャッと喜んでいる。こんなにご機嫌な娘の様子も久しぶりに見た気がする。
晴美は、砂場の近くにあったベンチに腰をかけた。全身汗だくで、恥ずかしかったが、周囲には砂場で遊んでいる小さな女の子が二人いるだけだった。ままごとをしているようである。
すると、娘の口元が動いた。
「ママ、騙されやすいんだから、気を付けて」
娘がしゃべった。ように、晴美は思った。
「なによ、生意気な口きいて~子どもはお母さんにそんな口を利かないのよ」
「だって、こんな風にママ言ってたもん。んじゃ、次は私がママの役やるから、祥子ちゃんは娘の役ね。晩御飯できたわよー。今夜はカレーよ」
砂場の二人の女の子は、楽しそうに泥団子を作り出した。
なんてことはない、ままごとをしていた二人の会話だった。しかし、晴美にとってそれが娘の声のように聞こえた。
なんだ、私にだってわかるじゃない。と晴美は思った。頬に涙が伝う。毎日の中で、じっと娘を見る回数も減っていた。日々の暮らしの中で、誰からも評価されず、それでもやらなければならない仕事、そんな中で自分がすり減っていたことを感じた。
あながちホームレスの言っていたことは間違いではないのかもしれない。晴美たちの会話を聞いて、あの時間、泣き続けたのだから。
娘は相変わらず微笑んでいる。晴美は、腕の中にある命をいとおしく思った。そして、自閉症でもいいじゃないか、この子はこの子だからそれでも立派に育てて見せよう!と強く思った。だって、こんなにかわいいのだから。
晴美は、自分も目を真っ赤に腫らしながら、娘を抱きしめ、頬ずりをした。そして、力強い足取りで家への道を歩き出した。少しだけ、見える風景が高くなったような気がした。