第三話
バタン、と事務所の扉が開いた。
入ってきたのは二人。
ひとりは無精髭に皺の刻まれた顔をした初老の男。
長いコートの裾を翻し、口元には煙草。
名前はジーク。この事務所で古株の情報屋だ。
「おう、戻ったぞ……って、なんだ。ガキまで増えて、保育園でも開くつもりか?」
ジークが煙を吐きながらニヤリと笑う。
「誰が保育園っすか! 役立たずのジジイは黙っててください!」
即座に噛みつくのはアイリだ。
「おいおい、役立たずはねぇだろ。俺が外で掴んでくる情報がなきゃ、お前ら三日で干上がるぜ?」
「はいはい、“俺のおかげ”出たー。数字に出ない自慢なんて意味ないっすよ」
「数字ばっか追ってると大事なもん見落とすぞ。現場は鼻で嗅ぐもんだ」
「うっさいっすねジジイは! 現場より管理してる私の方がよっぽど役立ってますから!」
二人はバチバチとやり合う。
本気というより、いつもの小競り合いだ。
オロオロして止めに入ろうとしたレオンを、俺は片手で制す。
「放っとけ。これが日常だ」
……ほんと、毎回うるせぇ。
そんな空気を割るように、ふわふわの髪を揺らした少女がひょこっと顔を出した。
眠たげな目に白いワンピース。柔らかい雰囲気をまとったリリィだ。
「ただいま~。あれ、新しい子?」
「え、あ、僕はレオンです」
おずおずと名乗ると、リリィはにこっと笑った。
「ふふ、よろしくね。かわいいなぁ」
「リリィちゃーん! こいつらの口喧嘩に付き合わされてストレスたまるんすよ、慰めてー!」
アイリが飛びつき、リリィはぽんぽんと頭を撫でる。
「はいはい、よしよし」
途端にアイリはとろけた顔になる。
……ほんと、この事務所のバランス取ってんのリリィだけだわ。
俺はため息をつき、ハンチングを深くかぶり直す。
「さて。茶番はそこまでだ。問題は――盗まれた“鍵”をどうするか、だ」
ジークが煙草をくゆらせ、不敵に笑った。
「ようやく面白くなってきたな。……鍵の件なら、もう掴んでる」
「……お?」
思わず眉を上げる。アイリもリリィも顔を上げ、レオンなんかは「えっ!?」と声を漏らして固まっていた。
ジークは煙を吐き出しながら続ける。
「港の倉庫で“鍵の器”って単語を聞いた。酒場の女給が漏らした話だが、裏は俺が取った。狙ってる連中は一つじゃねぇ。特に白スーツに黒仮面の奴ら――“深層教団”って呼ばれてるカルトだ。境界に潜っては“異常”を漁る厄介者どもさ」
空気が一気に引き締まる。やっぱりな。あの仮面野郎、ただのチンピラじゃねぇと思ってた。
「で、もう一つ」ジークは指を二本立てる。
「その“鍵”を盗んだのは、裏通り《鼬街》で名を売ってる小娘――ミリアだ」
「……!」
レオンの顔が強張る。誰なのか、心当たりがあるんだろう。
「さすがだな、ジーク」
俺は素直に親指を立てた。
「話が早ぇ。助かるぜ」
「もっと褒めてもいいんだぞ?」
ジークがにやりと笑い、横目でアイリをちらり。
「な? 役に立たねぇなんて言ったのは誰だったかな」
「ぐぬぬ……! こ、今回はたまたま当たり引いただけっすよ!」
アイリがぷくっと頬を膨らませる。
「はっ、素直じゃねぇな」
ジークは得意げに煙を吐き出した。
「まあまあ」
俺は肩をすくめ、軽くアイリの頭をぽんと叩く。
「アイリがいなきゃ事務所も回んねぇ。ジークが動けるのもお前のおかげだ」
「そーだよ、アイリちゃんは頑張ってるよ~」
リリィが抱きつき、頬をすり寄せる。
「えへへ、いい子いい子」
「や、やめるっすリリィちゃん! 子供扱いすんなぁ!」
アイリは顔を真っ赤にしながら抵抗するが、されるがまま。
……ほんと、この二人は癒しだ。
俺は軽く咳払いして、場をまとめ直す。
机に地図を広げ、指で赤丸をつけた。
「状況を整理する。
一、“深層教団”は鍵を狙ってる。正体不明だが、異常を集める危険な連中だ。
二、鍵を盗んだのは鼬街の盗人ミリア。裏通りに顔が利くらしい。
三、レオンを利用する可能性もある。だから当面は鍵の奪還とレオンの安全確保が最優先だ」
全員が真剣な顔で頷く。レオンも唇を固く結び、拳をぎゅっと握り直した。
「で、動き方だ」
俺は地図に赤ペンで印をつける。
「ジークは鼬街を当たれ。《三日月堂》の質屋から回れ。盗人は必ずそこを経由してる」
「任せろ」ジークが短く答える。
「アイリは教団絡みの帳簿や依頼を洗え。資金源に足がかりがあるはずだ」
「了解っす」アイリは端末を叩き始めた。
「リリィはレオンのフォローだ。まだ馴染めてねぇし、メンタルケアも頼む」
「はーい、任せてねレオンくん」
リリィが笑いかけ、レオンは小さく「ありがとうございます」と頭を下げた。
「……そして俺は、直接動く」
ハンチングを深くかぶり直し、口の端を上げる。
「ミリアを捕まえて、鍵を取り返す」
沈黙。全員の視線が集まる。
「戦う気か?」とジーク。
「また無茶するっすね」とアイリ。
「ボスっぽーい」とリリィ。
レオンの瞳には、不安だけじゃなく、小さな覚悟の光も宿っていた。
「……さて。面倒くせぇことになってきたな」
俺は天井を見上げて吐き出した。
会議が一段落したそのとき、リリィが首をかしげた。
「そういえば……あれ? カゲロウさん、まだ帰ってきてないんですねー」
一瞬、空気が止まる。アイリが椅子をガタッと鳴らして立ち上がった。
「ちょ、ちょっとリリィちゃん! なんで今、その名前出すんすか!?」
「だって、気になったから」
リリィは無邪気に笑う。
「すっごく強いし、頼りになる人だもん。いてくれたら安心かなーって」
「安心!? 冗談じゃないっす! あの人の隣にいるだけで背筋ゾワゾワするんすよ! 目ぇ合っただけで三日は夢に出たんすからね!?」
アイリが全力でぶんぶん手を振る。
「お前が小心なだけだ」
ジークが肩をすくめる。
「確かに異様だが、裏を任せられるのはあいつしかいねぇ」
「……カゲロウは“動く時”が決まってる」
俺も言葉を継ぐ。
「俺たちじゃ手に負えねぇ大事になったとき――あいつは必ず現れる」
「や、やめてくださいよボス……! 夜道で会ったら寿命縮むんすから!」
アイリが耳を塞ぎながら抗議する。
「ふふ。私は安心するけどなぁ」
リリィは頬に指を当て、のほほんと笑う。
ジークは苦笑し、灰皿に煙草を押し付けた。
レオンは黙って聞いていた。
強いのか、怖いのか、頼りになるのか――ただ、その名が特別な意味を持つことだけは理解できた。
俺はキャップを押し下げて呟く。
「……まあ、しばらくは帰ってこねぇ。
あいつが戻るとしたら――依頼が終わった時か、どうにも遂行できなくなった時だ」
重い沈黙が落ち、全員が無意識に息を呑んだ。
やがて俺は立ち上がり、空気を切り替えるように手を叩く。
「さて、鼬街だ。三日月堂の札“17番”。そこから引き剥がすぞ」
その言葉を合図に、組織は再び動き出した。
◇
境界の街から遠く離れた裏路地。
月明かりすら届かぬ闇に、人影がひとつ。
「……やはり、教団だけじゃないな」
低く湿った声。
足元には倒れ伏す裏組織の男たち。呻き声も上げられず、影に呑まれて消えていく。
仮面の破片を拾い上げたカゲロウは、指を払って血の痕跡ごと闇に沈めた。
「“祈りの刻印”……本流が動いてやがる」
一瞬、空を仰ぎ、瞳にかすかな光を宿す。
「このままじゃ騒ぎは広がる一方だな……」
コートの裾を翻し、闇に溶ける前に低く呟いた。
「……一度、組織に戻るか」
◇
その頃、事務所にはまだアイリとリリィの笑い声が響いていた。
彼らの知らぬところで、もう一人の古株は確かに動き続けていた――。