第二十九話
◆トウマとアーク
夜空が割れた。
青い炎の洪水と、光を喰う闇が噛み合い、星の瞬きがひとつ、またひとつと消えていく。
空中で向かい合うのは二つの影――青炎の悪魔アークと、帽子の影に目を潜ませる男、トウマ。
「――殺す。」
トウマの声と同時に、空間が沈んだ。
見えない重力の刃が放射状に伸び、空を歪ませる。虚空に黒い指が走ったように、景色が数本の線で切り分けられる。
アークは身をひねり、青炎の尾を曳いて滑る。
指先から細い光線が伸び、絹糸のように真っ直ぐトウマを射抜いた。
ぱしん、と。
トウマはそれを掌で弾く。光線は軌道を逸れ、背後の城砦へ吸い込まれ――
――ゴゥゥゥゥゥゥン……!
遠くの山腹が白く溶け落ち、遅れて爆風が街路を撫でた。
アークが片目を細める。
「今のは、山を溶かすほどの威力なんだが……」
言い終える前に、トウマの輪郭が弾けた。
ひと呼吸を丸ごと削り取る突進。アークの視界に黒が走り――次の瞬間、顎を打ち抜かれていた。
青炎が散り、アークの身体が地面に叩きつけられる。石畳が蜂の巣状に割れ、粉塵が噴き上がった。
砂ぼこりの中から、アークはため息と共に立ち上がる。
唇の端から蒼い火が漏れた。
「今のは……かなり危ないな。もろで食らっていたら、どうなっていたか」
答えはない。
トウマは返事の代わりに、音を捨てた連撃を叩き込んだ。重力の爪が空を抉り、拳が空間の骨を鳴らす。
アークもまた、青炎で軌道を塗り替え、掌で衝撃を受け流し、時に炎槍で差し返す。
刹那の間合いが何度も反転し、そのたびに街が削れた。
「――本気を出さねば危ないな」
アークの声音が一段低く落ちた。
胸郭の奥で、鼓動と炎が重なる。青い火は脈動に同期し、視界の端まで青で満たす。
「イドの暴発」
名を告げた瞬間、青炎が内側から破裂した。
爆発ではない。衝動そのものが形を持ち、トウマを囲うように膨張する。目に見えない“吠え”が骨を震わせ、皮膚に焼け爛れの斑点が走った。
焦げた匂い。
しかし、トウマの表情は欠片も揺れない。立ったまま、ただ闇を纏う輪郭が微かに波打つ。
そして――焼けた皮膚は、淡い闇に撫でられるようにしてみるみる塞がっていった。
アークの口端がわずかに吊り上がる。
「少しは昔に戻ってきたな。その化け物染みた力」
応答はない。
トウマはただ、殺すためだけの速度で踏み込む。
青炎と闇が縺れ、拳と拳が、刃と刃が、音より先にぶつかる。
膠着――からの、わずかな傾き。アークの胴に重力が噛み、体勢が潰れる。
地へ。
叩き落とされる。
石が悲鳴を上げ、広場が皿のように凹む。
トウマは上段に闇を圧縮し、手刀に終端を宿す。
「……終いだ」
振り下ろ――れない。
不意に、空中に淡い光の文字列が現れた。
古い書式。算具のように等間で刻まれた記号が、風に乗らず、論理だけで流れていく。
トウマの掌に集められていた闇は、捉えどころを失い、ふっと霧散した。
彼は表情を変えず、小さく名を置く。
「……【Alpha】と【Omega】」
砂煙の中で、アークが肩を払った。青炎が即座に舞台を照らす。
「面白いだろ。古代論理魔術だ」
アークは指先で空に一本の線を引く。
記号が揃う。
【If】:この男の次の一撃は、踏みしめた足から起動する。
【Judge】:足場は空中、踏みしめは成立しない――偽。
【Alpha】――始まりの矯正、発動。
足場のない空中に、**“踏みしめの始まり”**が強制的に生じる。
トウマの重心が一瞬だけ矛盾し、力の流れがずれた。
そこへ、アークの青炎が鋭く差し込む。頬を掠め、闇が火花を散らした。
続けて、別の記号列が立ち上がる。
【If】:放たれた重力波の終わり方は減衰だ。
【Judge】:逃げ場のない直線軌道、障害はなし――真。
【Omega】――終点の確定、即至。
トウマの掌から伸びかけた見えない波は、途中を丸ごと捨てて“減衰後”だけを残した。
周囲の砂塵だけが静かに沈み、攻撃そのものは存在しなかったかのように消える。
アークが指を鳴らす。
「理屈が通っていれば、終わりは今に落ちてくる。通っていなければ、始まりが正される。単純だ」
トウマは一歩、踏み出す。
その足が空を掴む。
同じ記号が、今度は闇色で立ち上がった。
【If】:この青炎の光線は口腔から直線で始まる。
【Judge】:指先から噴出、軌道は蛇行――偽。
【Alpha】――始まりの矯正、発動。
アークの掌の付け根で、予定外の点火が起きた。
青炎が逆流し、手甲が爆ぜる。
アークが舌打ちする間に、トウマの膝が懐へ潜り込んだ。
青い火花。肋骨の数本が短く悲鳴を上げる。
アークが笑う。
「コピーか!貴様の十八番だったな!」
応える代わりに、トウマはもう一件、命題を置いた。
【If】:青炎の渦の終わり方は散逸。
【Judge】:柱状の上昇流、風場は乱れず――偽。
【Omega】――不発。
すかさずアークが被せる。
【If】:この闇圧の終わり方は逸れ。
【Judge】:足場なし、踏ん張りなし――真。
【Omega】――即至。
トウマの肘の角度が一瞬だけ鈍り、拳は耳元をかすめて空へ抜けた。
アークはその刹那に肩を差し込む。
体勢を入れ替え、青炎で逆袈裟を刻む。
闇と火。
命題と結論。
“筋の通った【If】”だけが、今に到着する。
均衡が……崩れ始めた。
アルファ/オメガの敷設で、アークは不利な盤面だけを片っ端から正し、終わらせていく。
トウマは読み、なぞり、奪い返す。だが、一瞬の真偽が、じわじわと差になる。
アークが肩で息をする。蒼い焔が紙のように薄く揺れた。
それでも笑みは消えない。
「いいね。理で殴り合うのは、久しぶりだ」
トウマは無言のまま、帽子の影を深くした。
闇が指に集まり、言葉が生まれる――
【If】:お前の青炎は、ここで止まる。
【Judge】:――
アークの瞳に、わずかな愉悦が灯る。
その【Judge】が下る前に、彼は先んじて命題を置いた。
【If】:この男の思考は最短で攻撃に結びつく。
【Judge】:これまでの行動様式――真。
【Omega】――即至。
トウマの手がわずかに止まった。
思考の終わりが先に来る。
攻撃の始まりは、まだだ。
青炎の槍が、黒い影の脇腹を掠めた。
速度は――決して落ちていない。けれど、流れはほんの少し、アークの方へ傾く。
砂塵が舞い、夜風が焦げた匂いを運ぶ。
空の向こうで、呪天使の羽音と剣戟の閃きがひどく遠く感じられた。
アークが囁く。
「続けよう。楽しいゲームだ」
トウマは応えない。
ただ、闇の中で目だけが細く、細く光った。
次の命題が、音もなく立つ。
論理魔術が火花を散らし、空に古代文字が走る。
「【Alpha】」「【Omega】」――始点と終点を縛る二重の鎖。
その鎖が、互いの攻撃の軌道をねじ曲げ、ぶつかるたびに光と炎が断裂する。
しかし、均衡は崩れ始めていた。
アークの青炎がさらに鋭く研ぎ澄まされ、トウマを押し始める。
重力の奔流も、黒い闇の槍も、青炎の波濤に飲み込まれ、押し返される。
――だが、トウマの顔色は一切変わらない。
静かに、片手を掲げた。
詠唱も構えもない。
ただ指先が宙をなぞる。
その瞬間、空に浮かんでいた古代文字の列が、
ブツリと切断される。
「……っ!?」
アークの青炎が揺らぎ、走っていた論理の鎖が砂のように崩れて落ちた。
始点も終点も、【If】も帰結も――定義そのものが喪失する。
トウマは無言。
ただ、歩を進める。
瞳の奥には、光も闇もなく、ただ“殺意”だけが滲んでいた。
アークは、一瞬だけ目を見開く。
だが次には――狂気の笑いを爆ぜさせた。
「……ほう。まさか……!
ロストマジックを――お前が使うとはな……!」
笑みがさらに歪む。
炎が青から白に近い輝きへと変貌し、空気が爆ぜる。
「クク……クハハハハッ!!!
いい……いいぞトウマァァ!!
法則を、理を、定義そのものを奪う魔法……!
この世に数ある異能の中でも、最も忌まわしく、最も愛おしい……!」
狂喜に燃える声が夜を震わせる。
その姿は歓喜に酔う獣のようで、同時に底知れぬ悪魔のようでもあった。
――ロストマジック。
失われた大いなる術。
世界の根幹を定義する力を、一時的に消し去る、消失の系譜。
アークは炎を噴き上げる。
トウマは闇を纏い、黙して進む。
二人の間で空間が歪み、夜空が震える。
次の衝突が、街を根こそぎ呑み込むのは誰の目にも明らかだった。
アークの青炎が奔流となって夜空を覆う。
街を呑み込むその熱量は、山をも溶かすと自負する一撃だった。
だが――トウマは動かない。
闇の瞳が静かに細まり、ただ右手をゆっくりと掲げる。
「…………」
次の瞬間、
空に 黒き円環 が浮かんだ。
光を喰らい、熱を呑み、重力の渦が圧を増していく。
それは日蝕のようでありながら――
決して光が戻ることのない、永遠の“蝕”。
ロスト・エクリプス。
アークの青炎が円環へと触れた刹那、
轟音もなく軌道が消え、炎は断ち切られる。
存在したはずの熱が、まるで“初めから無かった”かのように霧散していった。
「……っ!」
アークの顔に、初めて驚愕が走る。
次の瞬間、重力と消失の渦が逆流し、
アークの身体を 暴風のごとき力で吹き飛ばした。
大地が裂け、石畳が波打ち、城壁が一枚分まとめて弾け飛ぶ。
空に浮かんでいたはずのアークが、叩きつけられるように地表を砕き、青炎が散った。
「……ハ、ハハ……!」
砂煙の中で、アークの笑い声が響く。
押し潰され、焼けただれた体を引きずりながらも、炎の瞳は狂気に輝いていた。
「ロストマジックでの攻撃魔法……!
しかも“蝕”の概念にまで落とし込んでいるのか!
クク……クハハハッ!やはりだ……!
お前だけだ、トウマァ!
この俺を、ここまで震わせるのはッ!!」
狂喜に吠えるアークを前に、
トウマはなお無言。
闇の蝕を背に立ち、再び一歩を踏み出した。
「クク……クハハハッ!」
砂煙の中、アークはなお狂気の笑みを崩さなかった。
だがその瞳の奥に、不意に別の光が宿る。
――脳裏に声が響く。
冷たく、凍りつくような声音。
≪アーク。遊戯は終わりだ。帰還せよ≫
「……チッ」
アークは片眉をひそめ、肩を竦めた。
「……ちょうど楽しくなってきたところだというのに。
申し訳ないな、トウマ。ここで失礼する」
炎をたたえた眼差しが、名残惜しげに細められる。
「待て」
トウマの声は低く、冷え切っていた。
帽子の影から覗く瞳には、もはや光も闇もなく――ただ、逃がさぬという殺意のみ。
「逃がすと思うか」
「……ならば――これを受け止めてみろ」
アークの両腕が大きく広がった。
次の瞬間、空が裂ける。
蒼炎の奔流が一点に収束し、青白い太陽のような球体が膨れ上がっていく。
圧縮される熱と光。
周囲の兵士たちが遠くで悲鳴を上げ、結界の光が震えた。
直感した――これは、国一つを消し飛ばす規模の破壊。
アークの口元が歪む。
「――アトミックノヴァ」
低く呟いた瞬間、圧縮された炎が破裂しようとした。
トウマは即座に跳躍し、両腕をその光塊へと突き出す。
闇と重力を絡め取り、己の全身で押し込む。
「……ッ……!」
すべてが焼けた。
皮膚が爛れ、肉が裂け、骨が軋む。
肺は潰れ、血が逆流しそうになる。
それでも彼は表情を変えず、ただ押し返した。
世界が蒼白に染まり、轟音がすべてをかき消す。
大地は陥没し、空は裂け、時間すら止まったかのよう。
だが――爆発は拡散せず、ひとつの塊のまま、
トウマの腕に、胸に、全てを押し込まれていく。
闇が太陽を覆い隠し、やがて光は揺らぎ、虚無へと霧散した。
砂塵と余熱の中。
アークの姿は、すでに空から消えていた。
トウマは限界を悟ったようにその場へ倒れ込んだ。
全身の筋肉は痙攣し、焼け爛れた皮膚からは血がにじむ。
服も帽子も跡形もなく焼き切れ、ただ焦げた布切れが身体に張り付いているだけ。
「……さすがに……厳しいな」
吐息と共に、かすれた声が夜に溶けて消える。
大の字に寝そべり、腕も足も投げ出す。
星空が視界いっぱいに広がり、彼は肩を震わせて笑った。
「……久しぶりに……力を使いすぎた……体が……言うことを聞かねぇ」
胸が上下するたび、焼け焦げた衣服の残骸がぱらりと剥がれ落ちる。
それでも瞳の奥には、闇の中にかすかな光が残っていた。
そのまま、トウマは大地に身を預け、動かなくなった。
第二十九話をご愛読していただき、ありがとうございます。
数日外に出ていた為、投稿が遅れてしましました。
すみません。




