友よ、もう一度
「あーもう、人生やり直したい!」
「へえ、頑張って」
杏奈がいつもの居酒屋で子供っぽい願望を叫ぶと、高校時代からの親友が興味なさげに応援する。ハイボールをちびちびと舐めながら、杏奈は眉を八の字にした。
「瑛子が冷たい……」
「杏奈が暑苦しすぎる。うちらもう二十三歳よ?」
「うう……」
冷たく諭されて杏奈は呻くしかない。だってえ、と甘ったれた声で言い訳をする。
「社会人皆冷たいんだもん。もうやだー」
「ここは東京砂漠。期待するだけ無駄」
「全然慰めてくれない……!」
剣もほろろな回答に杏奈は撃沈した。すると、哀れに思ったのか瑛子の静かな声がこう付け足した。
「……でも、砂漠に負けずに生きられるよ、杏奈なら」
「瑛子……!」
「まあ、杏奈はしぶといし」
照れ隠しのようにそう言う瑛子に、杏奈は感極まって両手を広げる。
「うわあ、好き!」
「抱きつくな!」
「抱きつくもん」
そうやっていつものようにじゃれあって、二人は居酒屋を後にする。
そこまでしか、二十三歳の杏奈の記憶はない。
◇
「まさか本当に人生をやり直すことになるとはね……」
十五歳の杏奈は苦々しい顔で呟いた。居酒屋で瑛子と別れた後、気がついたら十五歳に逆行転生していた。
流行りのトラックに轢かれて転生でもしたのだろうか。親切に説明してくれる神様は出てこなかったので、原因はわからない。
「でも十五歳で良かった! 瑛子とは高校で出会うから」
杏奈と瑛子は高校一年生の時に同じクラスになる。あの悪友がいれば第二の人生も悪くないものになるだろう。
その日の入学式と退屈な説明会が終わると、すぐに杏奈は瑛子に話しかけにいった。自分の席で帰り支度をする瑛子を正面から仁王立ちで見つめる。
「瑛子ちゃん、だよね?」
「あの……?」
「あ、そっか。あの私、田中杏奈って言って……」
「そうなんだ。よろしく」
そう言うと、瑛子は微笑んだ。
杏奈は目を瞬かせた。初めましての顔をする瑛子が、知らない人みたいに見えた。
だって二十三歳の瑛子だったら、『私に何か用?』くらい言うのに。
頭ではわかっていた。初対面のクラスメイトに話しかけられたら愛想良くするのは当然だ。
ここまで来て初めて、杏奈は『また瑛子と仲良くなれるだろうか』という不安が湧き上がってきた。瑛子と過ごした時間が消えた状態で、また親友になれるのか。
杏奈は開きかけた口を閉じた。二人の間に沈黙が落ちる。怪訝そうな顔で、瑛子が杏奈を見ている。何か、言わなければ。
「あの、あのね……」
「うん」
「やっぱり、なんでもない」
杏奈がへらりと笑って言うと、瑛子は困ったように微笑んだ。過去の杏奈は、瑛子の建前と本音の使い分け方をよく知っていた。この表情はたしか……何寝言言ってんだコイツ、である。
――うわあ、キツい。
彼女と仲良くする術と覚悟を持たずに、彼女が自分に不快感を覚えていることだけがわかるのが、キツい。
杏奈は耐えきれなくて、笑って誤魔化した。
「なんでもない、明日からよろしくね!」
◇
高校一年生ももうすぐ終わる、という頃になると、杏奈は瑛子の親友になる努力を疎かにするようになった。
何度か話しかけても、会話のテンポが僅かに合わない。昔はもっと、と考えてしまう自分に気づいて、杏奈は次第に話しかけるのをやめた。
その代わり杏奈には新しい友人ができた。しかし、楽しく彼女達と語らっていても、不意に耳に飛び込んでくる声があって少し困る。
「うわ、瑛子すごい」
その声に引かれるように、杏奈は視線を後ろに向ける。案の定、楽しそうに会話する瑛子とその友達がいて。いいなあ、と杏奈は口の中で呟く。
「隣にいるのは、私だったんだよー……」
「杏奈、なんか言ったー?」
「ううん、何にも言ってない!」
ふうん、と目の前の友人は不思議そうに頷く。
「杏奈、次の移動教室一緒に行こう」
「いいよー」
新しくできた友人は、移動教室は絶対に一緒に行くタイプらしい。それは全然悪いことじゃない。杏奈だって、移動教室は誰かと行きたい方だ。だけど、自分を置いて先に行こうとする元親友に、待ってよー、と言いながら着いて行くのも好きだったのだ。
◇
下校のチャイムが鳴って、生徒が学校を飛び出していく。
「杏奈、じゃあね!」
「うん、バイバイ」
電車通学の杏奈は、徒歩通学の友人と別れて、学校の最寄駅まで歩く。
駅のホームで楽しそうに笑う瑛子とその友達を見かけて、車両が同じにならないように足を運ぶ。あはは、という笑い声がいやに耳に残った。
――そこにいたのは、私だったのに。
電車がホームに滑り込んできて、扉が開くとそそくさと中に入る。空いている席に座る気にならず、ドアに寄りかかるようにして立った。
――何がいけなかったんだろう。
本当なら高一の春、本の趣味が似ている、と瑛子から教室で話しかけてきてくれたのに。用なんてなくても、永遠に喋っていられたのに。以前はずっと、そばにいたのに。
ガタン、ガタン、と電車に揺られながら、もたれかかったドアの窓を見る。地下鉄の暗い窓に映る女子高生の表情は、記憶より少しだけ大人っぽい。
――そりゃそうだ。中身は二十三歳なんだから。
そう自嘲するように笑って、ふと、杏奈は気づいてしまった。
「あの時、あの場所で、あの私じゃなきゃ、瑛子と仲良くできなかったんだ」
奇跡みたいな偶然の積み重ねでやっと繋がった、そんな友情だったのだと今になって知る。
そっかあ、と掠れた声で続けた。
「そっかあ、もう二度と、あの時間は来ないんだなあ」
杏奈がふざけて瑛子が怒ることも、怒らせすぎて口を聞いてくれなくなることも、謝ったら「今回だけよ」と許してくれて二人でカラオケに直行することも。
――もう、全部、ないんだ。
不意に、視界がぼやける。
近くに立つサラリーマンが杏奈の方を見てぎよっとした。どうやらよっぽどひどい顔をしているらしい。杏奈は自分の顔を隠そうとして、やめた、と手を下ろした。
別にいいや、ここは東京砂漠。泣きながら電車に乗る変な女子高生なんて、きっと明日には人々の記憶から消えるだろう。
そうして、杏奈も何事もなかったかのように新しい友達に笑いかけるのだ。「杏奈はしぶとい」と元親友が保証してくれた思い出を胸に抱いて。明日からは砂漠に負けないと誓うから。
だから、今は。
今だけは、どれだけ惨めに泣いたっていいことにしよう。
◇
春の空気が漂い始め、校門の桜が蕾を開き始めた頃。
「卒業生、退場」
紺色のブレザーが規則正しく列をなして、出口へ向かう。保護者と在校生の拍手に包まれて、杏奈は前を向いて歩いた。
今日、杏奈は三年間通った高校を卒業する。
最後のHRが終わったあとも、教室はざわついていて、思い出作りにそこら中で写真を撮っている。スマートフォンの携帯が禁止されていないこの高校では、誰もが当たり前のようにスマホを取り出していた。
「撮るよー」
「はーい」
そう言って、クラスの盛り上げ役の女の子がスマホを構えた。教室を回って皆と写真を撮っているらしい。普段から写真を撮る側に回ることの多い彼女は自撮りもお手の物で、六人の女子を見事に画角に収めていた。
スマホのシャッター音が響き、杏奈たちは動き出した。
「ありがとー」
「もう一枚撮ろう」
「撮りすぎでしょ!」
笑いつつも、杏奈は彼女が構えるカメラのレンズに視線を向けようとして、視界の端に一人の女子生徒を捉える。
――あ、瑛子。
彼女の姿を見つけても、入学したばかりの頃ほど胸は締め付けられない。ただ彼女は別の子と仲が良くて、杏奈も瑛子じゃない友達と一緒にいるというだけ。
「杏奈、どこ見てんの?」
不思議そうな友達の言葉に、ごめんごめん、と笑って謝って視線を戻す。
「はい、ポーズ」
三年間の思い出を刻むように、杏奈は全力の笑顔を作った。
一通り写真を撮り終わると、教室は自然と特に仲の良い女子で固まる。杏奈は机の端に腰掛けて、三年間ずっと一緒にいた友達に向き合った。目の前の彼女が、感傷に浸るようにこう言う。
「これで杏奈ともお別れかー」
「やだ寂しい。卒業しても会おうよ、若葉」
「そうしよう!」
三年間隣にいてくれた若葉は、ふふふ、と思い出すように笑って、彼女曰くこだわりのポニーテールを揺らす。
「色んなことがあったね」
「ハマセンの乱忘れられないよ」
「あったあった!」
「うちら二人とも宿題やってなくてさあ」
杏奈と若葉が揃って夏休みの宿題をやって来ず、『仏の浜田』と呼ばれていた担任の印象を変えさせてしまったことは記憶に新しい。杏奈はその時のことを思い出してぶるりと震えた。いや、どう考えたって自業自得なのだが、大人から正論で詰められる経験はなかなかない。
杏奈も彼女も、どちらかと言うとボケ属性で二人して事件を起こし回っていた。自由な校風だからある程度は容認される。中庭にハンモックを吊るしてみたり、ハロウィンの日に髪型を変えて登校したり。
ずっと一緒にいた若葉とは、いくつもの思い出を共有している。高一の春には想像もつかないほど、大切な友達になった。
「最後に女子全員で写真撮ろうよ!」
そんなことを誰かが言い出す。なんとなく廊下にぞろぞろと集まって、そのうちの一人が通りがかった他のクラスの女子にスマホを渡した。
「どうやって撮るー?」
「これは?」
「いいね!」
ポーズを話し合って、一人が提案したのを皆でいいね、と同意した。「撮るよ!」と声をかけてくれた他のクラスの女子がスマホを構える。三、二、一のカウントに合わせて、全員で手を繋いで跳んだ。着地して皆できゃあきゃあ言い合う。
「わあ綺麗に撮れてる!」
「今クラスLINEに送るねー」
スマホの持ち主がそう言うので、杏奈は自分のスマホを見た。友達欄には、瑛子の名前もある。同じクラスだったからLINEは知っているし、用事があれば当然連絡する。仲が悪いわけではない。ただのクラスメイトというだけ。
三年間ずっと、その関係は変わらなかった。
時間が経つにつれて、少しずつ、教室から人が減っていく。やがて、杏奈と若葉だけが教室に残された。がらんどうの教室に二人の声が響く。
「いやあ、この教室も最後ですよ。杏奈さん」
「そうですねえ、若葉さん」
窓辺にもたれかかりながら若葉と語り合う。窓の外には、紺色のブレザーが別れを惜しむようにひしめき合っている。
その中に、瑛子を見つけた。やはり、古傷のような痛みはあるが、以前のようには胸に苦しさはない。
前回の人生にしかないことも確かにあった。でも、前回の人生になくて、今回の人生で初めて得られたこともたくさんあったのだ。
ハマセンから雷が落ちた翌日、杏奈の家に若葉を呼び、二人で宿題を必死にやった。わからないよー!と叫びながら一緒に試行錯誤しながら解くのはとても楽しくて、顔を見合わせて笑った。
宿題が終われば宴だ!とばかりにスーパーへ駆け出して、高校生とは思えないくらい必死のかけっこをした。
家に戻ってたこ焼きをお腹がパンパンになるくらい焼いて、どの具が一番美味しいのか研究し合った。チョコは意外と美味しくて、一番不味いのはキシリトールガム、という研究結果はどこで生かされるのかはわからないけれど、瑛子が知ったら呆れたように笑うだろうけれど。
これから辛いことがあった時、杏奈はきっと若葉と過ごした、くだらなくて愛しい日々を思い出して笑顔になれる。
ああ、楽しい三年間だった!
瑛子が隣にいなくても、別に私は大丈夫だったんだ。そんなふうにこの三年間を結論づけていると、若葉が視線を瑛子のいる窓の下に向けたまま口を開いた。
「杏奈さあ、ずっと瑛子のこと見てるよね?」
「えっ」
「わかるよ。うちらずっと一緒にいたじゃん?」
ふふふ、とおかしそうに彼女は笑う。そして、移動教室一緒に行こうよ、くらいの自然さでこう言う。
「これが最後かもよ。行かなくていいの?」
「……いい」
少し考えて首を振るが、若葉は念押しするように聞いた。
「本当に?」
「だって、前さんざん話しかけて嫌そうな顔されたし」
「あー、確かに高一の頃そんなところ見かけたわ」
「うっ」
やっぱり第三者から見ても瑛子は嫌そうだったのだ、と思い知らされて杏奈は少し落ち込んで言う。
「もう古傷みたいなもんだよ。ちょっと瑛子と仲良くしたかったけど、もういいんだ」
「古傷でも傷は傷でしょ」
さらりと言う若葉に、痛いところを突かれて杏奈は言葉を失う。更に若葉はこう続ける。
「それにさあ、うじうじしてるの杏奈らしくない」
「……そうかな?」
「うん。杏奈の良さは良く言えば真っ直ぐ、悪く言えば猪突猛進なところでしょ」
「ありがとう……?」
褒められているのかな、と首を傾げつつ杏奈はお礼を言った。若葉はどういたしまして、と偉そうに返す。
「最後に当たって砕ければいいじゃない」
「砕けること前提かー……」
心が揺れつつも、三年間逃げていたことに向き合うには少しだけ勇気が足りなくて視線を窓の外に逃す。
窓の下には、咲き始めの桜が植えてある。その木の下には、さっきと同じように瑛子とその友達。
ふと、忘れ物をしたのか、瑛子と仲良しの女の子が校舎の中へ戻って行く。瑛子は一人で、彼女らしく真っ直ぐに背筋を伸ばして桜の木の下に立っていた。その意思の強い瞳は、ここからは見えない。最も、この三年間だって真正面から見た機会はごく僅かだったし、これからは一度も機会は訪れないだろうけれど。
また見たいなあ、瑛子の目を真正面から。
もう一度彼女に、あんた何やってんの、と怒られたい、と言ったらドMだと若葉に笑われそうだ。
以前の瑛子は、同窓会なんて面倒くさい、と言って来なかった。きっと、今日を除けば直接会う機会はないだろう。
きっとこれが、最後のチャンス。
当たって砕けてしまえばいい、という若葉の言葉を思い出す。また友達に戻れるなら万々歳。振られるならすっぱり振られて、かさぶたを完全に消し去ってしまうチャンスだ。よし、と杏奈は覚悟を決める。
「私、行ってくる!」
「いってらー」
若葉はそう軽く返すので、杏奈は拍子抜けしてしまった。
「軽っ。私は結構重い決断をですね……」
「うるさい。早く行きなって」
「うん……」
若葉は杏奈をあしらって、それでさあ、と言葉を紡いだ。
「ここで待ってるから、終わったら戻って来なよ」
ふふふ、と杏奈と一緒に問題を起こす時の顔で今回の人生の親友は笑う。
「上手く行かなかったら慰めてあげる」
友達でしょ、うちら、と彼女は口角を上げた。
「うん、うん……!」
杏奈が瞳に涙を溜めて頷くと、若葉は「だから早く行きなって!」としっしっと手を振った。
杏奈は走り出した。今この瞬間にも、瑛子は学校を去ってしまうかもしれないと思うと、急に焦りが湧いてくる。
――瑛子がいなくたって楽しかった。
自分に三年間言い聞かせていた言葉を思い出す。これは本当のことだ。若葉と過ごす日々もとても幸せだった。でも、だからと言って『気にしてない』『瑛子なんてどうでもいい』――そんなの嘘だ。
古傷は若葉が言ったように、確かに傷として杏奈の中に残り続けていた。
若葉といて楽しい、と思うたびにこう思ってしまう。
――もしここに瑛子がいたら、もっと楽しいに違いない!
なんて欲張りなんだろう、と杏奈は苦笑が漏れる。瑛子も厄介な人間に好かれてしまったね、と他人事のように同情する。
困ったように微笑まれたって知るものか。変なヤツ、と思われたっていい。古傷のようにこんなに引きずってしまうなら、もっともっと、何度だって話しかければ良かったんだ。杏奈のことを若葉が「猪突猛進」と評したように。そして、いつか瑛子が「しぶとい」と言い表したように。
怖がっている暇があるなら前進するのだ。杏奈はいつだって一人じゃない。失敗したら慰めてくれる親友が昔も今もいるんだから。
玄関ロビーを抜けて、校門が見えてくる。少し早咲きの桜の木の下には、瑛子の姿が見えた。
なんて話しかけようか、今になって杏奈は悩み始めた。
――ねえ、卒業しても遊ぼうよ。
一度も瑛子と遊んだことがないのに「も」はおかしい。
――卒業したら遊ぼうよ。
違う。もっと根本的なところからだ。
――もっと話してみたいんだけど、いいかな……?
うん、これだ、と杏奈は頷く。何となく決まらない台詞だが、それも杏奈らしい。
校門のところにたどり着くと、瑛子はまだ一人で立っていた。ぜーはー言う杏奈に怪訝な目を向けている。
待ってろよ。絶対絶対、もう一度友達になってやる。
そう心の中で宣戦布告して、杏奈は口を開いた。




