第十二話
湖はまだ眠っていた。薄靄の向こうで、小さな波紋だけが朝の気配を刻んでいる。
並んだ釣竿、焚き火の白い煙、金属のカップを揺らす指先。解決屋の男衆が、等間隔に腰を下ろしていた。
「……トウマさんは?」
レオンが辺りを見回す。
「ボスは荷物運びだ」
ジークが煙草に火を点け、細く煙を吐く。
「どうせ、アイリ達に色々言われてんだろうな。」
「ボスに釣りは似合わん」
カゲロウがぶっきらぼうに言い、竿先に視線を戻す。
「んじゃ、始めるぞ!」
ヴァルドは豪快に糸を投げ、にやりと牙を見せた。
「今日の晩は、肉より魚だ!」
カインはあくびを一つ。
「寝落ちしたら起こすなよ」
レオンは皆の真似をして、そろりとウキを落とす。――と、思い出したように身を乗り出した。
「その……よければ教えてください。みなさん、トウマさんとは、どこで知り合ったんですか?」
ジークが「ほう」と目を細め、ヴァルドが待ってましたとばかりに胸を張る。
*ヴァルドの昔話*
「俺からでいいか?」ヴァルドは喉で笑い、湖面ではなく遠い過去を見た。
――若い竜人が咆哮を上げていた。
血気盛ん、怒りの塊。ギルドの壁は崩れ、床は砕け、叫び声と泣き声が入り混じる。
「雑魚ばっかじゃねぇか! どうして弟が……あんな小さな竜が、お前らに――!」
拳が地面を抉り、建物が連鎖して崩れる。近衛の隊列が遠巻きに包囲した。
「もう……誰も残さない。全部、壊す」
ヴァルドが踏み出した、その時――。
人影が一つ、瓦礫の埃を払いながら歩み出る。
「まだいたのかよ、人間。――死ね」
獣が跳ねた。
だが次の瞬間、視界が地面ごと反転する。頬に冷たい石、脳天を突き上げる衝撃。額に、手。押さえつける力は、岩より静かで、岩より重かった。
「その怒り、少し、俺にも分けてくれ」
落ち着いた声。
「分けるかぁ!」
「じゃあ、俺のを聞いてくれないか。同胞よ」
風が鳴った。背に――黒い影のような翼が、大きく開く。
「俺はトウマ。……お前の名は?」
止まっていた獣が、ようやく呼吸を取り戻す。
「……ヴァルド、だ」
――朝の湖に戻る。
「それで、気づいたら殴り合いは終わって、飲み合いになってた」
ヴァルドは照れもなく笑った。
「人間が憎くなくなったわけじゃない。……だが、憎しみだけで腹は満たせん。弟を守れなかった俺が、一番憎い」
レオンは唾を飲み込んだ。
「今でも……僕ら人間を、憎んでますか?」
「昔ほどじゃない」ヴァルドは肩をすくめる。
「たまにムカつくのは否めんがな!」
豪快に笑うと、竿先が同時にぐんと絞り込まれた。
「お、かかった!」
「話のオチで魚も引っかけるなよ」
ジークが苦笑する。
「――で、ヴァルドの兄貴は、そうやって“受け入れて先へ進んだ”。そういう奴は強ぇ。精神も、肉体もな」
*カインが“拾われた日”*
「じゃあ、次はカインさん」レオンが振る。
「俺? ……姐御と一緒に“拾われた”だけだよ」カインは眠たげに答え、遠くを見た。
――焼け焦げた施設。鉄の匂い。
「こりゃ派手にやったな」若いジークが眉をしかめる。
「生体反応、影の奥」カゲロウが瓦礫をどかす。
「……子供じゃねぇか」
煤にまみれた小さな拳が、こちらを睨み返す。
「また実験する気か! 大人なんか大嫌いだ!」
力が爆ぜかけた、その頭に、ゆっくりと手が置かれる。
「辛かったな」
トウマの声は、灰の中の水のように静かだった。
「腹、減ってるだろ。飯作る。……怖ければ、食って帰れ。俺たちはもう、お前をいじらない」
きゅるる、と腹の音。
少女――幼いエリスは、歯を噛みしめたまま目を逸らす。瓦礫の陰で震えていた少年は、そっとその手に触れた。
――釣り場の風が戻る。
「それで、今みたいに」カインは頬をかき、
「皆で飯を食うのが、俺は好きだ」
「カインさん……」
レオンが目を細める。
「でも全員、飯食うの遅ぇのは腹立つ」
「てめぇが早すぎんだよ」ジークが即座に突っ込む。
カゲロウが横目でカインを射抜く。「……すまない、遅くて」
「ひっ……冗談です冗談です目で殺すな!」
*影の妖魔 ― カゲロウ*
「カゲロウさんも、トウマさんに……助けられたんですか?」レオンが恐る恐る問う。
「多すぎて忘れた」
カインが「あーつまんね」と肩を落とすと、カゲロウは小さく息を吐いた。
「影の世界に長く囚われていた俺を、外へ引きずり出したのは、あいつだ。外は――うるさい。だが、影よりはいい」
「……出られて、良かったと思いますか?」
レオンの問いに、カゲロウはほんの一瞬だけ口元を緩めた。
「まぁ、な」
「おいおい、笑ったな」ジークが珍しそうに眉を上げる。
「黙れ」カゲロウは即答し、糸を少し巻いた。ウキが小さく踊る。
*ジークの相棒 *
「じゃあ、ジークさんは!」レオンが身を乗り出す。「トウマさんと、どこで?」
「ボスの任務で、俺のいた傭兵団と鉢合わせた。化け物退治だ――“特殊な吸血鬼”とな」
ジークは火を落とし、煙草を指先で転がす。
「結局、討伐は失敗に近かった。規格外ってのは、ああいうのを言う。……最後に立ってたのは、ボスと、俺と、相棒だけだった」
「じゃあ、その相棒さんも今――」
「死んだ」
レオンの声が途切れる。湖面の鳥が一羽、低く飛ぶ。
「……だから、話は終わりだ」
静かな波の間で、カゲロウがぽつりと名を落とす。
「――ゼルロゼ、か」
ヴァルドが横目でジークを見る。「……お前、まだ気にして――」
「うるせぇ!」ジークが声を荒げ、すぐに肩の力を抜いた。
「……悪ぃな、坊主。辛気臭ぇ話を。朝に似合わねぇ」
レオンは首を振る。
「……知れて、よかったです」
ジークは返事をせず、煙だけをふっと吐いた。視線の先、霧の向こうに、なにか遠いものを見ているようだった。
その時――ヴァルドの竿がぎゅん、としなり、カインが「おおっ」と声を上げる。
カゲロウは無言で別の一匹を手際よく上げ、ジークはようやく口角を上げた。
「……よし。晩は、ちっと豪勢にいけるな」
湖に朝日が差し込み、男たちの影が長く伸びた。
トウマのいない静けさは、ほんの少しだけ、心地よい。だが――どこかで、彼の笑い声が聞こえた気もした。




