↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR

パリの舞踏会(ル・バル)に愚か者の居場所はございません 〜「真実の愛」とやらで泥船に乗った元婚約者は、本物の社交界で無様に沈む〜

掲載日:2026/09/30

シャンゼリゼ通りの夜景を見下ろすパラスホテル、ル・シャングリ・ラ。年に一度、世界中から選び抜かれた二十名ほどの名門の息女だけが許される社交界デビューの場、「ル・バル・デ・デビュタント」。


各国の王侯貴族や富豪の令嬢たちが、最高級オートクチュールのドレスと眩いばかりのハイジュエリーを纏って集う、まさに美と特権の頂点。


その豪奢な大広間の片隅で、私――日系財閥の血を引き、旧華族の家系に連なる鷹司エレナは、冷徹な視線である一角を見つめていた。


私の視線の先には、純白のイブニングドレスの裾を危なっかしく踏みそうになりながら、怯えた子鹿のように男の腕にしがみつく小柄な少女――森川エリカがいた。そして、彼女の肩をこれ見よがしに抱き、得意げな笑みを浮かべているのが、私の元婚約者、一条誠一郎だ。


一条家は伝統ある名門だが、近年は新規事業の相次ぐ失敗で莫大な負債を抱えていた。その危機を救うため、我が鷹司グループとの政略結婚が結ばれ、私が誠一郎のパートナーとしてこのル・バルに招かれるはずだった。


だが、パリへ発つわずか一週間前。誠一郎は一方的に婚約破棄を宣言した。


『エレナ、君のように冷たくて計算高く、敷かれたレールの上しか歩けない女を妻にする気はない。僕が真に愛しているのは、何の後ろ盾もなくとも健気に夢を追うエリカだ。このル・バルには彼女を連れて行く。本物の愛こそが、伝統を打ち破るんだ』


エリカは、一条家が慈善事業として支援していた美大生だった。飾り気のない素朴さと、庇護欲をそそる涙で誠一郎を篭絡したらしい。誠一郎は「彼女に本物の光を見せてやる」と酔いしれ、一条家の残り少ない資産を叩き売り、正規の同伴者(キャバリエ)としての権利を強引に利用して、エリカをパリへと連れてきたのだ。


誠一郎は、大広間の中央へと足を踏み出すと、わざわざ周囲に響く英語とフランス語で、芝居がかった声を張り上げた。


「皆様、お聞きください! 古臭い家柄や政略に縛られた婚約など、真の愛の前には無力です! 私はここにいる鷹司エレナとの婚約を正式に破棄し、この純真無垢なエリカと共に、新しい時代を生きることを宣言します!」


広間が一瞬で静まり返った。

エリカは羞恥と優越感が入り混じった顔で誠一郎の胸に顔を埋め、誠一郎は勝ち誇った顔で私を見下ろした。彼は、私が恥辱に耐えかねて泣き崩れるか、みっともなく取り乱すと思っていたのだろう。


だが、広間に満ちたのは、感動の溜め息ではなく――凍りつくような冷笑と困惑のざわめきだった。


「まあ……あの方、ここを何処だと思っていらっしゃるの?」

「品性を疑うわね。どこの田舎芝居かしら」


扇の陰から囁かれる痛烈なフランス語。誠一郎の顔から、微かに余裕が消えた。

彼が理解していない致命的な事実が、二つあった。


一つ。

ル・バルは、金を積めば入れるような成金のサロンではない。招待されるのは厳選された「令嬢自身」であり、同伴する男性(キャバリエ)はあくまで彼女たちの引き立て役に過ぎないということ。


そしてもう一つ。


「随分と大きな声でお話しね、誠一郎さん」


人混みを割り、私の隣へと進み出てきた長身の青年に、会場の視線が一気に集まった。

完璧なプロポーションに仕立てられたタキシード。彫刻のように整った美貌。そして胸元に光る、フランス随一の名門貴族の紋章。


今回のル・バルで、すべてのデビュタントが憧れた最高のパートナー――ロアン公爵家の嫡男、アンリだった。


「エ、エレナ……なぜお前が……パートナーを失ったお前は、参加資格を失ったはずだ!」


誠一郎が動揺して声を裏返した。

私が身に纏っているのは、パリの老舗メゾンが半年をかけて仕立て上げた、夜空を閉じ込めたような深い群青のシルクタフタのドレス。そして首元には、ハリー・ウィンストンの非売品である大粒のブルーダイヤモンド。


アンリが優雅に片眉を上げ、よく通る声で嘲笑を響かせた。


「無作法な侵入者だな。エレナは主催者のオフィシャルな指名を受けた、今夜のメイン・デビュタントの一人だ。愚かなキャバリエが一人逃げ出したところで、彼女の価値が揺らぐとでも思ったのかい? 僕が彼女のエスコートをどれほど待ち望んでいたか、君のような盲目の男には理解できないだろうが」


アンリの言葉に、周囲の貴族やセレブリティたちが一斉に冷たい視線を誠一郎に注ぎ直す。

さらに、エリカの顔色が急激に青ざめていった。


「あ、あの……誠一郎さん……私のドレス、なんだか皆の視線が……」


エリカが着ているのは、誠一郎が「パリのヴィンテージショップで見つけた最高の一着」と自慢していた、安っぽい化繊のレースドレスだった。ル・バルに集う者たちの目は肥えすぎている。オートクチュールの職人が何千時間もかけて縫い上げた芸術品の中に、既製服を模した安物が紛れ込めば、どれほど惨めな悪目立ちをするか。


それだけではない。

会場の扉が開き、厳しい顔をした支配人と数名の警備員、そして黒いスーツを着た弁護士風の男たちが足早に入ってきた。


男は誠一郎の前で立ち止まると、冷酷に書類を突きつけた。


「一条誠一郎様ですね。東京の鷹司グループ法務部、ならびに一条ホールディングス専務取締役より通達です。鷹司家からの融資特約破棄に伴い、貴家は本日午後三時をもって債務超過による事実上の破産手続きに入りました」


「は……? はさん……!?」


「また、一条家の管財人より、貴方が持ち出した私財および預託金の横領に対する告発がなされました。貴方がエスコート枠として不正に登録しようとしたご令嬢の参加費、宿泊費、渡航費の決済はすべて凍結されております」


支配人が冷ややかな目で告げた。


「当ホテルの利用規約および、ル・バルの厳格な参加基準に違反しております。他のお客様の迷惑となりますので、直ちに退館願います」


「ま、待て! 私は一条家の跡取りだぞ! エリカ、お前からも何か言ってくれ!」


誠一郎がすがるようにエリカの腕を掴んだが、エリカは信じられないような形相でその手を激しく振り払った。


「嘘……破産!? お金持ちじゃなかったの!? 私、パリの社交界でお金持ちのセレブに見初められるって聞いたから付いてきたのに! こんなの詐欺じゃない!!」


「エリカ……? 何を言っているんだ、僕たちの愛は……」


「愛でお腹が膨れるわけないでしょバカッ!! ドレスも安物で恥かかされて、借金まみれの男なんて願い下げよ!」


本性を剥き出しにして罵倒し合う二人の醜態に、会場の貴族たちからはいよいよ失笑と侮蔑の眼差しが浴びせられた。愛だの純真だのと嘯いていたメッキは、現実の数字と冷徹なルールの前で、一瞬にして剥がれ落ちたのだ。


警備員に両脇を抱えられ、無様に引きずり出されていく二人。

通り過ぎる間際、誠一郎が私に向かって絶望的な目で叫んだ。


「エレナ! 頼む、エレナ! 一条家を助けてくれ! 僕が悪かった、君が本物だ! やり直そう!!」


私は、アンリの手袋越しに差し出された温かい手に自分の手を重ね、冷え切った笑みを浮かべて見送った。


「お断りします。分不相応な夢を追うのが貴方の自由なら、現実のツケを払うのも貴方の義務でしょう? どうぞお二人で、お望み通りの『飾らない人生』をお楽しみください」


大広間の重厚な扉が音を立てて閉ざされ、醜悪なノイズは完全に遮断された。


オーケストラの指揮棒が静かに振り下ろされ、壮麗なワルツの旋律が空気を満たしていく。

アンリが優雅に礼を執り、私を見つめて微笑んだ。


「お待たせしました、マドモワゼル・タカツカサ。愚か者の茶番は終わりだ。今夜の本当の主役に、ダンスをお願いできますか?」


「喜んで、ムッシュ・ド・ロアン」


広間の視線は再び、私たちへと注がれる。それは先ほどの冷笑とは真逆の、眩いものへの純粋な賞賛と羨望の眼差しだった。

群青のドレスをふわりと広げ、私はシャンデリアの光り輝くダンスフロアの中央へと、堂々と足を踏み出した。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。