第三十三話
◆ヴォルドとネフィラト
拳が、夜を殴っていた。
焼け落ちた塔の麓で、竜人ヴォルドと巨躯ネフィラトの殴り合いが続く。
一発ごとに石畳がたわみ、火花が飛び、息づかいすら衝撃に呑まれて千切れていく。
どちらも一歩も引かない。殴るために踏み出し、殴られてなお踏み込む。
だが、均衡は――崩れかけていた。
ネフィラトの拳は“呪い”だった。
触れた箇所から黒い細線が鱗の下へ滲み、ヴォルドの筋肉からじわじわと力を奪う。
血が重くなる。関節が急に他人のものみたいに軋む。
「……畜生。力が入らなくなってきたぞ。これも拳に込められた呪いのせいか……」
低く吐いた直後、ネフィラトの拳が重雷のように落ちる。
腹に鈍い爆ぜが走り、ヴォルドは片膝を地に突いた。砂と瓦礫が音を立てる。
「どうした、竜族よ。貴様の力はこの程度か」
仮面の三つの口が重なって嗤う。
ヴォルドは唇の端を釣り上げ、皮肉まじりに鼻で笑った。
「拳自体は大したことはねぇな。……だが、その呪いの力は強い」
「我が拳に宿るは、ただの呪いにあらず。“不倶戴天の意思”といったであろう」
「……ふん。だが、効果がわかってきた。まず一つ。――“相手から力を奪い、それを自分のものとして拳に乗せて返す”」
ネフィラトの肩がわずかに揺れた。
「……ほう。ただの馬鹿力ではなかったか」
「もう一つ。お前には癖がある。殴るときは“右上の腕と左下の腕”。防ぐときは“右下の腕と左上の腕”。……腕ごとに役割が違うんだろ。殴り返す腕は奪った力の返礼、防ぐ腕は触れた生命力を吸い取る。違うか?」
巨人は黙った。三つの仮面の目孔が細くなる。
ヴォルドは肩をぐるぐると回し、立ち上がる。
「無駄話してる間に、体力が回復したぜ」
踏み込んだ。
今度のヴォルドは違った。
正面からぶつけるだけの“竜の喧嘩”ではない。
肩の力を抜き、足裏で小刻みに重心を刻み、半身で角度をずらしながら――格闘術の構えで流し、刺す。
ネフィラトの“右上”が振り上がる瞬間、ヴォルドは半歩潜る。
“左下”が走る肘の軌道を、手首で払って空に泳がせる。
そして、空いた胴を――竜の肘で叩き割る。
肋骨が鳴る。
仮面の一つがガキンとひびを走らせた。
「……ッ!」
攻守の切り替えのたびに、巨人の腕がわずかに遅れる。
奪う腕を振り上げた瞬間に空を打たせ、吸う腕に触れる前に角度を潰す。
癖を“させられている”立場になったネフィラトは、じりじりと押され始めた。
ヴォルドは殴りながら、冷静に結論を積む。
(特定の腕で殴れば相手の力を奪って返せる。防げば触れた命を吸い取る。――だが、まだ何か隠してやがる。慎重にいく)
カコン、と仮面が噛み合う鈍い音。
ネフィラトの全身から苛立ちが滲む。
「……我は、世界への不倶戴天の意思そのものなり」
その声と共に――世界の温度が一段、下がった。
背中が裂け、黒い翼が破裂するように生える。
巨躯全体が漆黒に沈み、皮膚の下に青白い古代文字が線となって浮かび上がる。
仮面の三面が微かに重なり、低い呟きは“言葉”の形を崩した。
「……ワレ、セカイヲ、ニクムモノ。……トカゲヨ。……ワレヲ、コノスガタ二、シタノハ……キサマが、ハジメてダ」
次の瞬間――視界から消えた。
「ッ――!」
ネフィラトの拳が胸板にめり込み、ヴォルドの巨躯が数十メートル、地面を転がる。
砂煙。地面が波打ち、瓦礫が跳ねる。
先ほどまでの重い一撃とは次元が違う。速度と圧が桁違いだ。
(……速ぇ。重ぇ。……この圧、あいつと張れるレベル――)
口の内に鉄の味が広がる。
ヴォルドは立ち上がりながら、目を細めた。
(間違いなくトウマ級。執行者の中でも、こいつがトップかもしれねぇ)
黒翼がはためき、青白い文字がさらに濃く輝く。
四本の腕が同時に構え――規則が壊れた。
先の“腕の役割”が、もう通用しない。すべての腕が、奪い、吸い、呪う。
「……チッ」
ヴォルドは舌打ちした。
次の瞬間、四方からの拳が同時に襲いかかる。
防御も、回避も追いつかない。
鋼鉄のような腕が背を叩き、骨を軋ませる。
黒い呪炎が傷口から侵入し、鱗の隙間で肉が焦げる。
地面を転がり、石畳を割って止まる。
息をするたび、胸が裂けるように痛んだ。
それでも、ヴォルドは拳を地につけ、ゆっくりと立ち上がる。
全身から湯気のような黒煙が立ち上る。
竜血が煮えたぎっていた。
ネフィラトの仮面が見下ろす。
「……キサマニ、ノコサレテイル、チカラハ……ナイナ」
その声は、断罪のように冷たい。
だが、ヴォルドの目はまだ死んでいなかった。
赤黒い竜眼が、夜の闇よりも濃い光を宿している。
血に濡れた唇がわずかに動く。
その声は、誰にも聞こえないほどの呟きだった。
「……お前に禁止されてたが.....許せよ、トウマ。龍脈解放。」
ヴォルドの足元で、地が鳴った。
瞬間――世界が“息を呑む”。
轟音。
足元の石が爆ぜ、地中から赤黒い竜脈が走り抜ける。
空気が逆流し、空そのものが竜の咆哮を上げた。
光が爆ぜる。
皮膚が鱗に変わり、鱗が鎧に変わる。
その体は倍近くに膨張し、筋肉は鋼より硬く、
血管には灼熱の炎が流れていた。
黒曜石のような鱗が全身を覆い、
背から吹き上がる竜脈の蒸気が、まるでマントのようにたなびく。
青かった髪は長く伸び、赤黒い光を反射して揺れた。
その姿は――竜を宿した鬼神。
もはや“人の形”の範疇ではなかった。
言葉はない。
だが、その存在そのものが“圧”だった。
ネフィラトの仮面がわずかに震える。
「……ナンダ、コノ……」
次の瞬間、ヴォルドが動いた。
空気が千切れた。
視界から消え、音が置き去りにされる。
“風を裂く”のではない、“風そのものを爆ぜさせる”速さ。
ネフィラトの巨体が跳ね上がる。
拳が腹を貫いた――と思った時には、すでに吹き飛ばされていた。
巨人の足が地を離れ、岩壁に激突。
爆発のような衝撃が街を揺らす。
ネフィラトの口から濁った息が漏れ、仮面がきしむ。
ヴォルドは一言も発さない。
ただ、無言で踏み込む。
一歩ごとに地面が沈み、轍が刻まれる。
目に見えぬ気圧が押し寄せ、空気が悲鳴を上げる。
黒と赤。
翼と鱗。
巨人と竜が、再びぶつかる。
殴打。
殴打。
殴打。
一秒に数十、いや数百発。
空間が軋み、建物が一瞬で崩壊する。
拳の衝突で生じた衝撃波が、瓦礫を吹き飛ばし、
周囲の炎を巻き上げて巨大な竜巻を作り出す。
誰も――この戦いを見届けることなどできない。
拳が唸るたびに、ネフィラトの巨体が沈む。
四本の腕が動くたびに、呪いが放たれる。
だが、ヴォルドの鱗には効かない。
呪いが触れた瞬間、逆に“焼かれて消える”。
竜脈の炎が、あらゆる理を燃やしていた。
ヴォルドは無言のまま、さらに拳を重ねる。
息すらしない。
もはや呼吸すら、戦闘のリズムに不要だった。
ネフィラトが押される。
殴られるたびに仮面が砕け、古代文字が途切れて消える。
ついには、膝をついた。
「……バ、カナ。呪イガ……キカナイ……」
ヴォルドの拳が、最後の一撃を叩き込む。
仮面が割れ、火花が散る。
夜空を裂くような閃光が、辺りを包んだ。
――そして。
動きが止まった。
ネフィラトの体が、震える。
胸の奥で何かを聞いたかのように、顔を上げた。
その声は、誰かの命令のように冷たく響いた。
「……戻レ」
空間がひび割れ、黒い裂け目が開く。
冷気が吹き荒れ、ネフィラトの巨体が分解されていく。
闇が形を取り戻し、呑み込むように彼を包む。
ヴォルドは無言のまま拳を構える。
だが、その拳が振り抜かれるより早く――
ネフィラトの姿は、掻き消えた。
拳が空を裂き、地面へ叩きつけられる。
――轟。
世界が揺れた。
城壁が軋み、瓦礫が宙に舞い、街の灯がすべて震える。
その一撃は、まるで大地の心臓を殴ったかのようだった。
瓦礫の上に、ただひとり。
ヴォルドは沈黙のまま立っていた。
全身から噴き出す竜脈の光が制御不能に暴れ、
地面を焦がし、空気を焼いていく。
黒い蒸気が尾のように揺れ、
その瞳はすでに“敵”だけを探していた。
東の空。
――“対策本部”のある方角。
ヴォルドはゆっくりと顔を上げる。
呼吸も言葉もなく。
ただ、その存在そのものが怒りの化身だった。
抑えきれぬ竜の力は、
次の敵を求めて、夜を裂いていく。
沈黙のまま、巨体が動いた。
地を砕く足音だけが、夜空に響く。
その拳に宿るのは――竜の誇りか、破滅か。
誰も、まだ知らなかった。




