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神託の残響 - Echoes of the Oracle -

白岩街道の40人

掲載日:2026/09/22

 銀級冒険者と聞いて、もっと年上だと思っていた。


 少なくとも、俺と歳の変わらないような青年が、護衛についた十二人のうち、たった二人しかいない銀級の一人だとは思わなかった。


「アレン・クロイツ。銀級」


 出発前の人員確認で護衛頭がそう読み上げた時、俺は積み荷の陰から思わず顔を出した。


 少し離れたところで、黒髪の青年が片手を上げる。


「います」


 革と金属を組み合わせた軽い防具に剣、旅用の外套も灰色がかった黒で目立たない。身体つきは引き締まっているものの、大柄というほどでもなく、隣で荷紐を確かめている三十代の銅級冒険者の方が、よほど強そうに見えた。


「そんなにまじまじと見るな」


 御者台の下から声を掛けられ、慌てて顔を引っ込める。


 先輩御者のオットーが、二頭の馬を繋ぐ腹帯を確かめながら呆れた目を向けていた。


「別に見てないですよ」


「首ごと荷台から出しておいて何言ってんだ」


「銀級って、もっとこう……」


「髭でも生えてなきゃ納得できんのか?」


「そういう意味じゃないですけど」


 冒険者について詳しいわけではない。それでも商隊に混じって街道を行き来していれば、銅級まで行けば一人前、銀級ならかなり腕が立つという程度のことは嫌でも覚える。


 商会が護衛として頼むのは大半が銅級で、銀級まで混ざるのは長い道を行く時か、危険な土地を通る時くらいだった。それより上となれば、俺のような見習い御者が顔を合わせる機会そのものがほとんどない。


 今回の護衛にも銀級は二人しかいなかった。


 一人は護衛頭のベルント。三十代後半の男で、厚手の革鎧に長剣を提げ、出発前から荷車の順番や夜番について商人や御者と手際よく確認している。俺でも名前を聞いたことがあるくらい、この辺りの商隊護衛を長く請け負ってきた冒険者だった。


 もう一人が、あのアレンという青年らしい。


「銀級だからって、何でもできるわけじゃないぞ」


 腹帯を確かめ終えたオットーが立ち上がった。


「街道で怖いのは魔物だけじゃない。雨で道が消えることもあるし、車軸が折れることもある。馬が脚を痛めることもあれば、御者が腹を壊すことだってある」


「最後だけ急に小さくないですか?」


「腹を壊した御者の代わりに、一日中手綱を握ってから言え」


 返す言葉がなかった。


 今回が、俺にとって初めて一台をほとんど任された仕事だった。


 十八になってから一人で近場へ荷を運ぶことは増えたが、八台もの荷車を連ね、山間の白岩街道を越える商隊に加わるのは初めてだ。護衛を含めれば四十人、荷車を引く馬だけでも十四頭いる。


 俺が扱うのは後ろから二台目の小型車で、荷主は染物を扱う商人のマイヤーだった。荷台には南方から仕入れた染布と革製品が積まれ、そのうち何箱かは、俺の一年分の稼ぎをまとめても買えないらしい。


「傷つけるなよ」


 積み込みの時、マイヤーには念を押された。


「箱をですか?」


「中身に決まってるだろう。箱なら直せる」


 いかにも商売人らしい返事だった。


 二頭の馬は、どちらも普段から商会で俺が世話をしている。左の栗毛は大きな音がすると首を振るが、声を掛け続ければ落ち着く。右の鹿毛は逆に物音には強いものの、前を行く馬との間が開くと勝手に詰めたがる癖があった。


 オットーからすれば、俺はまだ一人前ではない。


 出発前にも荷紐を締め直され、予備の楔を積んだか二度確認された。いちいち言われなくても分かっている、と少し腹も立ったが、それでも一台を任されたこと自体は嬉しかった。


 この二頭と、この車を目的地まで持っていく。


 それくらいは自分でやれると証明したかった。


 出発地から目的の街までは六日。白岩街道を無事に越えれば、その先は比較的平坦な道が続く。


 何も起きなければ、初めての大きな仕事はそれで終わるはずだった。


     ◇


 三日目の昼までは、本当に何も起きなかった。


 前日まで続いていた雨も朝には上がり、雲の切れ間から時折日が差している。白岩街道は名の通り、白っぽい岩肌の間を縫うように伸びており、山を削って通した区間では片側に石灰岩の斜面が迫り、反対側は灌木の生えた急斜面へ落ちていた。


 路面のところどころには水が残り、柔らかくなった土へ車輪が沈む場所もあったが、通れないほどではない。


 朝から二度休憩を挟み、午前の終わり頃には俺も最初の緊張を忘れ始めていた。前を行くオットーの車輪跡をなぞるように二頭を歩かせ、傾斜のきつい場所では少し速度を落とす。鹿毛が前へ出たがるたび手綱を軽く戻し、栗毛には声を掛けるという、ごく当たり前の仕事が続いていた。


「エミル、右に寄りすぎだ」


 前からオットーの声が飛んでくる。


「分かってます!」


「分かってる奴は車輪を路肩に落とさん!」


 結局、午前の休憩に入る直前、俺は本当に右後輪を柔らかい地面へ落とした。


 深くはなかったが、荷を積んだ車体は簡単には上がらない。馬に無理をさせる前に止め、オットーと二人で後ろから押そうとしていると、近くを歩いていたアレンが寄ってきた。


「手伝います」


「悪いな。押すなら左から頼む」


 オットーが答えたが、アレンはすぐには車体へ手を掛けず、沈んだ車輪とその前の地面を見比べた。


「これ、押すより先に少し埋めた方がいいかもしれません。エミルさん、馬をもう少しだけ左へ向けられます?」


 いきなり名前を呼ばれ、一瞬返事が遅れた。


「できます」


 二頭の向きを僅かに変えると、アレンは車輪の前へ手を向けた。柔らかくなった土が少しずつ寄り、車輪が登れる程度の傾斜を作って固まっていく。


 岩をせり上げるような大魔法ではない。そこだけ見れば、随分と地味な使い方だった。


「これならいけると思います」


 御者台へ戻って二頭を進ませると、車輪は一度大きく軋んだだけで、あっさり路面へ上がった。


「ありがとうございます」


「どういたしまして」


 アレンはそれだけ言うと、仲間のところへ戻っていった。


 遠ざかる背中を眺めてから、俺はオットーを見る。


「銀級って、もっと派手なことするのかと思ってました」


「荷車一台起こすために街道吹っ飛ばす奴がいたら、そっちの方が困る」


 もっともだった。


 銀級というのも案外普通なんだな、と、その時は本気でそう思っていた。


 異変が起きたのは、それから一刻も経たない頃だった。


 前方から、停止を知らせる笛が短く二度鳴る。


 俺は前の荷車との距離を残して二頭を止めた。先頭の護衛が何かを見上げているのが見え、何事かと御者台から身を乗り出したところで、山の奥から低い音が響いてくる。


 雷とは違う。


 聞こえるというより、地面を伝って身体の中へ入り込んでくるような重い音だった。


「エミル、馬を見ろ!」


 オットーが叫んだ直後、前方の白い岩肌が崩れた。


 岩が割れる乾いた音に続いて大量の土砂が街道へ流れ込み、驚いた馬があちこちで嘶く。人の怒鳴り声と荷車の軋む音が重なり、俺の二頭も大きく首を振った。


「大丈夫だ、落ち着け!」


 声を掛けながら手綱を引いたが、それがまずかった。


 栗毛が後ろへ逃げようとする一方で、鹿毛は横へずれ、繋がれた二頭の向きが崩れる。荷車の右側が路肩へ寄り、その向こうの斜面が目に入った瞬間、次に何をすればいいのかが頭から飛んだ。


「引きっぱなしにするな! 右を緩めろ!」


 今度もオットーの声だった。


 言われた通りに右手を送り、左だけを短く戻す。二頭の頭が揃ったところで低く声を掛け続けると、荷車は斜めになったまま、それ以上路肩へ寄らずに止まった。


 そこで初めて、自分が息まで止めていたことに気づいた。


「……止まった」


「止めたんだ。次は最初からそうしろ」


 横まで来たオットーは俺ではなく、馬の口元と脚を確かめていた。


 褒められた気はしなかったし、自分でも褒めてもらえるようなことをしたとは思えない。余計な力を掛けて二頭を乱したのは俺だった。


 栗毛の首筋を撫でながら前を見ると、護衛たちはもう動き始めていた。


 崩れたのは街道の先だった。


 大きな岩が道を塞いだだけではなく、斜面側の路面そのものが一部崩れ落ち、残っている幅は人が通れる程度しかない。荷車はもちろん、馬を引いて越えるのも危なそうだった。


 ベルントが護衛二人を連れ、崩落箇所へ近づいていく。


「まだ落ちるかもしれん。全員、斜面側へ寄るな!」


 商隊全体へ声を飛ばしながら、路面の亀裂を一つずつ確認している。


 俺たちは馬を落ち着かせながら待った。


 崩れた岩をどかすだけなら、時間を掛ければ何とかなるかもしれない。そう思い始めた頃、再び山が低く鳴った。


「離れろ!」


 誰かの叫びにベルントたちも退いたが、斜面から跳ねた岩の一つが別の岩へ当たって進路を変え、人の頭ほどもある塊が街道を横切った。


 鈍い音とともに、ベルントが倒れた。


「隊長!」


 護衛たちが駆け寄る。


 俺の位置からは人影が重なり、何が起きたのかよく見えなかった。ただ、しばらくして二人に肩を貸されたベルントが戻ってきた時、右脚をまったく地面についていなかった。


     ◇


「折れてるな」


 商隊に同行していた薬師が、腫れ始めた脚へ添え木を当てながら言った。


「脛の方だと思う。少なくとも今日は立たせない方がいい」


「分かった」


 ベルントは額に汗を浮かべていたが、意識ははっきりしていた。


 二度目の崩落では、近くにいた護衛一人が額を切り、逃げる際に転んだ商人が肩を痛めた。馬も一頭、飛んできた小石で脚に浅い傷を負っている。


 それでも死人はいなかった。


 前方が塞がったとはいえ、まず怪我人を落ち着かせてから道を確認すればいい。商人たちの間にもまだ、予定が遅れることへの苛立ちの方が恐怖より強く残っていた。


 その空気が変わったのは、後方へ偵察に出ていた護衛が駆け戻ってきた時だった。


「角狼です」


 周囲にいた冒険者たちの表情が変わる。


 ベルントが身体を起こした。


「何頭だ」


「見えたのは十七。林の中にもいます。二十は超えてると思います」


 近くにいた商人が息を呑んだ。


 俺も角狼くらいは知っている。灰色から茶色の毛皮を持つ狼型の魔物で、額から短い角が伸びている。一頭なら銅級の冒険者が十分相手にできるし、旅慣れた護衛なら特別珍しがるような魔物でもない。


 ただし、それは一頭や二頭ならという話だった。


「普通、そんな数で動くのか?」


 マイヤーが低い声で聞く。


「滅多にない」


 ベルントは答えた。


「幾つかの群れが同じ獲物を追ってきたのか、雨で餌場を追われたのかもしれん。ただ、理由を考えるのは後だ。距離は?」


「半里もありません。道の両側からこっちを見ています」


 それまで抑えられていたざわめきが、一気に広がった。


 前方は崩落で塞がれ、後方には二十頭を超える角狼。八台の荷車は狭い街道へ縦列に並んだままで、最後尾から順番に下げたところで、全車を反転させる場所もない。


 しかも、昼はとうに過ぎている。


 迷っているうちに日が落ちれば、人間より狼の方が有利になる。


「護衛は後方へ六人。残りは列の中と前方に残れ」


 ベルントの声がざわめきを切った。


「狼が来ても追うな。人と馬から離せればいい。商人と御者は勝手に列を離れるな。荷車の間に人を散らすと拾われるぞ」


 立てなくても指示は速く、冒険者たちはすぐ配置を変え始める。


「アレン」


「はい」


 呼ばれた青年が近づいた。


「お前は列を回れ。後ろと崩落側の情報をまとめろ。護衛の配置を変える必要があるなら、お前が決めていい」


「分かりました」


「何でも俺に聞きに戻るな。急ぐ時は自分で決めろ。その代わり、大きく変える時だけ知らせろ」


 一瞬だけ二人の視線が合う。


「はい」


 アレンはそれ以上確認せず、まず後方へ走っていった。


 戻ってきたのはしばらくしてからで、今度は俺たち御者のところへ来た。


「荷車、ここで全部向きを変えられますか?」


 オットーが首を振る。


「無理だ。最後の二台なら切り返せるが、その先が狭すぎる。後ろから一台ずつ下げても、狼の方へ近づくことになる」


「前は?」


「車は通らん。人だけなら崩れたところを越えられるかもしれんが、怪我人を担いで渡るのは危ない。馬も無理だろう」


 アレンは一度崩落方向へ目を向け、それから別のことを聞いた。


「この辺り、街道以外に抜ける道はありませんか?」


「ない」


 オットーは即答したが、数歩歩いたところで足を止めた。


「……いや、待て」


「何かあります?」


「昔の道ならある」


 眉間に皺を寄せながら、岩山の斜面を見上げる。


「この先に昔使ってた採石場がある。閉じて十年くらいになるが、荷車を出すための作業道が一本あったはずだ」


「どこへ出る?」


「崩れたところの向こうだ。ただ、今も使えるかは知らん。昔でも道幅は狭かった」


「入口は?」


 オットーが後方を指した。


「少し戻る。あの曲がりの先だ」


 角狼がいる方向だった。


 腹の底が冷える。


 アレンも同じことを考えたはずだが、表情はほとんど変わらなかった。


「確認します。オットーさん、入口まで案内してもらえますか」


「その先も俺が見た方が早い」


「馬車は?」


「エミルに任せる」


 突然名前を出され、反射的に背筋を伸ばした。


「できます」


 少し声が上ずった。


 オットーは俺の顔を見たものの、何も言わず肩を一度だけ叩いた。


「行きましょう」


 アレンは近くにいた護衛二人へ声を掛け、四人で後方へ向かった。


     ◇


 角狼は、すぐには襲ってこなかった。


 街道の後ろには灰色の影が幾つも見え、岩の陰から姿を見せては消え、ときには灌木の間を横切って反対側へ移動する。護衛がまとまって槍を向ければ距離を取り、誰かが荷車の外へ出ると、弱い場所を確かめるように近づいてきた。


 一斉に飛びかかってこないことが、かえって怖かった。


 馬たちはもっと敏感だった。臭いを感じているのか、さっきから何度も鼻を鳴らし、二頭とも落ち着かず耳を動かしている。


「大丈夫だ。まだ来ない」


 栗毛の首を撫でながら声を掛ける。


 何が大丈夫なのか、自分でも分からない。それでも俺まで落ち着きを失えば、この二頭を余計に不安にさせるだけだった。


 後方で護衛の一人が槍を上げる。


「来るぞ!」


 灰色の影が二つ、岩陰から飛び出した。


 一頭は街道の中央から護衛の正面へ向かい、もう一頭は横へ大きく回る。護衛たちが最初の一頭へ構えたところで、回り込んだ方が荷車の脇へ駆け込み、馬へ向きを変えた。


「正面だけ見るな!」


 座ったままのベルントが叫ぶ。


 横から槍が突き出され、角狼は直前で身を翻す。中央へ来ていた一頭も、剣が届く前に素早く距離を取った。


 仕掛けてきたというより、反応を見られたような気がした。


 次は反対側だった。


 灌木から飛び出した一頭に護衛二人が向いた瞬間、その後ろから別の角狼が走り込み、列の端にいた馬へ迫る。間へ入った銅級冒険者が盾をぶつけ、角狼の角は馬ではなく盾の縁を掠め、その勢いで男の前腕を浅く裂いた。


「下がれ!」


 別の護衛が剣を振る。


 逃げ遅れた角狼の肩へ刃が入り、甲高い声を上げた獣が群れへ逃げていった。


 接触は、ほんの数十息だった。


 倒した角狼は一頭もいないのに、こちらには負傷者が一人増えている。


「傷は?」


 ベルントが薬師へ尋ねる。


「深くありません。指も動きます」


「なら後衛から外せ」


「まだ槍は持てます」


「今はな。握れなくなってから交代しても遅い」


 男は何か言いかけたが、結局従った。


 角狼はまた距離を取っている。


 逃げたわけではない。こちらが疲れ、人数が散り、馬が暴れるのを待っている。


 俺は後方の道を見る。


 アレンたちはまだ戻らない。


 いつの間にか、狼そのものより西へ傾いていく太陽の方が怖くなっていた。


 ようやく四人の姿が曲がり角から現れた時、商人たちの間から安堵の息が漏れた。


 オットーの膝から下は白い泥に汚れ、アレンの外套にも灌木の枝が引っ掛かっている。


「道は残ってる」


 最初に口を開いたのはオットーだった。


「ただし、全車は無理だ」


 喜びかけた空気が止まる。


 アレンは地面へしゃがみ込み、拾った石で街道と作業道の位置を描いた。


「入口から斜面を上がって、この辺りで崩落箇所を回り込みます。向こう側へ出るところまでは繋がってました」


「どの車なら通せる?」


 ベルントが聞く。


 答えたのはオットーだった。


「大型車は三台とも置いていく。小型も全部は無理だ。途中で路肩が落ちてる場所が二か所あるから、荷を減らした五台までなら俺は通せると思う」


「六台は?」


「できなくはないかもしれん」


 オットーは西の空を見る。


「だが六台目までやる頃には暗くなる。俺ならやらん」


「分かった」


 ベルントは即座に頷き、アレンも口を挟まなかった。


 俺は少し意外だった。


 銀級なら、ここで何かもっといい答えを出すのかと思っていた。


「じゃあ五台にします」


 アレンがそう言った途端、商人たちから一斉に声が上がる。


「待ってくれ」


 最初に前へ出たのはマイヤーだった。


「三台置いていくなら、荷も全部載せ替えるのか?」


「全部は無理です」


「俺の車には南方布が積んである。あれを捨てろと言うのか」


「まだ、どの荷を置くかは決めてません」


「同じことだろう。五台に減らすなら――」


「俺には荷の価値が分かりません」


 アレンは言葉を被せたが、声を荒らげたわけではなかった。


「どれを失ったら誰がどれだけ困るのかも分からない。だから、俺が勝手に決めるつもりはありません」


 商人たちの声が少し静まる。


「ただ、五台までしか通せないことと、載せられる重さに限界があることは変えられません。薬と水、食料、それに怪我人を運ぶ場所は必要です。それ以外で何を残すかは、荷を知ってる皆さんで決めてください」


 マイヤーが黙った。


「時間はどれくらいある?」


 別の商人が聞く。


「余裕を見れば二刻半くらいです。でも、角狼はもう一度来ます」


 アレンは西の空を見上げた。


「暗くなるまで待ってくれるとは思わない方がいいです」


 今度は誰も反論しなかった。


 そこから商隊全体が一斉に動き始めた。


 オットーと他の御者たちが通す五台を選び、大型車から順に馬を外す。使わない車は街道脇へ寄せ、そのうち一台は後方へ斜めに残して、角狼が正面から走り込みにくいよう障害物にした。


 商人たちは荷を開き、自分たちで残すものを選ぶ。薬や水、食料と毛布を優先し、高価でも軽いものは他の車へ移す。重い金属材や大箱は置いていくしかない。


 当然、揉めた。


「こっちを降ろすなら、そっちの樽を先に降ろせ」


「これは着いた先で引き渡しが決まってる!」


「俺だって決まってる!」


 商人同士の声が荒くなる。


 アレンはその中へ入ったものの、どちらの荷を残すかまでは決めなかった。


「五台に入る分しか持っていけません。ここで言い争っても、使える荷車も載せられる重さも増えません」


 結局、それ以上は商人たち自身で決めるしかなかった。


 俺の車からも箱が次々に降ろされた。


 マイヤーは最後まで南方布の前に立っていた。


 今朝までは何度も俺に傷をつけるなと言っていた荷だ。仕入れるために借金までしたという話を、休憩の時に聞いたこともある。


 それを泥の上へ置いていく。


 俺には何も言えなかった。


 やがてマイヤーが自分で荷台へ上がり、縄を解く。


「三箱残す」


 積んであったのは九箱だった。


「残りは降ろせ」


 俺と二人で最初の箱を持ち上げる。


 いつもなら地面へ置く時にも気を遣う品だが、丁寧に並べる時間はない。泥の上へ降ろすと、木箱の角が濡れた土へ沈んだ。


 マイヤーは一度だけその箱を見たあと、自分で次の箱へ手を掛けた。


     ◇


 積み替えが半分ほど進んだ頃、角狼が今度こそまとまって距離を詰めてきた。


 後方から叫び声が上がる。


 振り返ると、街道の右側から三頭、左の灌木から二頭が同時に現れていた。正面の護衛へぶつかる気はないらしく、一頭が槍を引きつけている間に別の二頭が左右へ分かれ、荷車の間へ入り込もうとする。


「右を詰めろ! 馬に近づけるな!」


 後方へ戻っていたアレンの声が飛ぶ。


 護衛たちが横へ広がり、槍で角狼を押し返す。正面から来た一頭は剣を受けて倒れたが、別の一頭はその死体さえ避けるように向きを変え、荷車の下へ潜り込もうとした。


 馬が悲鳴を上げ、それにつられて俺の二頭まで一気に暴れ始めた。


「落ち着け!」


 御者台へ飛び乗って手綱を取る。


 栗毛が後ろへ下がり、鹿毛が前へ出ようとする。今度は最初の時のように二頭まとめて引かず、栗毛には逃げる方向を塞ぐ程度に力を掛け、鹿毛だけを少し内側へ向けた。


 二頭の頭が揃ったところで声を掛け続けると、荷車の揺れが少しずつ収まっていく。


「エミル!」


 離れたところからオットーが叫ぶ。


「大丈夫です!」


 叫び返した声は、自分でも驚くほど普通だった。


 脚は震えている。それでも、最初の崩落の時のように頭まで真っ白にはなっていなかった。


 後方では角狼が二頭倒れ、残りが一度距離を取っているが、追い払えたわけではない。白い岩の間に見える影はまだ多く、次にどこから来るかを窺っている。


 アレンが走って戻ってきた。


「予定を変えます。荷が全部決まるのを待たず、準備できた車から出します」


「まだ移し終わってないぞ」


 商人の一人が言う。


「分かってます。でも、ここに四十人残ってる方が危ない」


 そのままベルントのところへ向かう。


「後方に七人。作業道の入口に二人、列の中に一人残します。最初の二台が抜けたら、入口の二人は向こうへ回します」


「後ろは持つか?」


「今の距離なら。ただ、次から接触が続くようなら、荷より先に人を動かします」


 ベルントは後方の角狼をしばらく見た。


「その案で行け」


「はい」


「それと、ここからはお前が全体を動かせ。俺は後ろに残す護衛だけ見る」


 アレンが僅かに目を見開いた。


「いいんですか」


「お前の方が動ける。今さら俺の許可を取りに何度も往復するな」


「分かりました」


 短いやり取りだったが、その後から商隊全体の動きが少し変わった。


 アレンは自分で何もかも決めようとはせず、御者には通す車と順番を、商人には残す荷を、薬師には怪我人の移動を任せ、その結果だけを一つに繋いでいった。


「先頭はオットーさんでお願いします」


「分かった」


「その次は?」


「俺の後ろならクラウスだ。あいつの車が一番軽い」


「じゃあクラウスさん。怪我人は三台目と最後に分けます。薬師さん、途中を歩ける人と車に乗せる人を決めてください」


「ベルントは最後だ。途中で降ろせん」


「分かりました」


 その声を聞きながら、俺は自分の車の荷紐を締め直した。


 いつ自分の番が来るのかと思っていると、オットーとアレンがこちらへ来る。


「最後の車はこれだ」


 オットーが俺の車を指した。


「こいつが一番小さい。馬もこの二頭なら狭い道で動かしやすい」


「御者は?」


 アレンが聞く。


 オットーは当然のように俺を見た。


「エミル」


「俺ですか?」


「俺は先頭へ行く。あの道を知ってる奴が前にいないと話にならん」


「でも、最後って……」


 言いながら後方を見る。


 角狼に一番近い車になる。


 アレンが俺を見た。


「この二頭を一番知ってるのは、エミルさんですよね」


「それは……そうですけど」


「なら、俺が御者台に座るよりずっといい」


「アレンさん、馬は?」


「乗れる程度です。荷車は任せないでください」


 あまりに普通に言われて、思わず顔を見る。


 銀級なのに、できないことを隠す気はないらしい。


「後ろは俺たちで止めます。エミルさんは馬と道を見てください」


 大丈夫だとも、絶対に守るとも言わなかった。


 それでも、不思議とその方が信じられた。


「……分かりました。やります」


「お願いします」


 アレンはもう次の荷車へ向かった。


 オットーは少しだけその背中を見てから、俺へ向き直る。


「聞いたな」


「聞きました」


「なら狼を見るな」


「見ないって無理でしょう」


「気になるのは分かる。だが、お前の仕事じゃない」


 オットーは二頭へ目をやった。


「狼を見るのは冒険者の仕事だ。お前は道と馬を見ろ。こいつらが何を怖がって、どっちへ逃げたがるかは、お前の方が分かる」


 それだけ言って先頭へ歩いていく。


 最初の頃なら、半人前扱いされたように感じたかもしれない。


 その時は違った。


 俺が見るべきものがあるのだと、初めて分かった。


     ◇


 古い作業道は、聞いていたよりずっと酷かった。


 先頭のオットーが斜面へ入る。今の街道より狭く、長い間使われていなかったせいで草が伸び、雨水の跡が深い筋になって残っている。


 オットーは御者台から何度も降り、前方の石や折れた枝を退けながら進んだ。


 最初の難所は、岩壁と崩れた路肩の間を抜ける場所だった。荷車の幅に対して、余裕は片側に手のひら二つ分もない。


「乗ってる奴は降りろ! 山側を押さえろ!」


 オットーの声で、護衛と商人が岩壁側から車体へ手を当てる。馬は一歩ずつ進み、車輪が石に乗るたび荷台が大きく軋んだ。


 最初の車が抜けても、誰も歓声など上げなかった。


 二台目は一台目より軽いぶん速かったが、途中で左車輪が岩壁へ擦れた。御者が慌てて馬の向きを変えようとすると、先へ進んでいたオットーが戻ってくる。


「止めろ。焦って馬を曲げるな。車体を先に戻すぞ」


 数人で荷車をずらし、それから改めて馬を進ませる。


 二台目も抜けた。


 その間にも、後方では剣と槍の音が続いている。


 俺の位置から戦っている姿まではよく見えなかったが、角狼が近づくたび、馬たちの耳が一斉に後ろへ向いた。


 三台目を通す頃には、護衛の一人が作業道へ下がってきた。額から汗を流し、盾にはさっきまでなかった深い傷が入っている。


「後ろは?」


 近くにいた商人が聞く。


「まだ持ってる。ただ、急いだ方がいい」


 それだけ言うと、今度は作業道の入口で警戒に回った。


 三台目には肩を痛めた商人と腕を傷つけた護衛が乗っており、狭い区間では一度降ろし、別の者が支えながら歩かせた。


 途中で馬が後ろの唸り声に反応して足を止める。


 御者は無理に引かず、岩壁側へ布を広げて視界を狭め、低く声を掛けながら再び歩かせた。


 その様子を見ていた俺の手に、じっとりと汗が滲む。


 四台目は大きな石に車輪を乗り上げ、荷台から木箱が一つ落ちかけた。


 持ち主の商人が反射的に支えようとしたが、御者が叫ぶ。


「放せ! 手ぇ挟むぞ!」


 縄を一本切ると、箱は道へ落ちて角が割れた。それでも、誰も拾いに戻ろうとはしなかった。


 四台目が先へ進んでいく。


 人が減るほど俺たちの周りは静かになり、その分だけ後方から聞こえる戦いの音が近づいていた。護衛たちが少しずつ作業道側へ下がってきているのだ。


 そして、俺の番になった。


 荷台にはベルントと、負傷した護衛が一人、薬師。それから水と食料、治療道具が積まれている。


 マイヤーの南方布も、一箱だけ残っていた。


「行けるか?」


 ベルントが荷台から聞く。


 固定した右脚を伸ばし、手には槍を持っている。


「行きます」


「いい返事だ」


「本当は怖いですけどね」


「怖くない奴に最後の車を任せる方が怖い」


 少しだけ笑っているように聞こえた。


 後方で声が上がる。


「下がれ! 次、来るぞ!」


 角狼の唸りが続いた。


 振り返りたくなったが、オットーの言葉を思い出す。


 俺が見るべきなのは狼ではない。


 二頭の首と、これから通る道を見た。


「行くぞ」


 手綱を緩め、作業道へ入る。


 最初の斜面は問題なかった。


 荷を減らした分、二頭の足取りも軽い。栗毛は何度も後ろへ耳を向けているが、声を掛ければ前へ戻す。


 最初の狭い場所も通れた。岩壁との距離を見ながら鹿毛を少しだけ左へ寄せ、外側の車輪を道の中央へ置く。人に車体を支えてもらう必要はあったが、前の四台を見ていたおかげで動かし方は分かった。


 問題が起きたのは、その先だった。


 雨で道の端が深く削られた場所がある。


 前の四台は通れた。自分も行けると思った。


 右前輪が轍を越え、その後ろへ後輪が続いたところで、乾いた音とともに車体が斜面側へ傾いた。


「止めろ!」


 ベルントの声に反応し、すぐ二頭を止める。


 右後輪が、前の車が通ったことでさらに崩れた穴へ落ちていた。半分近くまで沈み込み、荷台の重みを受けた周囲の土が少しずつ斜面へ落ちていく。


「全員降りろ」


 ベルントが言う。


 薬師と負傷した護衛が飛び降りた。


「隊長も――」


「この脚で飛び降りた方が危ない。俺は後だ。まず車を戻せ」


 確かにその通りだった。


 俺も御者台から降り、沈んだ車輪を確かめる。薬師が近くから石を拾い、負傷した護衛も動く方の腕だけで地面を掘ったが、穴は思ったより深く、石を噛ませても車輪が乗るより先に土が崩れていく。


 馬へ強く引かせれば上がるかもしれない。


 その代わり、斜面側の道まで一緒に落ちるかもしれなかった。


 後方から聞こえる音が近づいてくる。剣が何かを弾く音に角狼の鳴き声が重なり、人の怒鳴り声まで聞き取れる。


「あとどれくらいだ!」


「止まってます!」


 俺が返すと、少し間を置いてアレンの声が飛んできた。


「分かりました! 無理に引かないでください!」


 無理に引かない。


 なら、軽くするしかない。


 荷台へ上がり、積んであるものを見る。


 水と食料はこの先の移動に必要だ。薬と治療道具も外せない。毛布だって怪我人には必要になる。


 残っているのは工具類と、マイヤーの南方布。


 今朝までなら、俺が捨てていいものではなかった。


 今だって俺の荷ではない。


 それでも、ここで決めなければ車は動かない。


 俺は南方布の箱へ手を掛け、縄を切った。


 箱を岩壁側へ落とすと、鈍い音が響く。


「それを捨てるのか」


 ベルントが聞いた。


「これが一番重くて、今はいらないので」


「なら続けろ」


 それだけだった。


 工具箱も下ろす。


 食料は残す。水も薬も動かさない。


 予備の車輪には手を掛けたところで少し迷った。この先で車輪を傷めれば必要になる。


 けれど、今この車がここから出なければ、その先を心配する意味もない。


 予備車輪も外した。


「もう一度押してください!」


 薬師と護衛が車体の山側へ回る。


 俺は御者台へ戻り、二頭へ声を掛けた。


「一歩でいい。ゆっくりだ」


 手綱を引かず、前へ送る。


 二頭が身体を傾け、車輪が軋む。後ろから人が押す力も加わり、沈んだ右後輪が一度だけ浮いた。


 だが、縁を越える前にまた穴へ落ちた。


 栗毛が驚いて首を振る。


「大丈夫だ。まだだ」


 自分に言っているのか、馬に言っているのか分からなかった。


 車輪の前へもう一度石を入れても、土が崩れる。別の石でも同じだった。


 あと少し高さがあればいい。


 そう思った時、足元の土が動いた。


 車輪の前だけがゆっくり持ち上がり、崩れていた縁が押し固められていく。


「エミルさん!」


 アレンの声だった。


 振り返ると、作業道の後ろに立っている。外套の肩が裂け、左腕には浅い血の跡が見えた。そのさらに向こうでは、残った護衛たちが角狼を止めながらこちらへ下がってきている。


「一度だけ上げます! 上がったら、そのまま進んでください!」


「分かりました!」


 午前中、沈んだ俺の車輪を上げた時と同じだった。


 ただ、その後ろには今、二十頭近い角狼がいる。


「今!」


 二頭へ声を掛けた。


「行け!」


 栗毛と鹿毛が同時に踏ん張る。


 右後輪が土の坂へ乗り、薬師たちが後ろから押した。車体が大きく揺れたあと、沈んでいた車輪が一気に穴から抜ける。


「そのまま!」


 俺は二頭を止めなかった。


 荷車が前へ出た直後、それまで右後輪が沈んでいた場所の土が斜面へ崩れ落ちた。


 背中が冷たくなる。


 あと少し遅ければ、車輪だけでは済まなかったかもしれない。


 けれど、もう後ろは見なかった。


 栗毛の耳と鹿毛の首、それから先に続く道だけを見る。


 二頭へ声を掛けながら、作業道の出口まで進んだ。


     ◇


 広い街道へ出ると、先に抜けた人たちから声が上がった。


「止まるな! もう少し先まで行け!」


 オットーの声に従い、そのまま荷車を進める。作業道の出口から十分に距離を取って二頭を止めると、薬師たちはすぐベルントを荷台から降ろした。


 俺はしばらく御者台から動けなかった。


 手綱を握る指に力が入らず、今さら震え始めた両手を、自分のものではないように眺めていた。


「エミル」


 横へ来たオットーに呼ばれる。


「はい」


「馬を見ろ」


「……え?」


「まだ仕事終わってないぞ」


 そこで初めて、二頭の息がひどく荒いことに気づいた。


 慌てて御者台を降り、荷台から取った布へ少しだけ水を含ませる。栗毛の肩には汗が白く浮き、鹿毛も鼻を大きく膨らませていた。


 首筋を拭きながら、二頭の間に立つ。


「よくやった」


 自分には、まだ同じ言葉を掛ける気になれなかった。


 全員が戻ってきていない。


 作業道の奥から、まだ戦う音が続いていた。


 最初に護衛が一人走って出てくる。盾の縁が大きく欠けていた。


 続いて二人目。脇腹を押さえているが、それでも自分の足で走っている。


「あと三人!」


 誰かが叫んだ。


 俺も作業道の入口を見る。


 角狼の影が一瞬現れ、すぐ槍に押し戻される。その直後、二人の護衛が走って出てきた。


 最後尾にアレンがいた。


 一頭の角狼が岩陰から横へ回り込み、走るアレンへ飛びかかった。


 アレンは振り返りざまに剣で角を受け流し、反対側から風を叩きつける。狼の身体が岩壁側へ流れたが、追撃はしなかった。


 倒れたかどうかを確かめることさえせず、そのまま走る。


 先に出た護衛たちが振り返り、槍を構えた。


「ここまで!」


 アレンが叫ぶ。


 残った護衛たちが横一列に並び、作業道から少し離れた広い街道で武器を前へ向ける。


 数頭の角狼が出口まで追ってきたものの、そこで足を止めた。


 さっきまでとは条件が違う。


 街道は広く、護衛は固まっている。馬や商人も十分に後ろへ下がり、横から回り込むための灌木も近くにはない。群れの方も、すでに何頭かを失っている。


 一頭が低く唸り、別の一頭が前へ出ようとして、止まる。


 長く感じたが、実際にはほんの数十息だったのだと思う。


 やがて先頭の一頭が向きを変え、それに続いて他の角狼も一頭ずつ作業道へ戻っていった。


 最後の灰色の影が見えなくなっても、護衛たちはすぐには武器を下ろさない。


「追うな」


 ベルントの声が飛んだ。


「距離を取ったまま、人数を確認しろ」


 その言葉で、ようやく皆が動き始めた。


 商人も、御者も、護衛も、名前を一人ずつ呼ばれて返事をする。途中で同じ名前を二度呼んで怒鳴られる者がいたが、笑う余裕のある者はいなかった。


 俺も途中から、自分で数えていた。


 三十七、三十八、三十九。


「アレン!」


 少し離れたところで裂けた外套を確認していた青年が顔を上げる。


「います」


 四十。


 誰も欠けていなかった。


 その瞬間、荷車の縁に腰掛けていた商人の一人が突然笑い出した。


 おかしくて笑ったわけではないと思う。


 隣の男まで笑い、それを聞いた誰かが泣き始めた。泣きながら笑っている者もいた。


 オットーは長い息を吐き、その場に腰を下ろした。


 俺も立っている必要がないと分かった途端に膝から力が抜け、荷車の車輪へ背中を預けた。


 八台あった荷車は五台になり、残した荷は半分どころではない。護衛には重傷者が二人いて、ベルントの脚も折れている。浅い傷や打撲まで数えれば、無傷の人間の方が少ないかもしれなかった。


 俺の車に積んでいた南方布も、最後の一箱まで白岩街道の途中へ置いてきた。


 それでも、ここには四十人いる。


 誰一人、白岩街道へ置いてこなかった。


     ◇


 その日は街道沿いの開けた場所で夜を越した。


 本来ならさらに先まで進む予定だったが、人も馬も限界だった。角狼が戻ってくる可能性を考えて見張りを増やし、荷車を寄せて小さな火を幾つか焚く。


 怪我人の手当てが終わる頃には、完全に日が落ちていた。


 俺は二頭の近くで毛布に包まっていたが、なかなか眠れなかった。


 目を閉じると、右後輪が落ちた時の感触が戻ってくる。もう少し遅ければ、荷を一つ捨てるのを迷っていたら、馬へ余計な力を掛けていたら――助かったはずなのに、考え始めるほど身体から力が抜けなくなった。


「寝ないのか」


 声を掛けてきたのはマイヤーだった。


 俺は身体を起こす。


「そろそろ寝ます」


「それ、寝る奴の顔じゃないな」


 マイヤーは俺の隣には座らず、少し離れた岩へ腰を下ろした。


 しばらく互いに黙っていたが、俺には気になっていたことがあった。


「あの箱、捨てました」


「見れば分かる」


「すみません」


「何で謝る」


「最後まで残すって決めてたやつだったから」


「俺が決めたんだ」


「でも、捨てたのは俺です」


 マイヤーは鼻から長く息を吐いた。


「じゃあ聞くが、あそこであれを残してたら車輪は上がったのか?」


「……分かりません」


「なら、今さら俺にも分からん」


 しばらく火の方を見たあと、マイヤーが続ける。


「ただ、次に同じことがあったら、箱ごと捨てる前に中身を出せ。布なら何反か抱えて逃げられた」


「……はい」


「高かったんだぞ、あれ」


「知ってます」


「本当に高かったんだ」


「だから、すみませんって言ってるじゃないですか」


 思わず返すと、マイヤーが初めて少し笑った。


「まあ、生きて戻らないと、損したって文句も言えん」


 立ち上がり、服についた土を払う。


「今度からは、箱じゃなく中身を見ろ」


 それだけ言って、自分の寝場所へ戻っていった。


 さっきまでより少しだけ、眠れそうな気がした。


     ◇


 目的の街へ着いたのは、予定より一日遅れだった。


 門をくぐっても、誰も歓声を上げなかった。


 安心したというより、ようやく仕事の続きをできる場所へ着いたという感覚の方が近かった。


 宿へ入るなり商人たちは損失の確認を始め、護衛は怪我人を治療院へ運ぶ。白岩街道へ残してきた荷車や積み荷についても商会同士で確認が必要になり、護衛契約の扱いは後から冒険者ギルドを交えて決めるらしい。


 助かったから終わりではない。


 そこから先にも、やることはいくらでもあった。


 俺も二頭の世話を済ませると、オットーから帳面を渡された。


「書け」


「何をです?」


「お前の車から降ろしたもの。覚えてるうちに全部だ」


 嫌な仕事だった。


 途中で置いた荷を思い出しながら書いていき、南方布一箱と記したところで手が止まる。


「何だ」


「いや……」


「書かなきゃ消えると思ってるなら諦めろ。荷は消えても帳面には残る」


「嫌な言い方しますね」


「仕事だからな」


 俺は渋々続きを書いた。


「オットーさん」


「何だ」


「俺、最後の荷を捨てるの、自分で決めました」


「見てた」


「怒らないんですか」


「何を」


「商会のもの、勝手に捨てたから」


 オットーは帳面から目を上げた。


「じゃあ、あそこで残してどうするつもりだった」


「それは……」


「お前の仕事は荷を運ぶことだ。それは間違ってない」


 俺の手元にある帳面を指で叩く。


「だから普段は傷一つつけるな。雨にも濡らすな。車輪が壊れても直して届けろ。それで金をもらってる」


「はい」


「だが、荷と人間のどっちかしか残せなくなった時まで迷うな。荷ならまた買えるし、荷車も直せる」


 俺は白岩街道へ置いてきたものを思い浮かべた。


「馬は?」


 オットーが少し黙った。


「簡単には戻らんな」


「ですよね」


「だから、人より先に無茶させるな」


 答えはそれだけだった。


 一人前になったとも、よくやったとも言われなかった。


 けれど、その日の夕方、オットーは次の便の予定表を俺へ渡してきた。


「三日休め。次は東回りだ」


「俺も行くんですか?」


「行きたくないなら別の奴に回す」


 俺は予定表を受け取った。


 そこには最初から、御者の欄に俺の名前が書かれている。


「行きます」


「なら馬の状態、明日もう一回見とけ」


「三日休めって言ったじゃないですか」


「お前が休みでも馬は飯を食う」


 相変わらずだった。


 それでも予定表を返す気にはならなかった。


 初めて一台を任された仕事で、俺は荷を全部届けることができなかった。荷車だって途中で置いてきたし、危ないところでは何度も人に助けてもらった。


 だから、自分がもう一人前になったとは思わない。


 ただ、次の一台も任せてもらえるらしい。


 今はそれで十分だった。


     ◇


 白岩街道から戻って十日ほど経った頃、俺は商会の荷受け場で縄をまとめていた。


 ベルントはまだ杖を使っているが、脚はきちんと治る見込みらしい。腕を傷めた護衛も含め、あの時の負傷者は全員生きている。


 マイヤーは失った南方布のせいで、今年の利益がかなり減るそうだ。


 それでも昨日顔を合わせた時には、


「次はちゃんと箱を開けろよ」


 と、また言われた。


 よほど惜しかったらしい。


 そんなことを考えながら縄を巻いていると、商会の受付から聞き慣れない言葉が聞こえてきた。


「金級?」


 手が止まった。


 話しているのは、うちの商人と冒険者ギルドから来た男だった。


「誰が?」


「白岩街道にいた若い銀級だよ。アレン・クロイツ」


 思わず縄を置いて受付へ近づく。


「アレンさんが?」


 二人がこちらを見る。


「お前もあの商隊にいたんだったな」


「はい」


「正式に昇格が決まったそうだ。前から候補には入ってたらしいが、白岩街道の件が大きかったって話だ」


 俺はあの日のことを思い返した。


 後ろで戦っていたところはほとんど見ていない。


 角狼を何頭倒したのかも知らないし、本人が一人で大きな魔物を仕留めたところを見たわけでもなかった。


「そんなに角狼を倒したんですか?」


 ギルドの男が少し笑った。


「何頭倒したかだけなら、銀級の仕事だよ」


「じゃあ、何で?」


「護衛頭が動けなくなった後、御者にも商人にも仕事を振って、逃げ道を作って、最後まで護衛を残した。報告にはそう書いてある」


 それでも俺が腑に落ちない顔をしていたのか、男は俺を見て続けた。


「四十人、連れて帰ったからだ」


 その言葉を聞いた瞬間、崩れた白い岩と、泥の上へ置いてきた荷が頭に浮かんだ。


 狭い作業道で震えていた馬の首筋、車輪の下から土が崩れていった感触、それから逃げ切ったあと、一人ずつ名前を呼んだ声まで、不思議なくらい鮮明に戻ってくる。


 四十人。


 一人も欠けていなかった。


 しばらく受付に立っていたあと、俺は途中だった縄のところへ戻った。


 次の便でも使う縄だ。


 一度ほどいて、今度は緩まないよう最初から巻き直す。


 その四十人の中には、俺もいた。



挿絵(By みてみん)

9/24 挿絵を追加し改稿

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