第三十一話
◆カゲロウとベルファルス
黒い影が地を這う。
カゲロウの足元から広がった闇が、一斉に鋭い棘となって突き上がった。
石畳を粉砕し、黒槍の群れが白スーツの男――ベルファルスを串刺しにしようと襲いかかる。
だが。
「……おっと」
軽やかな声。
ベルファルスの身体はふわりと傾き、次の瞬間には棘の雨をすり抜けていた。
最初から“実体がなかった”かのように。髪の毛一本すら掠らない回避。
カゲロウの瞳が細くなる。
(ただの回避じゃない。動作の“重み”がない……人間の動きじゃない)
すぐに次の影を展開。
無数の蛇と化した闇が地を這い、壁を駆け、鋭く分岐してベルファルスを囲い込む。
(影は単純――具現化、変形、操作。見破られれば脆い。長期戦は不利、短期決着だ。
……戦闘特化ではないが、隙がない。戦況をひっくり返す“何か”を持っている)
「おやおや? 考え事ですか?」
帽子を傾け、仮面の目が煌めく。
「実はね――私は目から光線を出せるのです」
――ヴァシュッ!
言葉と同時に仮面の目から閃光。
咄嗟に身を捻ったカゲロウの頬をかすめ、石壁が焼き裂かれる。
熱が皮膚を焦がし、血が滴った。
(直撃なら危なかった……だが、なぜ“言ってから”撃つ? 余興か、それとも――)
ベルファルスは楽しげに肩を揺らす。
「あなたの影って素晴らしい。実体化できるなんて、当たれば身体が貫かれそうだ」
カゲロウは言葉を断ち、即座に黒刃を伸ばす。
相手の足元――ベルファルスの影を深々と貫いた。
だが。
「え……?」
確かに突き刺さったはずの感触が、霧のように消えた。
刺したのは“ただの影”。本体には一切の傷がない。
(無効化……? いや、手応えはあった。触れた途端に“無”へ化けた)
仮面越しに嗤う声。
「ふふ……不思議でしょう? 当たったはずなのに、何も起きない」
カゲロウの思考が加速する。
(光線は“言ってから”発動。影への打ち込みも、“効かない”と口にした後に霧散……。
――すべて“発言”を媒介に現象が決定されている)
赤い瞳に光。
(発言による事象操作。言葉を口にした瞬間、事象がねじ曲がる。戦闘特化ではないが、戦況を覆す“最悪の力”)
ベルファルスの仮面がわずかに揺れる。
「……気づきましたね、影の殺し屋さん。あなたの殺意は立派ですが――私の“言葉”には届かない」
カゲロウの口角が僅かに吊り上がる。
「言葉で現実を変える、か。なら――その舌ごと影で喰い破ってやる」
数十の黒刃が同時に地を割り、ベルファルスを取り囲む。
影と仮面――探り合いが本格的に幕を開けた。
黒の群れが足元を中心に渦を巻き、刃と化した影が十数条の線を描いて突き上がる。
ベルファルスは逃げない。いや、逃げる必要がなかった。
「当たらない」
その一言だけで黒刃の軌道が歪む。
喉元を貫くはずの影が弾かれるように逸れて地を抉り、衝撃は砂煙と化して消えた。
(言葉が術式の代わり……)
カゲロウは即座に思考を切り替え、影を潜らせる。
仮面が愉快そうに傾く。
「……あなたの冷静さ、嫌いじゃありませんよ」
「黙れ」
短い返し。声の奥には確信。
(三秒の間。発言から次の“干渉”まで隙がある)
腰を落とし、棘を再構築。
地を這う黒がゆらめき、再び蛇の姿で狙いを定める。
(クールタイムは三秒。十メートルが範囲。――その隙を突く)
「……試してみるか」
影が真下から伸び上がる。ベルファルスの影を狙う正確無比の一撃。
「私は速い」
言葉と同時に姿が掻き消え、数メートル離れて再出現。
(範囲も十……外では干渉が鈍る。使える)
影が背後へ回り込む。狙いは“次の発言の瞬間”。
だが、先んじて言葉が落ちる。
「あなたは――私の背後に現れる」
無意識に脚がその通りに動く。
体が、相手の言葉へ従い“背後へ回る”という行動を完遂してしまう。
即座に距離を取る。額に冷汗。
(発言が命令として成立……一方的に“現実”を実行できる)
「私が言えば――それが世界の正解になるんです」
「この程度で、世界を支配した気になるな」
影が地面を飲み込み、壁と天へ槍と鎖が同時に生成される。
「逃げ場はない。喋る隙も与えん」
黒の嵐がベルファルスを呑み込む――
爆風。
地表が抉れ、煙が晴れる。
「……“私は無傷だ”。」
静かな声。
白スーツも仮面も乱れず、先ほどよりも圧が濃い。
(真実を嘘に、嘘を真実に――“定義”を書き換える。理屈上、どんな攻撃も成立しない)
カゲロウは舌打ち。(厄介極まりない。……だが、欠点も見えた)
仮面が傾く。
「ふふ、いい顔です。気づき始めている」
影が微かに動く――三秒の隙を狩る本能が。
瓦礫が崩れる音だけが遠く。静まり返る戦場に二人。
白スーツは守られている。世界が「言葉」によって護持されているかのようだ。
(条件は掴んだ。三秒、十メートル、発言で確定。
――なら“喋らせない”)
影が蠢き、ベルファルスの足元から黒槍が立ち上がる。
仮面の首を刎ねる寸前――
「“私は――死なない”。」
一言が定義を上書きする。
黒槍が触れた瞬間、彼の身体は霞のように透過し、無傷のまま立っていた。
(わかっていた……“言う前に”仕留めるしかないのに!)
仮面が傾く。
「あなたは本当に頭が切れる。――ですが、そろそろ飽きました。理解されるのは少し屈辱でして」
ゆっくり両手を広げ、仮面に亀裂。内側から暗い瘴気。
「この能力、暴かれた時こそ輪郭が完成する」
(能力形態が変わる――暴かれること自体が発動条件!)
「いいですか。ここからは、少しルールを変えましょう」
空気が震え、空が歪む。音も風も時間も淀む。
「“真実は真実のままに。嘘も真実になる”」
地面の影陣が反転し、物理法則が別の定義で再構築されていく。
「“カゲロウは縛られた”」
空気が歪み、実体ある“言葉の鎖”が身体を締め上げる。
「……ぐっ……!」(命令の具現化だ)
「“カゲロウは切られた”」
胸に深い裂傷。息が詰まる。
彼は一歩も動かず、ただ言葉を紡ぐだけ――そのたび世界が従う。
「素晴らしい静寂。私の言葉一つで、奇跡のように形が変わる」
カゲロウは歯を食いしばり影を暴れさせ、鎖を引き裂く。
(“反転”ではない。真実も嘘も関係ない。言葉そのものが現実を創る。発動は速い――このままでは押し切られる)
「下手な言葉は禁物ですよ。吐けば、それすら“現実”になります」
「神にでもなったつもりか」
「神? いえ――私は“定義”です」
周囲に文字の光が浮かび、螺旋を描く。
(これが第二形態。発言の定義固定。何を言っても、奴の言葉が優先される世界)
影を広げる――
「“影は私を避ける”」
地を覆う闇が左右に裂け、足元だけに光が差す。
(このままじゃ勝てない。逃げても意味がない。――突破口を見つける)
ベルファルスが嗤う。
「絶望の歪み――それが一番“真実味”がある」
影と声がぶつかる。
現実を書き換える“言葉”と、存在を喰らう“闇”が定義を削り合う。
鎖を断ち、カゲロウはゆっくり膝を起こす。
「……気づいた」
「ほう?」
「お前の“真実”は、言葉でしか存在できない。――発言できなければ世界は変わらない」
影が走る。
地を割る黒刃が音より速く空気を裂き、一本が舌先を絡めるように口を封じた。
「“……!”」
喉が圧迫され、言葉が出ない。紅い瞳が灼ける。
「沈黙した神は、ただの人形だ」
足元の影を侵食し縫い止め、棘がスーツを貫く。
黒い杭が次々と打ち込まれ、石畳ごと押し潰す。
「……っ、ぐ……!」
(やはり“声”が媒介。言語が途絶すれば定義は動かない)
さらに締め上げる。仮面の奥で鈍いひび割れ。
「終わりだ、ベルファルス」
仮面の奥の瞳がかすかに光る。
「……終わり? 確かに、“今の私”では届かないかもしれない。けれど――」
笑い声。
「“まだ私は、真の姿を見せていない”――と言ったら?」
空間が音を失い、次の呼吸で世界が反転。
背中が裂け、黒い羽が爆ぜる。
光ではない、闇の粒子。
文字と祈りと呪詛が絡まり合った“言葉の翼”。
空気が悲鳴を上げ、影の拘束は焼き切れ、黒の結晶片が霧散した。
「黒翼――解放」
「“カゲロウは吹き飛ばされた”」
言葉が現実を上書きし、爆発の衝撃でカゲロウは瓦礫ごと数十メートル弾き飛ぶ。
続けざまに声。
「“カゲロウの足は砕けた”」――右足に激痛。
「“影は消えた”」――地の闇が煙のように霧散する。
翼を広げた姿は、もはや人ではない。
「“発言制限”も“距離制限”も、すべて消えました。この翼の内では、私の言葉こそ唯一の現実」
狂気じみた笑み。
「もう“嘘”も“真実”も関係ありません。私の口が紡ぐ言葉が世界です」
血を流しながら拳を握り、カゲロウは震える身体で立つ。
「……たしかに、言葉は強いな。だがな、ベルファルス」
赤い眼が獣のように光る。
「言葉で定義できる“影”しか知らねぇのか?」
黒翼の圧に飲まれながらも、闇の底で影が蠢く。
背に黒が濃く溜まり、影が肉のように脈動、空気が震える。
(……まだだ。ここで終わるかよ)
瓦礫に黒い血が滴る。
ベルファルスが歩み寄り、処刑を告げる声を開く。
「終わりですよ、カゲロウさん。あなたの影も、もう“存在”しない」
その瞬間、瞳が赤く灼けた。
湿った空気が震え、石畳の隙間から黒が滲む。闇が息をする。
それはもはや魔導でも術でもない――存在そのものの“形”。
「……この気配は?」
黒が膨張し、輪郭が溶け、闇の中心で“赤い目”だけが燃える。
「久しぶりだ……この姿は」
低く、獣のような声。地を這う音そのものが恐怖を具現化する。
ベルファルスの心に一瞬、恐怖。
次の瞬間――消えた。
黒い残像だけが残り、視界の端で頬に裂傷。目で追えない。
音も存在もなく、ただ“影”が殺意を刻む。
「……馬鹿なっ!」
腕を振り上げるより早く黒い爪が裂き、血が舞い、黒翼の羽が散る。
空気が鳴るたび、瓦礫も石柱も建物も、影に呑まれて崩れ落ちる。
「“カゲロウは――止まった!”」
……止まらない。
黒い獣が目前に現れ腕を掴み上げる。圧だけで空気が震える。
仮面に初めて“ひび”。
(言葉が届かない? いや、届いている。だが――それを上書きする“影の本質”が……!)
闇の中から声。
「言葉で定義できる範囲の“影”しか知らねぇんだよ……お前は」
黒い拳が振り下ろされ、ベルファルスの身体が地面に叩きつけられる。
大地が陥没し、黒翼が千切れ飛ぶ。
「……っは、はは……やはり……素晴らしい……」
そのとき、ベルファルスの耳に微かな声。
――“もういい。撤退しろ”
深層教の教祖オルギアスの命。神経に直接届く冷たい響き。
表情が変わる。歪んだ笑みのまま、ゆっくり立ち上がる。
「……教祖様のご命令のようです。今日は、ここまでとしましょう」
「逃げる気か」
破損した仮面を押さえ、微笑む。
「“逃げる”――いい響きだ。次は、あなたの“影”を言葉で殺してみせますよ」
背後に赤黒い門。言葉の波が空間を裂き、姿を包む。
「また会いましょう、“影の殺し屋”――」
ベルファルスは闇に溶け、消えた。
黒に沈む街。息を荒げながら立つカゲロウだけが残る。
影が静かに収束し、闇がほどけて人の姿へ。汗と血が頬を伝う。
「……逃がしたか」
低い声。赤い眼がわずかに光を失い、夜風へと溶けた。




