第七話 ー道筋ー
――冷たい。
レオンが目を開けると、石造りの天井が視界に飛び込んできた。
床と壁には淡く光を放つ紋様が刻まれ、そこからじわじわと重苦しい魔力が流れ込んでいる。呼吸するだけで胸が圧し潰されそうな圧迫感。
体を起こそうとした瞬間、両手首に黒い鎖が絡みついているのに気づいた。鎖はまるで生き物のように蠢き、逃れようとするたびに骨の奥まで冷たい痛みを食い込ませる。
「っ……!」
呻く視線の先、同じように鎖に繋がれたミリアがいた。
「いったぁ……! あの化け物、いきなりぶん投げやがって!」
袖口を擦り切られたミリアは、悔しさを隠すように怒鳴った。
「ミリア……無事?」
震える声で問うレオン。
「無事なわけあるか! 拾ったばっかの服までボロボロだぞ……!」
強がる言葉とは裏腹に、その瞳には怯えの色が浮かんでいた。
レオンは苦笑を浮かべるが、胸の奥は氷のように沈む。
――父から託された“鍵”を奪われた。
唯一守らなければならなかった形見を。
重い扉が軋みを上げて開く。
冷気とともに現れたのは、白いスーツに黒い仮面をつけた男。仮面の奥から赤い光が滲み出し、二人を鋭く射抜いた。
「目を覚ましたか……“鍵の持ち主”」
低く湿った声が、耳の奥にへばりつく。
「禁忌の“鍵”をようやく手に入れた。だが一つでは不完全だ。次の“鍵”もすぐに見つかる……」
男は冷淡に言い放ち、足を止める。
「それまで――お前たちには利用価値がある」
手を払うと、黒い鎖が蛇のようにミリアへ伸びる。
「やめろッ!」
レオンは迷わず身を投げ出した。
鎖が肩を貫き、骨を砕く衝撃とともに壁に叩きつけられる。
「ぐっ……ぁぁっ!」
肺から息が絞り出され、視界が白く霞む。
「レオン!」
ミリアが悲鳴を上げる。
血を流しながらも、レオンは必死に身体を鎖に絡ませ、彼女を覆うように庇った。
「……彼女には……触れるな!」
仮面の奥からくぐもった笑い声。
「愚かだな。お前が苦しめば苦しむほど……彼女は絶望するというのに」
鎖は一瞬緩み、レオンを床へ投げ捨てる。
「せいぜい、その無力を噛みしめるがいい」
重い扉が閉ざされ、再び沈黙が訪れる。
ミリアは震える手でレオンの肩に触れた。
「な、なんで……! バカ! なんで庇ったんだよ! 自分だって捕まってんのに!」
レオンは血に濡れた唇をかすかに歪める。
「……君が泣いてるのを、見ていられなかった。ただ、それだけだ」
「……っ……」
ミリアの瞳が揺れ、涙がぽろりと零れた。
「……あたしのせいだ。あたしが鍵なんて盗まなきゃ……お前まで巻き込まれなかったのに……!」
「ミリア」
レオンは必死に体を起こし、彼女の手を強く握る。
「君のせいじゃない。狙われていたのは僕だ。……全部、僕の運命なんだ」
「でも……怖いんだよ……!」
ミリアは子供のように嗚咽し、顔を覆った。
「死ぬのなんて……嫌だ……!」
レオンは彼女を抱き寄せ、その震えを丸ごと包み込む。
「……大丈夫。必ず出口を見つける。傷だらけになっても、絶対に……」
ミリアは涙をこぼしながら、その胸に顔を埋め、小さく頷いた。
冷たい監禁の部屋。
二人は互いの体温を確かめ合うように寄り添い、唯一の灯火を分け合った。
同時刻。
街の裏、煙と安酒の匂いに満ちた路地裏の酒場。
荒くれ者が笑い、賭場帰りが肩をぶつけ合う中、ジークはカウンターに腰を下ろした。
「……“深層”の噂を聞きに来た」
店主の顔が強張る。
「おい、やめとけ……首が飛ぶぞ」
ジークは紫煙を吐き、薄笑いを浮かべた。
「俺の首はしぶといんでな」
カウンター脇でアイリが端末を叩き、裏帳簿を探る。
「……金の流れが不自然っすね。“教団”の名義が――」
その瞬間、奥の扉が開き、白スーツに黒い仮面の男たちがぞろぞろと現れた。十五人以上。
アイリが顔をしかめる。
「黒じゃなくて白……精鋭部隊っすね。全員、一流の殺し屋クラス……!」
ジークは立ち上がり、煙を吐き捨てる。
「ジジイと小娘と人相悪いあんちゃんに精鋭ぶつけるとか……悪趣味だな」
戦闘開始。
ジークは椅子を掴んで振り下ろし、迫る刃を弾き返す。
破片を握り込み、喉へ突き立てる。
「一人」
二人目の腕を掴み、軌道を逸らして鳩尾へ膝を叩き込む。
「二人目」
三人目は逆関節を極め、肩ごと床に叩きつけ、喉へ掌底。骨の砕ける音が響く。
「……三人目」
「おおっ! 今のはカッコいいっす! でも――」
アイリが針で情報を抜き取り、叫ぶ。
「出たのは娼婦通いの記録しかないっす!」
「誰が欲しがるんだそんな情報!」
ジークが怒鳴り、次の敵を蹴り飛ばす。
酒瓶を掴み、逆手にして顎を砕く。血と酒が飛び散る。
「四人目、五人目!」
コートを脱ぎ捨て、古傷に覆われた肉体を露わにした。
血で額を濡らしながらも、にやりと笑う。
「……数年ぶりだ。《ヴァルハラ式近接格闘術》、思い出させてやる」
刃を振り下ろした敵の動きを掴み、腰を落とす。
「――《断骨投げ》ッ!」
肘で肘を殺す角度。踵で腱を断つ重さ。
悲鳴と共に二人まとめて床に沈める。
「六人! 七人! 八人!」
アイリが情報を抜き取りながら数える。
「……スカ! ……またスカ! ……お、アタリ! 資金ルート一本!」
「どんだけ仕分けしてんだよ!」
ジークは拳を割り、血を滴らせながらも振り抜き続ける。
「まだ……まだだ!」
その瞬間、黒い影が酒場を覆う。
残りの精鋭の足も首も一斉に絡め取り、壁や床へ叩きつけた。
呻き声が途絶える。
赤い瞳を光らせたカゲロウが、低く告げた。
「……もう終わった」
ジークは壁に背を預け、ずるずると腰を落とした。
震える手でタバコを取り出し、火を点ける。肺に煙を流し込み、息を吐きながら言った。
「……俺、十人以上は倒したぞ……! なあ、数えたか……!」
アイリが端末を確認し、にやりと笑う。
「十二人くらいっすね! ジジイ、よく頑張ったじゃないっすか!」
「子供をなだめるみたいに言うんじゃねぇ……!」
ジークは苦笑しつつ、煙を吐き出す。
カゲロウが赤い瞳を細め、静かに問う。
「……さっきの戦い方。あれは《ヴァルハラ式》か」
「えっ!?」
アイリが驚いて身を乗り出す。
「ただの喧嘩術じゃないんすか!?」
「違う」
カゲロウは低く答える。
「魔界の門が開閉を繰り返していた頃……境界戦線で吸血鬼や人型の魔物を相手に戦った歴戦傭兵が編み出した、対人特化の術。血に飢えた夜を越えるための拳だ」
「へぇぇ……! じゃあジークさんって……ボスと一緒に戦ってたんすか!?」
ジークは皮肉げに煙を吐いた。
「昔のことだ。大層なもんじゃねぇ」
カゲロウは一拍置いて言った。
「……考案者はゼルロゼだったな」
ジークの目が鋭くなり、吐き捨てる。
「……その名は出すな」
「誰っすか?」
アイリが首をかしげる。
「昔の仲間だ。……もう死んじまったけどな」
重苦しい空気を切るように、ジークは灰皿にタバコを押し付けた。
「あぁ! しんきくせぇ! 俺のことはどうでもいい! アイリ、情報はどうだ!」
「資金ルート三本、拠点候補二つ……そして“門番悪魔”の名も確保っす!」
「……ゲヘナガーディアン」
アイリが幹部の名を口にした瞬間、酒場の空気が凍りついた。
客たちは一斉に顔を伏せ、店主は震える声で叫ぶ。
「……その名を口にするな!」
沈黙。誰も目を合わせようとせず、ただ恐怖だけが場を支配する。
カゲロウが赤い瞳を光らせ、冷ややかに問う。
「教団が最近、何か怪しい動きをしている……そういう情報はないのか」
だが客たちは押し黙り、視線を逸らす。
やがて店主が唇を噛み、吐き捨てるように言った。
「……悪いがな。俺らは何も知らねぇし、話したくもねぇ。深入りすりゃ首が飛ぶ。だから帰ってくれ」
厄介払いの声に、ジークは鼻を鳴らした。
「チッ……しょうがねぇな」
裏路地に出た瞬間、アイリが誇らしげに笑みを浮かべた。
「ふっふっふ……実はあの酒場にいた全員から、情報は抜いてきたっす!」
ジークは目を丸くし、煙を吐いた。
「……マジか。お前、本当に気味悪ぃな」
「気味悪くないっす! 天才なんすよ!」
アイリは胸を張る。
カゲロウが淡々と問う。
「……で、収穫は?」
アイリは端末を回し見せた。
「この町から離れた郊外の“廃教会”――そこに痕跡が残ってるっす」
ジークは肩を回し、苦笑した。
「……なるほどな。じゃあ、行ってみるか」
三人は夜の路地を進み、月明かりの下、廃教会へ向かって歩き出した。
同時刻。
夜の繁華街。
ネオンが瞬き、笑い声が溢れる中、俺とリリィは人混みに紛れていた。
「……ボス、収穫ゼロばっかだよ」
リリィが頬を膨らませる。
「焦るな。情報は気まぐれだ」
俺が煙草を咥え直した時、痩せぎすの男が路地に座り込んでいた。
「……“解決屋”だろ。酒をおごれば教えてやる」
俺は小銭で酒を渡す。男は一口あおり、声を潜めて囁いた。
「“魔力を宿した古い鍵”を使って、教団が実験してるらしい」
リリィが「ラッキー!」と囁いた瞬間、赤ら顔の男の首が宙を舞った。
血飛沫。悲鳴。人々は逃げ惑う。
立っていたのは一人のリザードマン――周囲より明らかに格が違う。
「お前ら、“解決屋”だな」
背後の席から異形の影が立ち上がる。獣人、オーガ、触手の亜人。
俺たちは最初から囲まれていた。
「……教団の手下か?」
俺が問うと、リザードマンは嘲笑する。
「違ぇよ。ただのギャングだ。だが教団から“解決屋抹殺”の依頼が出てる。金額も破格だ」
リリィが青ざめる。
「わ、私たち殺されるの!?」
「安心しろ。小娘、お前は娼婦にしてやる」
リリィの瞳が冷たく光り、にやりと笑った。
「……ほんとに、私とボスを殺せると思ってるの?」
空気が凍り、リザードマンの背を冷汗が伝う。
「……なんだこいつ……」
次の瞬間、戦闘が始まった。
爆炎に呑まれた残党が崩れ落ち、路地に静寂が戻る。
それでも最後に残ったリザードマンは、血を吐きながらも立ち上がっていた。
鱗に焼け焦げが走り、片腕は垂れ下がっている。だが、まだ牙を剥いている。
「くっ……化け物どもが……」
俺はキャップを押さえ、口の端を吊り上げた。
「俺たちに言う台詞じゃねぇな」
そのまま水刃を走らせ、奴の武器を両断する。
リリィの風が背後から突き上げ、巨体は宙を舞った。
石畳に叩きつけられたリザードマンは呻き声を残し、二度と動かなかった。
蒸気が立ち込める裏路地には、焼け焦げた匂いと血の鉄臭さが漂う。
俺は肩を回し、深い息を吐いた。
「……派手にやりすぎたか」
リリィはスカートを翻し、くるりと回って笑う。
「でもスッキリしたでしょ!」
裏路地を抜けると、まだ蒸気の残滓が漂っていた。
俺はキャップを深くかぶり直しながら歩く。
リリィが隣で鼻を鳴らす。
「ねぇボス、さっきの敵……私のこと“小娘”って言ってたの聞いた?」
「まあ、見た目は十代だしな」
軽口を叩いた瞬間、リリィの目がすっと細くなり、風がざわめいた。
「……ボス?」
声は甘さを削ぎ落とした氷のような響き。
内心ヒヤリとしながら、俺は慌てて両手を振る。
「ち、違う! 言おうとしたのは……その……“ロリバ――”」
冷たい風圧が頬をかすめる。
リリィの笑みが氷点下に沈んだ。
「……今、なんて言おうとしたのかなぁ?」
「ち、違ぇって! “永遠の少女”だよ! 本当だ!」
必死に言い繕う俺。
数秒の沈黙。
リリィはじーっと睨んでいたが、やがてふっと笑顔に戻り、風に舞うようにくるくる回った。
「……なら許す!」
俺は額の汗を拭い、ため息をついた。
(……まったく。からかうたびに命懸けだな)
「でもね、ボス」
リリィが小声で付け足す。
「さっきのリザードマン、ただのギャングじゃない。背後に別の影があった。……きっと繋がってる」
俺は短く頷く。
「わかってる。だがこれ以上騒ぎを起こすと目立ちすぎる。今日は一度、事務所に戻るぞ」
二人は夜の街を後にし、半壊した事務所へと足を向けた。
半壊した事務所は、まだ戦場の匂いを残していた。
崩れた机、破れたソファ、散らばる書類。壁の大穴から夜風が吹き込み、冷気が空間を支配している。
「……やっぱ、ひでぇな」
俺――トウマがため息をつく。
リリィは壊れた棚を見て肩を落とした。
「お気に入りの花瓶まで……粉々だよ」
その時、ギィと扉が開き、外回りを終えた三人――カゲロウ、アイリ、ジークが帰還した。
「……帰ったか」
カゲロウは短く言い、瓦礫をどけて腰を下ろす。
「ふぅ~……年甲斐もなく全力で動いた。腰が死にそうだ」
ジークは肩を揉みながら呻き、崩れたソファに沈み込んだ。
「おっ、揃ったな。じゃあ報告会といこうじゃねぇか」
俺は腕を組み、仲間たちを見渡した。
「まずは俺たちからだ」
キャップを直し、低い声で続ける。
「市場で情報屋に酒を奢った。そいつが言うには、“魔力を帯びた古い鍵”を使って教団が実験をしてるらしい」
「でも……」
リリィが唇を噛む。
「その人、急に現れたリザードマンに殺されちゃった。残ってた連中も襲ってきて……」
「派手にやり合ったが、それ以上の情報は掴めなかった」
俺は苦々しく吐き捨てた。
重苦しい沈黙が広がる。
「じゃあ次は俺たちだ」
ジークが紫煙を吐きながら言う。
「裏酒場で“教団”を探ったら……精鋭部隊に囲まれた」
「十五人以上っすよ! でも!」
アイリが端末を叩き、にやりと笑う。
「わたしの能力が大活躍! 資金ルート三本、拠点候補二つ、さらに幹部の名――“ゲヘナガーディアン”!」
「へぇ……大収穫じゃねぇか」
俺は素直に頷いた。
「あの状況でよく生き残ったもんだ」
「ふっふ~ん♪ だから言ったでしょ?」
アイリが胸を張る。
「おい、忘れんなよ」
ジークが腰をさすりながら呻く。
「俺だって命削る勢いで戦ったんだ……腰にきてんだよ」
「はいはい、ジジイもよく頑張ったっすよ」
アイリが笑い、ジークが「言い方ァ!」と怒鳴る。
重苦しい空気が少しだけ和らいだ。
カゲロウの報告
カゲロウは黙って革装丁の資料束を机に置いた。
「……廃教会の地下で見つけた。召喚の痕跡、没になった計画記録。生贄、門の実験……そして“ゲヘナガーディアン”召喚の記録だ」
資料のページがめくられる音が、事務所に重く響く。
アイリが端末を広げ、資料と照らし合わせていく。
「資金ルート、拠点候補、廃教会の召喚痕跡……ぜんぶ繋がってるっす」
光の投影が空間に浮かび上がり、複数の線が絡み合い、最終的に一つの地点へと収束する。
「……でも、廃教会はもう使われてない。ただの過去の実験場っすね」
アイリが指で投影をなぞり、別の座標を示した。
「資金や人の流れは、うちらが拠点にしている――アルヴェリアの隣にある――ノクスヘイムの“大きな館”にすべて繋がってるっす」
俺は眉をひそめる。
「館……?」
カゲロウが低く呟いた。
「古い屋敷だ。表向きは空き家だが、裏で教団が動いている形跡がある」
ジークは紫煙を吐き、苦い顔をする。
「つまり……奴らは廃教会を捨てて、本格的に“館”を拠点にしてやがるってわけか」
「そして……“鍵”の実験も、次はそこで行われる」
アイリの声は確信を帯びていた。
俺は深く息を吐き、仲間を見渡した。
「……なるほどな。次の行き先は決まった。ノクスヘイム郊外の館だ」
冷え切った事務所に、その言葉だけが重く響いた。
壁の穴から吹き込む夜風すら、不気味な呼び声のように感じられた。