第二十七話
――轟音。
緊急対策本部の石壁が震え、卓上の羊皮紙が宙に跳ねた。
ただの衝撃ではない。外から流れ込んできたのは、獣の唸りを何千倍にも凝縮したような、圧倒的な「殺気」。
呼吸を忘れさせるほど濃厚な敵意が、結界の内側にすら滲み込んでくる。
「……ッな、なんすか、この圧は……!」
アイリが端末を抱きしめ、声を震わせる。
「外へ!」
ルキウスが鋼のように声を放ち、一同は結界を抜けて広場へ飛び出した。
夜空を見上げた瞬間、全員の足が止まった。
蒼白の炎が渦を巻き、街の残骸を照らしている。
炎の核に立つ影――白衣を纏い、体中を青い火で覆った悪魔。
「……アーク」
トウマが低く呟いた。
青炎が、夜の空を白昼のように照らす。空気そのものが焼け爛れ、肌を刺す。
だが視線は、すぐに隣へ吸い寄せられる。
「アークは俺が」
トウマが静かに告げた。
「女は私が相手をする」
ルキウスが即答し、鎧の脚甲を煌めかせて飛び上がる。
次の瞬間、二人の姿は夜空へ舞った。
青と黒の狭間に、二つの光点が向かい合う。
そこに浮かぶのは、漆黒のドレスを纏う女。
長い裾が風に揺れるたび、黒布が羽衣のように広がる。
ヴェールに隠された顔は判別できない。
しかし――ただ立っているだけで、兵も市民も膝を折り、喉を押さえてうずくまった。
「……な、何だ……アークより……重い……?」
ジークが歯噛みする。
肌を貫く冷気。あの女から放たれる“圧”は、アークの炎をも凌駕していた。
全員の心臓が同時に軋んだ。
理解を超えた恐怖。存在そのものが拒絶感を呼ぶ。
アークは空に悠然と浮かび、青炎を身にまとって微動だにしない。
トウマも同じ高さで重力を無視し、帽子の影から鋭い瞳を覗かせた。
二人の間に走る距離、わずか数十メートル。
その空間だけが、張り詰めた糸のように静かだった。
「……何しに来た」
トウマが口火を切る。声は低く、だが怒気を含んでいる。
「聖女が消えたのも――お前らの仕業か?」
アークは炎の内で肩を竦め、愉快げに返す。
「聖女か。あぁ、今はこちらで“預かっている”」
「胸糞わりぃことしてくれるな」
トウマが歯を軋ませ、声を荒げる。
「あ?テメェは教団と組んで何がしてぇんだ」
「面白いことを、だ」
青炎が大きく揺らめき、アークの瞳が愉快に光る。
「……よし」
トウマは息を吐き、帽子のつばを押し上げた。
「お前とも長い付き合いだが――今日で終わりにしようぜ」
「簡単に終わらせられるかな?」
アークが炎を纏い、口の端を吊り上げる。
二人の気配がぶつかり合い、空気が一瞬で張り裂ける。
その直後、トウマの視線が横へ流れた。
三十メートルほど離れた位置――そこに、漆黒の女が浮かんでいた。
「……アイツは誰だ」
トウマが吐き捨てるように問うた。
アークはちらりと横目をやり、炎の奥でさらに愉快そうに口の端を歪める。
「ん?お前とは顔見知りだと聞いていたが?」
「……は?」
トウマが眉を寄せたその瞬間――
漆黒の女がこちらを振り向いた。
ヴェールの奥から、にこやかな笑み。
口元は異様に大きく裂け、瞳が月光を反射してぎらぎらと光る。
そして――手を振った。
「ボス~~~~!久しぶりっ!♡
ジークとボスに会いにきちゃった!」
その声音は、天真爛漫な少女のよう。
だが笑顔には一片の温かみもなく、ただ恐怖を植え付ける「歪み」しかなかった。
背筋に氷の刃が突き立つ。
全員が息を止めた。
「ゼル……ロゼ……?」
トウマの目が大きく見開かれた。
「やはり顔見知りだったか」
アークの声が、青い焔とともに夜空を裂いた。
炎はゆらりと踊り、空気が白く歪む。青い光が下界の瓦礫を冷たくなぞり、そこにあるものの色を抜き取っていく。
――だが、トウマの顔からは色が消えていた。
帽子の影の下、いつもの軽薄な笑みは消え去り、瞳孔が鋭く縮む。
黒目は陰に溶け、残されたのは細い光ではなく、底なしの闇の線。
まるで魂の縁が削ぎ落とされ、虚無そのものが目元に宿ったようだった。
息遣いが変わる。周囲の鼓動が一拍遅れて聞こえる。肌の下を、冷たい血が逆流するような感覚が走る。
空気は鉛のように重く沈み、時間の粒は黒い墨に落ちていくように凝縮されていく。
仲間たちの息も、無意識に走った背筋の震えも、すべてがトウマの眼差しに吸い込まれていった。
「――お前は邪魔だ」
声は低く、しかし刃のように切れ、場の音を一瞬で削ぎ落とす。
続く言葉には、氷の棘ではなく、暗黒の牙が潜んでいた。
「……殺す」
その言葉と同時に、世界が崩れ落ちる。
空気が一度に振動し、夜の静寂が破裂した。アークの青炎が鋭い音を立てて弾ける。
トウマの体からは、黒い靄が迸るように吹き出し、帽子の縁から垂れる影が一瞬で夜を濃く染め上げた。
闇と炎が接触した瞬間、音は金属が砕けるような断裂音に変わった。
衝撃は波紋となって周囲の瓦礫を吹き飛ばし、遠くの窓ガラスが一斉に砕け散る。
砂塵は黒煙に混ざり竜巻のように巻き上がり、空中を舞う紙片は漆黒の槍に変わったかのように鋭く煌めく。
炎の熱は皮膚を焼き、闇は呼吸を塞ぎ、両者の圧力が拮抗するその場は、生き物が立ち入ってはならぬ領域と化した。
二人の影は空に裂かれ、黒の奔流と青の焔が幾度も火花を散らす。
青炎は肉を炙る匂いを撒き散らし、闇の奔流は音もなく引力を捻じ曲げる。
衝突するたび、夜空は裂け、地面は呻き、誰もがその中心が世界の終端であると理解して震えるしかなかった。
「――来い」
トウマの唇が微かに動く。そこに宿ったのは笑いでも怒号でもない。
破滅の確信、そして奈落の宣告だった。
アークの瞳が細まり、青い焔がさらに鋭く尖る。
二つの存在が、互いの宇宙を潰すようにぶつかり合う。
空は炎と闇に呑まれ、叫びは遠ざかる――。
別の空域。
青炎と光がぶつかり合う轟音を背に、漆黒の女はゆるやかに宙を漂っていた。
裾の長いドレスが闇の中で揺れ、まるで夜そのものが彼女を抱いているようだった。
「……あーあ、ボス怒っちゃった。どっか行っちゃったじゃない」
女は肩をすくめ、唇をにたりと吊り上げる。
その声音は軽く、まるで幼子の駄々のよう。だがその場にいる誰もが、胸の奥を冷たい指で撫でられたような戦慄を覚えた。
その前に立ち塞がるのは、鎧を纏った巨躯――ルキウス。
彼の全身からは堅牢な意志と騎士道の気配が放たれている。
剣を抜き、鋼のような声で問いを叩きつけた。
「……貴様、何者だ」
女は小首を傾げ、頬を指でなぞりながら、わざと間を空ける。
そして、楽しげに、嘲るように口を開いた。
「んー……天使?かな?あははっ」
乾いた笑い声が、まるで金属を爪で引っ掻いたように耳に残る。
兵士たちは思わず耳を押さえ、背筋を丸めた。
「馬鹿にしているのか」
ルキウスの声は鋭く切り裂く。
「お前のような化け物が、天使なものか!」
漆黒の女はその言葉に、心底嬉しそうに両手を合わせた。
「じゃあ……“呪天使ゼルロゼ”って名乗ろうか?」
瞬間、背後の闇が裂けた。
呻き声とともに、翼を引き裂かれた天使の群れがにじみ出る。
血涙を流し、折れた羽を引きずり、絶望の声を重ねながら空を覆い尽くす。
さらにその奥。
軋む光輪がひとつ、二つ、やがて幾百にも重なり合い、巨大な虚像が姿を現した。
瘴気にまみれた羽音が響き渡り、空気そのものが震え、結界の光がきしむ。
その圧倒的な異形の群れに、兵も市民も一斉に膝を折った。
その中で――ただ一人、別の声が突き破った。
「……ゼルロゼ……?」
かすれた、信じられないものを見るような声。
振り向いたのはジークだった。
手にした煙草は落ち、震える指が空を指し示す。
「ゼルロゼ……だと!?ゼルロゼなのか!!!ゼルロゼ!!!!!」
声は掠れ、怒りと動揺と歓喜が混じった叫びに変わっていく。
その視線の先――漆黒の女は、くすりと笑って片手を振った。
「ジーク、久しぶりねぇ♡」
甘ったるい声音とにこやかな仕草。
本来なら懐かしさを覚えるはずの笑顔。
だがそこに滲むのは、底冷えするような不気味さだった。
ジークの胸が締め付けられる。
声が喉で詰まり、足が一歩も動かない。
ただ、言葉を失い、立ち尽くすしかなかった――。
ただ一人、ルキウスだけが剣を高く掲げた。
兜の奥の瞳は怒りに燃え、声が雷鳴のように轟いた。
「貴様を――断罪する!」
宣告と同時に、大気そのものが震えた。
ルキウスの掲げる剣が稲光を帯び、ゼルロゼの背後で呻く天使たちが一斉に嘶き声を上げる。
黒と白の瘴気が渦を巻き、空に裂け目を穿つ。
遠くでは、トウマとアークの衝突が嵐を呼び、城砦を削り取る音が轟いていた。
地上では、避難を急ぐ生存者たちの悲鳴が結界に跳ね返り、リリィの張った障壁がぎしぎしと軋む。
影に潜むカゲロウの気配が散り、ヴォルドとエリスの咆哮が戦場を揺らす。
夜空の下、あらゆる戦線が同時に火を噴き、戦場は――修羅そのものと化した。
だが、まだ誰も知らない。
この瞬間が、ルナリエ王国に刻まれる“終焉”の幕開けに過ぎないことを。
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