第二十話
◆鐘楼
崩れかけた鐘楼の最上階――。
月明かりに照らされ、ひび割れた石壁と、傾いた巨大な鐘が不気味に沈黙していた。
夜風が吹き込み、瓦礫が転がる音すら異様に大きく響く。
その静寂を破ったのは、乾いた「カン」という金属音だった。
視線を上げた瞬間、全員の息が止まる。
巨大な鐘の縁に――逆さに吊るされるように、一人の男がぶら下がっていた。
白塗りの仮面。道化を思わせる異形の笑み。
長い腕がぶらりと揺れ、足は糸の切れた人形のようにだらりと垂れ下がっている。
逆さにこちらを覗き込むその様子は、まるで闇に浮かぶ蜘蛛の巣に捕らえられた怪物のようだった。
「……誰だ」
カゲロウが低く呟き、瞳を細める。
逆さの道化は、喉の奥でくぐもった笑いを漏らした。
仮面の口元が、不気味に釣り上がる。
「カァァァン……」
指先が鐘の縁を弾く。
乾いた共鳴が塔内に走り、空気がひときわ冷たくなった。
「……俺の名を聞きたいか?」
逆さの姿勢のまま、ひょいと首を傾げる。
仮面の奥の視線が、ぞわりと肌を刺すほどの圧で突き刺さった。
「鳴鐘の道化 《マルコ・ジャレル》――」
月光に白く照らされた仮面が、不気味に光を反射する。
その名を告げる声音は、耳に張り付くように粘りつき、逃れられない。
「……教団に仕える執行者のひとり、さ」
その瞬間、場の空気が凍り付いた。
「執行者……!?」
アイリが声を震わせ、端末を取り落としそうになる。
青ざめた顔に冷や汗が浮かび、背筋が硬直した。
「ッ……!」
キアラは即座に短剣を抜き、戦闘態勢を取る。
普段は冷静な瞳が鋭く光り、敵意を隠そうともしなかった。
カインは舌打ちし、肩を竦める。
「チッ……よりによってここでバッタリかよ。噂には聞いてたが、実物とはな」
カゲロウは黙したまま、ただ影をじわりと広げていく。
その眼差しは、まるで長年狩り続けてきた獲物を前にした獣のように、研ぎ澄まされていた。
――執行者。
教団の名を冠する怪物の代名詞。
存在を知るだけで震え上がる者が大半の、選ばれし七人。
そのひとりが、目の前で鐘を弄ぶように佇んでいる。
鐘楼の最上階は、月光に晒された舞台だった。
そこに立つ道化は、紛れもなく――異能の怪物だった。
逆さのまま鐘の縁に立ち、マルコは愉快そうに仮面を傾けた。
「さて……挨拶も済んだし、舞台を始めようか」
その指先が再び鐘を叩く。
カァァァァァァン――!
空気が爆ぜた。
石壁がびりびりと震え、塔全体が悲鳴を上げるように軋む。
耳を貫く轟音に、四人の鼓膜は焼けるような痛みに襲われた。
「っぐ……耳が裂ける……!」
カインが思わず顔を歪め、壁際に跳ね退る。
「うわっ……視界が……!」
アイリは端末を抱え込んでよろめいた。画面が波打ち、情報が判別できない。
次の瞬間、床に黒い染みを落としていたカゲロウの影が、衝撃に弾かれるように散った。
「……影が押し返されるか」
彼は冷ややかに呟いた。
マルコは鐘の上で片足立ちになり、両腕を広げる。まるで舞台役者が観客を煽るように。
「ははっ!どうだ、心臓に突き刺さるだろう?音は刃となり、恐怖を刻むんだよ!」
再び鐘を叩く。
カァァァァァァン――!
轟音が奔流となって走り、床石がめくれ上がった。
カインが歯を食いしばり、声を荒げる。
「チッ……まるで音の防壁だ!こっちの攻撃が通らねぇ!」
カゲロウも影を伸ばそうとするが、音の波動に触れた瞬間に細かく裂かれ、霧散していく。
「……無理に踏み込めば、逆に切り裂かれる」
その間も、鐘は鳴り響き続ける。
残響は耳だけでなく、眼まで侵していった。
視界の端に、人影が二重三重に揺らめく。
「なっ……!?分身……いや、幻惑か!」
キアラが歯を食いしばる。剣先を向けても、敵の姿がゆらりと複数に重なり、狙いを定められない。
アイリが必死に端末を操作し、声を張り上げた。
「わ、わかったっす!あの鐘、ただの鐘じゃない!“魔術器”っす!マルコの音を増幅して、衝撃波と幻惑を一緒に撒き散らしてる!」
「なるほどな……」
カインが片目を細め、口角を吊り上げる。
「ってことは、あの鐘をぶっ壊すしかねぇってわけか!」
だがマルコは、白い仮面の下で嗤った。
「カァァァァァン……!正解だ。けど残念――お前らの力じゃ、この鐘は砕けない!」
鐘を両腕で抱き締め、狂気じみた笑い声と共に叩きつける。
カァァァァァァン――!
空間そのものが裂けるような衝撃が走った。
塔の壁が剥がれ落ち、床石が砕け散る。
衝撃波が弾丸のように四方へ飛び散り、避けきれずカインの肩をかすめた。
「ぐっ……!」
血が飛び散り、カインが呻く。
「カイン!」
アイリが叫ぶが、マルコはその声すら愉悦に変えるように嗤った。
「もっと響かせろ!絶望の悲鳴を!血の音を!」
鐘の余韻が止まらない。
幻惑はさらに強まり、四人の姿が霞み、仲間の位置すら判別できなくなっていった。
カインの姿が三人。
カゲロウの影が幾重にも伸び、床から天井まで黒く染まる。
アイリは霞のように透け、実体があるのかも判別できない。
「チッ……どれが本物だ……!」
カインは血を流しながら拳を振るうが、幻の一体を殴り抜け、逆に衝撃波に弾かれた。
「……影すら判別できん。狙いが定まらない」
カゲロウの槍影も波紋に弾かれ、霧散する。
アイリは必死に端末を叩きながら叫んだ。
「やばいっす……!視覚まで完全に狂わされてる……!」
塔全体が歪んだ鏡の迷路のように揺れ、敵も仲間も見分けがつかない。
その混沌のただ中で――。
ひとり、踏み出す影があった。
低く、鋭く。
獣が獲物に食らいつく直前のような構えで、幻惑の中を真っ直ぐに突き進む。
橙色の瞳が、闇の中でぎらりと光る。
「……っ!?」
マルコの仮面の奥の目が、わずかに見開かれた。
キアラだった。
彼女はすでに短剣を捨てていた。
両拳を握り締め、肩を低く落とし、足裏で床を強く踏みしめる。
幻惑に乱されぬ瞳。迷いのない一筋の刃のような気配。
「――ヴァルハラ式格闘術」
その声と共に、肉を裂く一撃が放たれた。
肘打ち。
鋭い一撃がマルコの仮面を直撃し、白い破片が宙に飛ぶ。
同時に踏み込み、腰を捻った回転蹴りが鐘楼の床を揺らし、石片を弾き飛ばした。
「ぐっ……!?な、何だその型は……!」
マルコの身体が仰け反り、鐘の上からバランスを崩す。
カインが目を剥いた。
「おいおい……動きが……ジークそのものじゃねぇか!」
カゲロウの瞳が細く光る。
「……いや、違う。模倣じゃない。ジークの面影を宿しながら……別の刃になっている」
アイリも端末を抱きしめたまま、声を震わせる。
「な、なにあれ……!人間業じゃないっす……!」
キアラは荒い息を吐きながら、血に濡れた拳をもう一度握り直した。
「……ジークに少しだけ教わった。でも――」
瞳に燃える橙光が、迷いなくマルコを射抜く。
「これは……私の型だ」
宣言と同時に、次の連撃が始まった。
床を蹴る音と同時に、嵐のような連撃がほとばしった。
「ヴァルハラ式格闘術――連鎖撃!」
拳がうなりを上げて突き出され、マルコの胸板を抉る。
続く肘打ちが鳩尾を潰し、膝が顎を撃ち抜く。
掌底が仮面を弾き飛ばし、回し蹴りが鐘楼の床石ごと相手を吹き飛ばす。
「ぐっ……がはっ……!」
マルコの口から血が飛び散り、白い仮面に赤い飛沫が飛ぶ。
鐘が鳴り、悲鳴のような残響が夜空に響き渡る。
カインが思わず息を呑んだ。
「おいおい……止まんねぇぞ、まるでジークが暴れてるみてぇだ……!」
カゲロウは目を細め、冷静にその光景を見つめる。
「……いや。ジークを超えてる。あれは模倣じゃない――新しい刃だ」
アイリは端末を抱き締めたまま、震える声を上げる。
「す、すご……!本気で粉砕してるっす……!」
キアラの身体は汗に濡れ、拳は血で裂けながらも止まらない。
打撃は寸分の迷いなく繋がり、間断なくマルコを打ち据え続けた。
ひとつの打撃が次の動作へと自然に移行し、まるで舞踏のように流れる。
「はぁっ……はぁっ……!」
キアラの吐息が熱を帯び、鐘楼の冷たい空気を揺らした。
「ぐ……っ……!」
仮面の奥でマルコの眼が揺らぐ。
体勢を崩され、鐘の上にしがみつく姿は、先ほどまでの余裕を欠いていた。
だが――。
「……ククッ……やるじゃないか、小娘……」
血の混じった笑い声が仮面の下から漏れる。
両腕で鐘を抱きしめると、その全身が赤黒い光を帯び始めた。
「だが残念だ……まだ終わっちゃいない!」
マルコの喉奥が震え、赤黒い共鳴が塔全体を揺らす。
鐘の縁に刻まれた呪紋が光り、残響が空気を裂き始めた。
「なっ……!?共鳴が増幅して……!」
アイリが端末を睨みつけ、青ざめた声を上げる。
「これまでの衝撃波とは桁違いっす!“最後の共鳴”……!」
塔の空気が震え、床石が浮き上がる。
幻惑がさらに強まり、世界そのものが崩壊していくかのように視界が歪む。
マルコは仮面の下で血を滴らせながら、狂気の笑みを浮かべた。
「これが俺の――本領だッ!」
鐘を抱き締めたマルコの全身が赤黒く脈動する。
呪紋が火花のように走り、塔そのものが鳴動した。
「はははッ!終わりだ!この鐘の響きでお前らの肉も骨も、粉々に砕け散れ!」
喉奥で震える声が空気を震わせ、鼓膜を破壊する寸前の轟音に変わっていく。
床石が浮かび、壁に走った亀裂から粉塵が噴き出す。
塔の外に広がる夜空さえ、歪んで揺らいで見えた。
「っ……来るぞ!」
カゲロウの声が鋭く響く。
マルコが鐘を振りかぶった、その瞬間――。
空気が爆ぜた。
誰も追えない速度で、ひとつの影が動いていた。
「――迅雷衝脚ッ!」
カインだ。
血で濡れた肩を無視し、足音すら残さず疾駆する。
次の瞬間、マルコの側頭部に渾身の拳が突き刺さった。
鈍い破砕音。
マルコの首が不自然に捻じ曲がり、鐘を抱いたまま宙に浮く。
「がはッ……!」
赤黒い共鳴の光が一瞬、途切れた。
その無防備な姿を逃すカゲロウではなかった。
「……影穿」
床から無数の黒槍が突き上がり、マルコの四肢を貫く。
肩、腹、腿、手首――影の杭が肉を裂き、鐘楼の壁に磔にした。
血が壁を汚し、鐘の縁に真紅の滴が伝う。
「ぐ……っ……!まだ……俺の音は……!」
血泡を吐きながら、マルコは喉を震わせる。
最後の力で声を刃に変えようと、口を大きく開いた。
だが――。
「――黙れ」
カゲロウの一言と共に、影が閃く。
刃となった黒が一直線に走り、マルコの頭部を貫いた。
同時に鐘そのものをも砕き、破片と血飛沫を撒き散らす。
カァァァン……と短く、鐘の残響が途切れた。
鐘楼に広がったのは、耳を塞ぐほどの轟音ではなく――圧倒的な沈黙だった。
仮面の破片と血の滴が床へと散り、鐘楼の石床に黒と赤の模様を描く。
マルコ・ジャレル。
“鳴鐘の道化”と呼ばれた執行者は、もう二度と音を響かせることはなかった。
鐘の破片が床に散らばり、鈍い音を立てて転がった。
夜風が吹き込み、先ほどまでの轟音が嘘のように、鐘楼は沈黙している。
キアラは肩で荒く息をつき、血で濡れた拳を見下ろした。
「……終わった、のか」
カインは負傷した肩を押さえながらも、口角を上げる。
「ったく……派手にやらかしたな。けど、まあスッキリしたぜ」
カゲロウは砕け散った鐘の破片を一瞥し、冷淡に吐き捨てる。
「吠える口はもう要らん。死体なら……利用できる」
磔にされたマルコの亡骸から、なおも血が滴り落ちていた。
アイリは恐怖に震える手を無理やり抑え込み、端末を構える。
「……やるしかないっすね」
彼女は倒れた死体に端末を向け、手早くコードを展開する。
小型の魔術式スキャナが浮かび上がり、マルコの体表に刻まれた呪紋や、血に残る魔力残滓を解析していく。
「……なるほど……こいつ、“試作鍵”に関わってたっすね。血液の反応……鍵と同じ周波数を帯びてる」
画面に浮かぶ複数のデータを指で弾き、まとめ上げる。
「それと……教団の拠点。座標がいくつか……ログに残ってるっす」
彼女の声はかすれていた。だが、その瞳は確かに光っていた。
「マルコの残骸から、最低限の情報は……引き出せそうっす」
カゲロウはわずかに目を細める。
「そうか……なら無駄死にではないな」
キアラは血を拭い、低く呟いた。
「……命を賭けてでも隠そうとした情報……それだけ価値があるってことだな」
鐘楼の下から、不気味な振動が伝わってきた。
床石が揺れ、地下から冷たい風が吹き上がる。
かすかな瘴気が夜空に溶け、遠くの雲がざわめくように流れ始めた。
「……やばいっすね」
アイリが顔をしかめる。
「こっちの戦闘、教団に完全に感知されてる可能性が高いっす……」
カインは煙草を咥えかけて、やめた。
「チッ……休む暇もねぇってか」
鐘楼は今にも崩れ落ちそうに軋んでいる。
四人は無言で目を交わし、瓦礫の階段を駆け下り始めた。
沈黙の中、ただ一つ確かなのは――。
“鳴鐘の道化”を倒してもなお、この戦いは始まりにすぎないということだった。




