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【短編】歌うほど、壊れるほど、恋焦がれたあなたへ。〜婚約者に浮気されたので、もう結婚しません。旅に出ます〜

作者: 神田義一

 小さい頃から、歌うことが好きだった。


 私の名前はエル・ラヴェル。王国でも有数の領地を誇るラヴェル侯爵家の一人娘だ。

 明るい栗色の髪を(ゆる)やかに縛り、透き通るような青い瞳を持つ──どこにでもいる、ごく普通の侯爵令嬢。


 幼い頃、王都の広場へ行った時のことを今でも鮮明に覚えている。まだ十歳にも満たない頃、父様の用事に付き添って行った王都の賑やかな市場。


 人々が笑い、商人たちがあちこちで大声を張り上げている中、角の広場にぽつんと腰掛ける一人の旅人がいた。その男は淡い茶色の長髪を肩まで垂らし、胸元には小さな竪琴(たてごと)、そして腰に短剣を携えた吟遊詩人(ぎんゆうしじん)だった。


『草原を渡る風に 旅人の呼吸が溶ける

 見知らぬ光と、はじめての笑顔

 遥か彼方 灼熱(しゃくねつ)の大地の奥、水晶の湖へと続く道

 心は翼を広げる──♪』


 彼は音色を(つむ)ぎ、詩を語る。その声は透き通り、まるで風に乗って世界中を旅してきた音楽そのもののようだった。


「……綺麗……」


 幼い私は、父様に手を引かれていたにも関わらず、その場で立ち止まってしまった。彼の紡ぐ詩は、草原や森、遠くの大海や高い山々までを想起させ、まるで見たこともない景色が瞳の中に浮かぶようだった。その瞬間、私の心に決まった。私も歌いたい、私もこの声で世界を紡いでみたい──と。


 灼熱(しゃくねつ)の大地? 水晶の湖?

 まるで、おとぎ話のような歌。

 色んな世界。私も見てみたい──


 それが叶わぬ夢だと言うことはもちろん承知している。でも、それから私は夜のバルコニーでこっそり小さな声で歌を紡ぐ習慣が始まった。


「エル、おまえは我がラヴェル家の映えある一人娘なのだ。歌を歌うなど召使いや芸人がすること。高貴な身分の者は聞き手であるべきだ」

「歌は娯楽(ごらく)、耳を楽しませるもの。己で歌うなど、はしたない行為よ」


 私の両親──ラヴェル侯爵夫妻はみっともないと眉をひそめたが、それでも私は歌うことをやめなかった。

 歌えば胸がすっと軽くなる。まるで世界と繋がれるような不思議な感覚がある。鳥がさえずり、星が瞬き、花々が微笑(ほほえ)む。ただの幻想的な思い込みに過ぎないのかもしれないけれど、私には歌が何よりの生きがいだった。



 ◆ ◆ ◆



 夜風が(すず)やかで、屋敷の庭園から薔薇(ばら)の甘い匂いが漂ってくる頃。私は相変わらず誰にも知られぬよう小声で歌っていた。すると、庭木の陰からそっと現れた人影があった。

 驚いて声を止めると、それはアルト殿下だった。第三王子、アルト・エグランティア殿下。

 彼は穏やかな微笑(びしょう)を浮かべ、銀青色(ぎんせいしょく)の髪を月明かりで揺らしながらこう言った。


「いい声だね。その歌は誰に教わったんだい?」

「あ……。え……っと……」


 最初は怖くて声が出なかった。なぜ第三王子がこんな深夜、私の屋敷に?


「驚かせてすまない。実は、父上──国王陛下のお命で、貴族領の状況を視察している途中なんだ。今夜はラヴェル侯爵家にお世話になっているよ」

「そう、だったのですね……」

「まぁ、月明かりも心地よい夜だから、庭を散策していたんだ。すると、君の歌声が流れ込んできてね。あまりに透き通った声だったから、つい足を止めてしまった」


 聞かれてたなんて、恥ずかしい。でも、父様や母様じゃなくてよかった。

 アルト殿下はそっと視線を上げ、私が一瞬歌を止めてしまったバルコニーの方へ目をやる。そして再び、温かな笑みを携えて私へ振り返る。


「このような時間に、このような美しい歌声に出会うとは思わなかった。その歌は、誰かに教わったのかな?」

「……教わったわけではありません。小さな頃、市場で聞いた旅人の歌が印象的で……それから独学というか、ただ好きで、歌っているだけです」


 肩をすくめて打ち明けると、アルト殿下は「面白いね」と笑った。普通の貴族令嬢らしからぬ趣味を(とが)めず、むしろ肯定するような眼差しを向けてくれたのが嬉しかった。


「君の歌は心をくすぐる。不思議と耳から離れない声だ。いつか、もっと多くの人の前で歌ってみてはどうだろう?」

「私にはそんな……身分不相応です。それに、父様や母様には『そんなはしたないことは慎め』と言われていますし……」

「ふむ。けれども、俺は君の歌が好きだ。そのまま続けていてほしいな」


 にこやかに返される言葉。私は心の内側からどんどん湧き上がるような熱を感じた。

 その日を境に、私は殿下からたびたび褒め言葉をかけられるようになった。

 次第に私たちは心を許し合い、私は彼に惹かれていった。


「今度は俺の歌を歌って欲しいな」

「……! は、はい。恥ずかしいですが……」


 彼への歌をリクエストされた時は、自分の心内を晒すようで恥ずかしかったが、私は歌った。

 一層、彼を慕い、愛し、歌の中で何度も何度も賛美(さんび)した。私の歌声に彼が耳を傾けてくれる、それだけで胸が弾んだ。まるで籠の中の鳥が外へ飛び立つ前に翼を震わすように。


 そう時間もかからずに、私たちは自然と婚約関係へと導かれていった。アルト殿下が求婚し、両親が承諾した。第三王子ではあるが、王家の一員と結ばれるなど侯爵令嬢としては名誉なことだった。


 彼から褒め言葉をもらえるたびに、私は一人でベッドに雑に飛び込み、枕を抱きしめながら、壊れたようにバタバタゴロゴロと暴れた。

 あのとき、私は幸せの絶頂だった。何も怖くなかった。彼が笑ってくれるたび、私は新たな歌を紡ぎ出した。彼を称える歌、国を讃える歌、自由への憧れを描く歌──想いが尽きることはなかった。


「私、いつか世界中を旅してみたいんです。あの吟遊詩人みたいに……こんな身分じゃなかったら、冒険者になっていたかもしれません!」

「あはは、面白い夢だね。エルなら、きっとどこへでも行けるよ」


 そんな優しい言葉が私を励ます。


 だから私は、ずっと彼のためにと思って彼の歌を紡いでいった。

 数年間も、歌うほど、壊れるほど、恋焦がれたあなたへ──



 ◆ ◆ ◆



 とある日、父様と母様は王都近郊(きんこう)にある知人の屋敷で行われる昼下がりの茶会へ出かけていた。私は特に用事もなく、退屈しのぎに王都を散策していたのだが、とある屋敷の外壁をぐるりと回り込んだ先、あまり人目に触れない物陰で、不意に誰かが談笑する声が聞こえた。


「……ん?」


 声を潜めて近寄ると、そこには仲睦(なかむつ)まじそうな男女が身を寄せ合っていた。

 柔らかな日差しが注ぐ小さな中庭の一角、藤色の(つた)が垂れるアーチの下。美しいドレスを纏った女性が、金色の髪を揺らしながら笑い、その傍らで男性が腕を回して腰を引き寄せる。

 まるで絵画のような恋人たちの光景だった。


 私は顔が熱くなるのを感じて、慌てて視線を落とした。いけない、こんなところを覗いているみたいで、あまりにも無作法だ。けれど、彼らは私の存在に気づく様子もなく、甘い雰囲気を漂わせている。


「……すごい……なんだか大人って感じ……」


 私はどぎまぎしながら唇を噛む。男の人が恋人を抱き寄せて、そのまま軽くキスをする。その仕草は自然で、しかし私にとっては刺激が強すぎた。

 アルト殿下には、あんな風に触れられたことなんて一度もない。手を取ることはあっても、あんなに近く顔を寄せることはなかった。


(なんか、見ちゃいけないものを見ちゃったな……)


 私は背中を向け、この場を立ち去ろうとする。こんな所に居座るのはあまりにも不謹慎だ。だが、耳を離そうとした瞬間、その男性が囁いた言葉が私を凍りつかせた。


「アイリス、君は本当に美しいな」


 ……アイリス? 知っている名前だ。ハーリントン伯爵家の令嬢、アイリス・ハーリントン。華やかで野心的な噂を耳にしたことはある。


「あら、婚約者がいるのにダメじゃない、アルト様」


(──え?)


 嘘、嘘でしょ? アルトって言ったの?

 その瞬間、私の心臓が冷たく(きし)んだ。思わず息を飲み、その場に立ち尽くす。

 全身がカタカタと震え、動かない。

 でも、どうしてこんなことになっているのか確かめたくて、しかし見てはいけない光景に釘付けになるように、私は蔦の陰に身を潜めて耳を澄ませる。心臓の鼓動がうるさい。


「まあ、俺は婚約者など、形だけだ。それより、お前をこうして抱き寄せている時の方がよほど本当の俺だよ、アイリス」

「……ッ!?」


 私は震える指先を口元に当て、今にも飛び出そうになる悲鳴を抑える。

 アルト殿下が……そんな言葉を口にするなんて。


 アイリス嬢は含み笑いを浮かべた。


「くすくす……それにしても、あの娘──ラヴェル公爵家の地味な娘、よくもまあとことん信じ込んでるわね。あなたのことを讃える歌を、せっせと歌って……まるで壊れた玩具ね」

「全くだ。だが、感謝しなければならない。あれでも俺のために力になってくれているんだ。歌に魔力が篭っていると気づいた時は財宝でも見つけたような気分だったよ」

「たしか、彼女の歌を聞くと、彼女と同じような気分に惑わされるのでしたっけ?」

「まぁ、そんなところだ。だからアイツには、俺を褒め称えるような歌を歌わせて、民の心を掌握(しょうあく)しやすくする。あとは通信用の魔道具を使って彼女の歌を国中に拡散し、気づかない速度で俺の支持者は増えていく」


 え、何? どういうこと?

 息が詰まる。私の歌が、人の心を惑わす? アルト殿下を讃えて歌うたびに、人々が彼を支持するよう仕向けている? そんな……そんなこと、知らなかったし……信じたくない。


 それに、私のことをずっと『アイツ』としか呼ばないことに、胸が張り裂けそうになる。


「俺に惚れ込ませれば、あとは簡単だ。優しい言葉をかけるだけでいい。アイツは単純だし……」

「まぁ、悪い人」

「しかし、憧れだかなんだか知らんが、旅人の歌を聞かせられた時は俺も『冒険サイコーだな!』とか口走ってしまったが……」

「ぷぷっ……操られてるじゃない。というか、普通に怖いわね。その能力」

「まぁ、誰も気づいてないようだから、俺が"管理"してやるさ。結婚だってしてやるよ。俺が王となった暁には、その力でより俺のことを崇めてもらうように大事に扱うさ」


(嘘だ。嘘だ嘘だ)


 今さっきまで見ていた甘いキスが、悪夢の始まりを告げる鈴のようだった。こんな言葉、本物のアルト殿下が言うはずない。だけど、今目の前にいるのは確かに彼だ。間違えるはずがない。


「あら……じゃあ私は愛人ってことになるの?」

「前からそう言ってるじゃないか。だが、妻よりも君のことを愛するよ」

「くす……冗談よ。言ってみただけ」


 そう言うと、二人は再び甘い口付けをした。

 ズキン、と胸が痛む。


 私は一歩、また一歩と後ずさる。耳が熱く、目が霞む。足元の小石を蹴ってしまい、(かす)かな音がしたが、彼らはお互いにのめり込むような会話に夢中で、こちらに気づく様子はなかった。


(こんなの……嘘よ……)


 それ以上聞くのはもう無理だった。私は(きびす)を返し、両手で口元を押さえながらその場を駆け出す。

 広い敷地を抜ける風が、肌を切るように冷たく感じる。視界は滲んでよく見えないけれど、とにかく遠くへ逃げたかった。


「はぁ……はぁ……」


 息が上がり、喉が焼けるようだ。胸が痛い。勝手に涙が溢れる。どうして……あんなに優しく微笑んで、あんなに素敵な言葉をくれたのに……全部嘘だったの?


「う……うぅ……ふぐっ……」


 ボロボロと涙がこぼれ落ちる。抑えようとしても止まらない。走り続ける足音が、私の(みじ)めさと絶望を追い立てるようだった。



 ◆ ◆ ◆



 ──何処だろう、ここは。

 気づけば私は、人通りの少ない王都内の川に架かる橋の下で膝を抱えていた。

 喉がひりつくほど走り、足はがくがくと震えている。


『草原を渡る風に 旅人の呼吸が溶ける──♪』


 私はかつて憧れた吟遊詩人の歌を思い出しながら紡いだ。

 辛い時はこうやって彼の歌を歌うことで心の傷を和らげようとした。

 しかし、小さく鼻歌のように紡いだだけなのに、それに反応するように冷たい風が肌を撫で、周囲の草木が連動するように枯れていった。


「……っ……」


 歌が止まる。

 嗚咽(おえつ)を殺すように、声を詰まらせる。

 本当に私の歌には、周囲に影響するほどまでに魔力が……。

 そんなの……知らなかった……。


「それに、あの人、綺麗だったな……」


 先ほど見たあの光景が、何度も頭をよぎる。甘い口づけを交わしていた二人──アルトとアイリス。


「アルト殿下は、本当はああいう女性が好きだったのかな……」


 彼女は綺麗だった。金色の髪を揺らし、あでやかに微笑んでいた。

 それに比べて、私はなんて……。

 彼の女性の好みなんて気にしたことも無かった。小さい頃から私の歌を褒めてくれる唯一の人で、私は知らず知らずのうちに彼の信頼を失っていたのだろうか。


「胸が……痛い。苦しいよ……」


 涙が頬をつたう。

 あれだけ好きだった歌が、一瞬にして嫌いになりそうだった。


 私は膝をさらに強く抱きしめ、止めらない涙をただ流し続けた。


 その時、肩にふわりと何かがかけられた。

 外套(がいとう)のような厚手の上着。その温もりに、一瞬息が詰まる。

 顔を上げる気力もなく、ただ上着に包まれたまま、しゃくり上げる私に、低く落ち着いた声がかけられる。


「しばらくそうしてなよ」


 ──誰だろう。


 顔を上げることができず、私はただ彼の言葉に従った。

 見ず知らずの相手なのに、その一言が、あまりにも自然に心へ溶けていく。

 誰でもいいから、今は縋りたかった。だから、言う通りに上着を被ったまま泣いた。


 しばらくすると、隣に人の気配がする。

 見ず知らずの男が、私から半歩ほど距離を置いて腰を下ろし、竪琴(たてごと)を取り出すような気配がした。

 そして、静かに歌い出す。


『〜♪』


 最初は、鼻をすすりながらぼんやり聞いていた。

 不思議と心が落ち着いてくる。優しく、どこか遠くまで誘うような旋律だ。

 その歌声には、かつて王都の広場で聞いた吟遊詩人の面影がある。淡い茶色の髪、肩まで流れる旅人姿の男。私は幼い頃、あの人の歌に憧れて……。


 ……というより、この歌詞……。


「この歌はね、弱った心を癒す効果があるんだ。気休め程度だけどね」


 彼は泣いている私に対して優しくそう口にする。

 でも、私はそれよりも──


「…………あ、あの……。もしかして……昔、王都の広場で歌っていた旅人さん、ですか……?」


 私がおずおずと尋ねると、外套(がいとう)越しに声が返ってくる。


「ん? 俺のこと知ってるの? ありがとう、歌を聞いてくれたんだね」

「えっ……」


 涙で曇った視界のまま、私は顔を上げる。清らかな川を背に、一人の男がそこにいた。

 淡い茶色の髪を肩に流し、旅人の衣を纏っている。彼は私に微笑むでもなく、無理に言葉をかけるでもなく、ただ優しく頷いて、頭に掛けた外套を整えてくれた。

 私は記憶の片隅に残る面影と重ね合わせる。この人は――。


「カイ・ローウェル。旅のしがない吟遊詩人さ」


 私の口から、抑えきれぬ驚嘆(きょうたん)の声が漏れた。


「ふぇっ!? ふぇぇっ!?」


 涙は一瞬で引っ込み、代わりに目が見開く。

 まさか、あの時憧れた吟遊詩人が、今、私に外套をかけて、隣で歌っているだなんて……!


 驚きと戸惑いに胸がドキドキして、さっきまでの悲しみに溺れていた自分が嘘みたいだ。

 言葉がうまく出てこない。泣き顔はぐしゃぐしゃだし、さっきまで絶望に沈んでいたくせに、今は嬉しさと驚きで脳内がごちゃごちゃだ。


 吟遊詩人──カイと名乗ったその人は、くすりと笑って竪琴を軽く鳴らす。


「はは、そんなにびっくりしないでくれ。俺なんてただの旅人さ。でも、君が俺の歌を憧れてくれてたっていうのは、光栄だね」


 その鷹揚(おうよう)な物言いが、私の胸の隙間に、温かい風を通していく。

 私の中で、警戒心がするすると消えていく。


 私は深呼吸し、鼻をすする。


「えっ……えっと……その……私、子供の頃、広場であなたの歌を聞いて、それで、あの時からずっと憧れてたんです! すごい……信じられない……」

「そっか、じゃあ偶然の再会ってわけだ。君は……」

「あ、はい、ラヴェル侯爵家のエル・ラヴェルです!」

「あぁ、道理で。やたら高価な服装の女の子が泣いてるなって思ったよ」

「なんですかそれ。言っておきますけど、これは中でも一番動きやすくて庶民向けですっ!」


 貴族であることを弄られたことに、思わず私はぷん! 眉を吊り上げる。


「ぷっ」

「ふふ」


 目が合うと、お互い一瞬硬直して、小さく笑い合う。

 心の中で小さな歓喜の花が咲くようだった。


 それからは、私が旅に憧れていると話すと、彼は自分の冒険譚(ぼうけんたん)を話してくれた。

 広大な森の中にスライムが統治する村がある話、無数のスキルを駆使するダンジョンに眠る巨大な白い蜘蛛の話。

 王都からほとんど出たことがない私にとって、その全てが新鮮で、まさに夢見た世界そのものだった。


「海の向こうにあるアステリア王国の国王がね、もう最悪なヤツでさぁ」

「へぇ〜! そんな酷い王様もいるんですね……」


 酷い王様……その言葉に、一瞬現実に引き戻された。


「……あ……」


 今の私もそうだ、すっかり悲惨な状態だ。愛する王子に裏切られた。

 ふと表情が曇る私に、カイは小首を傾げる。


「何か、嫌なことがあったんだね」


 再び記憶が戻る。アルト殿下とアイリス嬢の嘲笑(ちょうしょう)

 胸が痛み、視線が地面へ落ちる。でも、さっきよりはまだ話せる気がした。


「聞いて、もらってもいいですか?」


 遠慮がちに問いかける私に微笑んで頷くカイ。


「もちろん。聞くのも得意なんだ」


 カイは私のより近くに座り直す。でも、決して私の身体には触れない距離を保ってくれて、ただ穏やかな表情で待っている。

 私は、ぽつぽつと事の顛末を話し出した。



 ◆ ◆ ◆



「……最低だな、そいつ」


 カイは私の話を一通り聞くと、あっさりとそう言ってくれた。

 私の歌がどうだなど言うこともなく、ただその率直な物言いに、思わず胸の重石(おもし)が軽くなる。


「……でも、私もおしゃれとか気がつかなかったし……歌だって……」

「そんなの関係ないでしょ」

「え……」

「どれだけ君が彼に尽くそうとしても、結果は変わらなかったと思う。それだけ彼に対して想いを持っていたのに、そんな扱いをしたってことは、元々そうするつもりだったんだろう」


 思わずぽかんと空いた口が塞がらない。

 なんでこの人は初対面の相手の肩をここまで持ってくれるんだろう。

 でも、話せば話すほど、自分の悩みがちっぽけなものに感じてくるようだった。


「つまり、悪いのは全部あのクソ王子。君は何も悪くない。……だろ?」


 ずい、と指を私のおでこに刺すように向けてくる。

 私が真剣に話しているのに、軽いことみたいな感じで、思わず調子が乗せられてしまう。


「そ、そう……です……!」

「クソ王子だろ?」

「クソ王子です! 私だって一生懸命だったのに……!」

「お、そうだそうだ、もっと言ってやれ! 叫ぶと吹き飛ぶぞ!」

「ク、クソ王子のばーーーか!! もう知りません!! ハーリントン伯爵令嬢とお幸せにッッ!!」


 私は初めて、腹の底から川に向かって叫んだ。

 私の声に驚いたのか、バタバタと水鳥たちが驚いて飛び立っていく。


 叫ぶと、不思議なことに内側にあった言いようのない黒い塊がぽとり、と落ちるようにスッキリした。

 代わりにアドレナリンのようなものが身体から蒸気のように生まれてくる。


「……クソ王子って……もしアルト殿下に聞かれてたらどうするんですか」

「国外まで逃げる。俺は旅人だから、どこででも生きていけるさ」

「あっ、一人だけずるいです。そんなの」


 笑みを浮かべながら、私は視線を下げる。


「……でも、私、どうしたら。好きだった歌も、人の心を惑わすなんて……」


 アルト殿下が裏切り者とわかった今、彼のために紡いできた歌はどうなるのか。私がずっと愛してきた声の行き場は、どこへ向かえばいいのか。

 あれほど好きだった歌が、人々を惑わし、誰かの思惑に利用されていたなんて。何より、私自身、その力に無自覚だったことが怖い。


「いいじゃん。俺は欲しいけどね。そんな力があるなら」

「え……?」


 思わず目を瞬かせる。まさか、こんな奇妙な能力を羨ましがるなんて。


「だって、歌一つで人々の心を動かせるんだろ? そんな奇跡みたいな声、普通は手に入らないよ。だから王子は君を利用したくなったんじゃないか」

「で、でも、それじゃ私が悪者みたいじゃないですか!」


 少し頬を膨らませると、カイは「はは、違う違う」と手を振る。


「力は使い方次第だろ? エルは最初から人を洗脳しようと歌ったわけじゃないし、楽しい気持ちで歌えば、周りも楽しくなるんだろ? 最高じゃないか」

「あ──」


 そうだ、いつだって私がバルコニーで歌うと、小鳥たちが楽しそうにやってきて、蕾は綺麗な花へと咲き誇っていった。

 てっきり、有頂天(うちょうてん)になった私の想像の中でだと思ってたけど……。


「今の国民は、君の力で不本意にも第三王子を支持する形になっているかもしれないが……君なら、逆にそれを解いてやることもできるはずだ」

「解く……ですか?」

「そう。彼を愛して讃えた歌を歌った時と同じように、今度は『正気に戻れ〜』みたいな感じでさ」

「え……ど、どういう歌にすればいいんでしょう?」

「多分だけど、歌詞はあんまり関係ないと思う。君の気持ちが直接伝播してそうだし。歌って、そういうもんだしね」


 彼はあっけらかんと言うが、私は唇を噛む。

 そんなんで、上手くいくのだろうか。

 確定要素は何一つ無いのに……。冒険者っていうのはみんなこうなのだろうか。


 でも、実際、さっきまで私が泣いていたところにカイが歌を添えてくれた時、不思議と心が落ち着いた。

 もし私が心を込めて歌えば、人々は自分たちの本来の意志を取り戻せるかもしれない。


「……やってみる価値はありそうですね」

「だろ? じゃあさ、ちょっと試してみようよ」


 カイが立ち上がり、私を(うなが)す。

 まだ足は少し震えているけれど、外套(がいとう)を返そうとして「いいよ、そのまま着てな」と言われたので素直にお借りすることにした。彼の外套は、いろんな匂いが混じっていて、自分も旅人になったような気分だ。


 私たちは小路を抜け、人通りのある通りへ出た。

 王都の一角、行き交う人々の中から、そこそこ物腰が柔らかそうな中年の商人らしき男性に声をかけてみる。


「ねぇ、おじさん。今って、王族の中だと誰を支持してるの?」


 カイが気軽に尋ねると、商人は少し目をしばたたかせてから答える。


「そりゃあ、第三王子アルト殿下に決まってるさ」

「へぇ、なんで? 何か彼がやった特別な功績でもあるの?」

「え、いや……そりゃあ………なんでだろうな? ほら、最近やたら殿下の噂が心地いいんだよ。聞いてると殿下がすごく素晴らしく思えてさぁ。うん」


 曖昧な答え。

 明確な理由もなく、なんとなくアルト殿下を推している。


 カイは軽く私にウインクする。

 よし、やってみよう。


「……あの、ちょっと変なことをしますが、気にしないでくださいね」

「うん?」


 私がそっと商人に断りを入れ、目を閉じて息を整える。

 ドキドキする。けれど、カイが近くで竪琴(たてごと)を軽く弾いてくれているから、心強い。


(正気に戻ってほしい。この人が、本当に推したい王子を、自分の意志で選んでほしい)


 そんな願いを込めて、私は静かに歌い始める。


『〜♪』


 短い即興の歌。特別な旋律ではないけれど、私の想いを真っ直ぐ音にする。

 風が髪を揺らす中、商人は最初怪訝(けげん)そうな顔をしていたが、次第に不思議そうな表情に変わっていく。

 そして、歌い終わると彼は小さく拍手をしてくれた。


「……いやぁ、なんだ? よくわかんねぇけど、いい歌だったな」

「でしょ。で、おじさん。アルト王子の噂ってどんな心地よさなの?」

「え? そりゃお前…………。って、考えれば考えるほど、おかしいよな。……いや、そういや俺、昔から第二王子ユリウス殿下の行動力が好きだったはずなんだ! 第一王子ヴェルナー様も堅実で良いし……なんで俺、第三王子を褒めてたんだ?」


 商人は首を傾げている。

 その様子を見て、私たちは顔を見合わせる。成功だ!


「ほらね、何とかなったじゃないか」


 カイが笑う。私はほっとしたように息を吐く。


「もう……すっごく恥ずかしかったんですから……」

「あはは、いいじゃないか。素敵な歌声だったよ」


 私の顔は真っ赤だったが、憧れた人にそう言われると、今度は胸がきゅんと熱くなる。


 歌が人の心を惑わすのなら、それを解くこともできる。

 恐ろしい力だと思っていたけれど、使い方ひとつで、元に戻せるなら──まだ救いがある。


 商人は頭を掻きながら、困惑したように唇を噛む。

 カイが「何か心当たりはない?」と促すと、商人はふと思い出したように顔を上げた。


「あっ! そうだ、たしか『グリーンリーフ亭』って酒場で、妙な音楽が流れてきたんだ。急に心地よい音が耳に入ってきて、なんだかウキウキしたんだよな。そしたら自然と、『アルト殿下は素晴らしいよな』なんて口走っちまって……」

「酒場に変な音楽?」


 カイは商人に詰め寄る。


「それって、どんな音楽だった?」

「うーん、上手く言えないが、美しい歌声だったような。ただ、店内に楽師は見当たらなかったんだ。なのにどこからともなく聞こえてくる……」


 商人の言葉に、私はアルト殿下の言葉を思い出した。

 魔道具で、私の歌を拡散……。


 カイも気付いたようで、私と目が合うと、軽く頷く。


「その酒場はどこにあるの?」


 カイが微笑を浮かべる。

 商人は所在(しょざい)なげに顎で方向を示した。


「城壁沿いを北へ行った先の横丁だよ。『グリーンリーフ亭』は緑の看板が目印だ」

「ありがとう、助かったよ」


 カイが礼を言うと、商人は首をひねりながら立ち去った。



 ◆ ◆ ◆



 小さな路地裏で、私は深い溜息を吐いた。足元には転がる小石が数粒。


 結論から言うと、グリーンリーフ亭には、確かに魔道具が仕込まれていた。

 実際に酒場へ行ってみると、確かに人目に付きにくい場所に小さな魔道具が隠され、音もないのに微かな残響を感じる謎の箱が発見された。

 私の魔力の乗った歌声が、魔道具によって拡散されていたのだ。


 その後も少し調べてみると、冒険者ギルドや広場など、人の集まる場所に同様の魔道具が点在していることがわかった。考えただけで気が遠くなる。


 ぽん、と足元の小石を蹴りながら、どうすれば国全体に行き渡った「アルト殿下への不自然な盲信」を解けるのか考える。カイは私の横で腕組みし、何か策を練るように顎を撫でていた。


「うーん。魔道具の数を見るに、かなりの国民が影響されてそうだね。……ざっと、数千、数万人とかの規模かも……」

「……どうやってそんな数を……。私の歌は確かに人の心に届くみたいですけど、一人ずつ歌って回るなんて無理があるし……」


 悩んでいると、カイは不気味な顔をして笑い出した。


「ふっふっふ、そこは俺に任せてくれ」

「え?」


 何か良い考えがあるらしい。その顔に私は期待の視線を向ける。


「大きな演奏会が近々開かれるんだ。王都最大の劇場で行われる、大規模な(もよお)し物だよ。王族や有力貴族、名士たちも一堂に会する格式高いイベントさ」

「演奏会……?」


 私は思わず息を飲む。カイは軽く眉を上げ、楽しそうに微笑む。


「そう。元々は俺も、その演奏会に招かれてたんだ。旅の吟遊詩人としてちょっと有名なもんだから、劇場の主催者と面識があってね。特別枠を用意できるかもしれない」

「特別枠……」


 私の言葉に、カイは得意げに頷く。


「俺が話を通せば、君に舞台に立つチャンスを与えられる。あの場には王族はもちろん、貴族たちも勢揃いするらしい。つまり、君が一回そこできちんと歌えば、多くの人が同時に正気を取り戻せるかもしれない」


 目を見張る私に、カイは続ける。


「王家の権威ある場で歌うなんて並大抵じゃないけど、今はそれしかないと思う。アルト殿下への盲信を打ち破るには、大勢の前で、意志を持って真実を示す必要がある」


 そんな荒唐無稽(こうとうむけい)な、と一瞬思ったけれど、カイの自信に満ちた態度を見ると、なぜか不可能じゃない気がしてくる。

 魔道具がどれほど広く散らばっていても、要は人々の意識を取り戻せばいい。私の歌なら、それができるかもしれない。


「つまり……私が大勢の前で歌って、真実を伝えるってことですか……? でも、私にそんなことが……」


 私は不安げにカイを見る。

 アルト殿下に陥れられ、浮気までされて、心を折られた。あんな屈辱は二度と味わいたくない。


「大丈夫さ。君はさっき、歌で人の心に響かせることができただろう? アルト殿下への盲信が解ければ、人々は『あれ? 何かおかしいな』って気づいてくれる」

「……でも私、正直怖いです。私の歌、あんまり評価されることもなかったし……それに、劇場にはアルト殿下も来るんだったら、何を言われるか……」

「俺がいる。最大限フォローするし、今更だが、実は第一王子と第二王子も、密かにアルト殿下を疑っているって噂があったんだ。最後に魔道具のことを明かせば、彼らも黙ってないはずだし。歌い始める時は、正体は隠しててもいい」

「正体を隠して……」


 確かに、フードなんかを被れば、アルト殿下もエル・ラヴェルだとは気づかないだろう。そうすれば、すぐに妨害もできない。

 私が歌い終わってから正体を明かし、カイが状況を説明すれば、人々は少なくとも疑問を抱くはずだ。


「それに、エルは俺みたいな旅人に憧れてるんだろ? 冒険者になるなら、もっと怖い死線がいくつもあるんだぜ?」


 ドキリ、と胸が鳴る。

 そうだ、私には夢があった。遠い異国の地、灼熱の大地や水晶の湖、まだ見ぬ世界を巡る冒険者への憧れ。アルト殿下に裏切られた傷は深いけれど、だからといってこのまま閉じこもって泣くだけじゃ、自分自身が納得できない。


「わかりました……私、歌います。アルト殿下のためじゃなく、今度は私のために……」


 言葉にすると不思議と怖さが和らぐ。カイが傍にいると、どんな困難も道があるような気がする。あの頃憧れた吟遊詩人が目の前で私を励ましてくれるのだから、これほど心強いことはない。


「よし、それじゃあ準備をしよう。演奏会は数日後だ。それまで喉を整え、曲を考えるといい。俺も劇場主に話を通しておく」

「はい!」


 そう言って頭を下げる私に、カイは気楽な笑みで応えてくれる。

 背中に彼の外套の温もりを感じつつ、私は次こそ真実を示してやろうと誓う。


 ……歌うほど、壊れるほど、私が恋焦がれた王子の裏切り。

 その痛みはまだ胸に残るが、この歌声で変えることができるなら、次は私自身のために歌ってみせる。



 ◆ ◆ ◆



 ──【アルト視点】──



「もう行くの?」


 アイリスが甘えた声で尋ねる。その目元には、一度唇を(ほど)いたばかりの紅の痕がまだ残っている。俺は彼女の顎先に触れ、わざと惜しむように微笑んだ。


「あぁ、君とは離れたくないが……可愛いペットの面倒も見てやらねばな」

「ペットって、本当に愛は無いのね。くす……」

「はは」


 俺は彼女の額に短い口づけを落とす。

 アイリスはそのままソファーに体を沈め、脚を組み替えながら満足気に微笑んでいた。


「早く帰ってきてね、殿下」

「もちろん。心配はいらないよ」


 そう告げて、俺は密会の部屋を後にする。

 エルの屋敷まではさほど遠くないが、実のところ、わざわざ会いに行く理由は特にない。

 だが、"彼女が俺に心底惚れ込み、喜んで歌を紡いでいるか"の状況確認くらいはしておいてもいいだろう。


 ラヴェル侯爵家の前まで辿り着き、バルコニーを見上げる。

 普段ならばいつもこの時間に彼女は歌っているはずだったのだが。


「いないのか……?」


 仕方なく門を叩くと、執事が焦った様子で出迎える。


「殿下、これは、遅いお越しで……。お嬢様は今、体調が思わしくないようで……」

「ほう、体調が悪い? ならば仕方ないな」


 偉そうに詮索(せんさく)しても面倒だし、会えなくても不都合はない。

 彼女は道具なのだから、大事なのは"機能"するかどうかであって、今すぐその顔を拝む必要はない。俺が選んだ道具だ、俺への忠誠心に翳りなどあるまい。


「わかった。では、よく休ませておいてくれ。あまり無理をさせるなよ」

「は、はい……殿下」


 両親は少し申し訳なさそうにしていたが、そんなことはどうでもいい。

 俺はあっさりと踵を返すと、王都の通りへと戻った。


 すでに王位継承争いは俺が優勢だ。

 民衆は魔道具を通じて流れたエルの歌で自然と俺を賛美しているし、その気になれば、俺は新たな"王"になるための基盤(きばん)を固めていける。

 エルが今は顔を出さなくても問題はない。彼女にはまだまだ歌ってもらう機会があるのだし、多少体調不良だろうが気にする必要はない。


 それから数日、なんとなくエルと顔を合わせる機会はなかったが、俺は特に気にならなかった。彼女は体調が悪いのだろう。あるいは大人しくしているだけかもしれない。

 いずれにせよ、俺はもうすぐ王座へと近づくだけだ。些末(さまつ)なことに(わずら)わされる時間はない。


 ──そう、何も問題はない。全て俺の手のひらの上なのだから。



 ◆ ◆ ◆



 ──【エル視点】──



 あの夜、アルト殿下が屋敷を訪れたけれど、私は会わなかった。

 両親や執事には、「もし殿下がお見えになっても、私は体調不良ということにしてください」と、事前に伝えておいた。

 父様や母様は大いに戸惑っていた。王子殿下をわざわざ追い返すなど、貴族令嬢としてはありえないことだからだ。


「エル……どういうことなんだ。なぜ殿下にお会いしない?」

「そうよ、理由があるなら説明しなさい」


 心配そうに問いただす父様、困惑を隠せない母様。

 私は俯いたまま、何も答えない。

 理由を話したところで、今の両親には信じてもらえないだろう。

 アルト殿下が裏で私を操り、民衆を誘導しているなどと聞かされたら、到底受け入れられないに違いない。


 だから私は、その当日までは黙秘を貫き、毎日カイと密会しては歌の練習に励んだ。



 ◆ ◆ ◆



 数日後、王都最大の大劇場「グラン・オペラ座」には、名士や貴族、そして王族たちが勢揃いしていた。

 第一王子ヴェルナー、第二王子ユリウス、そして――第三王子アルトと伯爵令嬢アイリスも姿を見せているらしい。

 演奏会は国中から優れた奏者たちを招き、豪華絢爛(ごうかけんらん)な音楽の饗宴(きょうえん)となる。

 そして今回は特別なゲストとして、世界を旅する吟遊詩人カイ・ローウェルが参加するという噂に、客席は期待と興味で満ちている。


「さぁ、最後の出場者は、特別な趣向を凝らした歌姫の登場だ! 紹介するのは旅の吟遊詩人、カイ・ローウェル氏より推薦された逸材! さぁ、その歌声に耳を澄ませてください!」


 司会者が高らかに宣言すると、会場が静かになった。最後の特別枠、それは異例中の異例だ。客席には既に第一王子と第二王子が肩を並べ、興味深そうに舞台を見つめている。その隣にはアルトとアイリスが座っている。


(緊張する……)


 やれることはやってきたつもりだけど、今まで偽の賛辞(さんじ)以外は特段褒められたことの無い私の歌が、本当にこんな大舞台で歌っていいものなのか。

 胸に手を置くと、張り裂けそうなくらい心臓がうるさい。


「大丈夫。行こう、エル」

「はい……」


 私は深いフードの付いたローブをすっぽり被り、ゆっくりと舞台中央へ足を踏み出した。

 足音が、広い劇場に微かに響く。

 明るい照明の下、客席は闇の海のように広がり、数え切れないほどの瞳が私を凝視しているのがわかる。

 そこには王子たちをはじめ有力者たちも居並んでいる。

 その中にアルト殿下の姿もある。アイリス嬢がそっと彼に身を寄せているのが見えた気がする。


「……っ……」


 軽く息をのむ。

 怖い。無意識に脚が震える。


 思わず顔を隣へ向けると、そこにはカイが控えていた。

 小さな竪琴(たてごと)を手に、私の合図を待っている。


 カイは私と目が合うと、いたずらっぽく片目をつむった。

 まるで「平気だよ」と言わんばかりに、いつもと変わらない気軽な笑顔で。

 私がこんなに慄いているのが馬鹿みたいに思えるほどに。


 私はそっと唇を引き結び、深呼吸する。

 この舞台に立つと決めた時から、カイはずっと傍にいて励ましてくれた。

 嘘と裏切りに染まった日々を捨て去るために、ここへ来たんだ。

 今さら怖気づくわけにはいかない。


 私は最後にもう一度呼吸を整えると、静かにカイへ合図を送った。

 客席が息を呑むように静まり返る中、カイが竪琴の弦を指先で弾く。

 ()んだ音色が穏やかな風のように広がる。


 その音に導かれるように、口を開く。


『行き先を、迷うものへ

 恐るなら、山を超えてゆけ

 まだ見ぬ大地の、先の光を──♪』


 私の声が、大劇場の空気を震わせていく。

 幾千(いくせん)もの視線が私に注がれているのを、肌で感じる。


「誰だ?」

「あの声は一体……」


 そんな囁きが微かに耳に届いてくる。


「待て……この声……エルか!?」


 アルト殿下は最初の数小節で気づいたらしい。

 何やらアイリス嬢と顔を青ざめながら慌てている。


 だけど、私は構わず歌う。

 この歌は、世界への憧れを、嘘偽りない気持ちで紡ぐもの。

 世界への憧れと、苦しみや傷ついた過去を超える意思を紡ぐ旋律。

 草原を抜ける風、知らぬ土地の温もり、命の尊さ、友情、光。偽りの賛美を捨て、私の本心だけを音に乗せる。


 カイが竪琴を爪弾きながら目で励ましているのがわかった。彼の伴奏(ばんそう)もさらに広がりを増す。

 すると、不思議な風が舞台上を駆け巡り、私の被っていたフードがふわりと外れた。慌てて手で抑える余裕もない。そのまま、素顔が露わになる。

 けれども、私は歌い続ける──


『蒼い海へ、翡翠(ひすい)の森へ、

 水晶の湖、紅蓮(ぐれん)の砂漠

 冒険者(たびびと)たちが紡ぐ夢──♪』


 私はまだ知らないけれど、隣にいてくれる彼が教えてくれた、世界の広さを。

 きっと、今も傷つき、戦い続けている世界中の冒険者たちへ。


 私の声は、まるで透明な小川の流れのように、客席へと染み渡っていく。

 最初はただ静かだった観客たちが、少しずつ表情を変えているのが感じられた。

 息を詰め、やがて静かな感動へと移り変わる空気。


 全員が、耳を澄ませ、目を丸くしている気配がする。


「なんて綺麗な声……」

「ああ、なんだか心が洗われるようだ……」


 そんな微かな声が、私の耳に届く。


(やっぱり、私の歌は届くんだ)


「────ッッ!!」


 前の席の方が騒がしいが、気にしない。


 今更何をしようと、もう遅い。今この舞台には第一王子や第二王子といった王族たちもいる。

 さすがのアルト殿下でも、ここで私を力ずくで止めることはできない。

 私の歌が、ゆっくりと人々の中に染み込んでいくのを、見守るしかないのだ。


 私はさらに想いを込める。

 民衆が植え付けられた不自然な崇拝(すうはい)を捨て、自らの判断を取り戻せるように。

 心の奥底から湧き上がる願いを、音に溶かして紡いでいく。


『さよなら、愛に壊れた過去の私よ

 想像上だった世界に、私は旅立つ──♪』


 最後に私は、かつて壊れるほどに愛したアルト殿下に向けて、歌い切った。

 さようなら。

 私が好きだった人。


 シン、と一瞬の静寂の後。

 客席からは、小さな拍手が起こり、やがてそれは大きな拍手へと変わっていく。

 私は舞台上で膝を震わせながらも、必死に立ち尽くしていた。歌い終えた途端、まるで全身が軽くなったような開放感がある。


 カイは舞台中央に進み出ると、竪琴を手に軽く頭を下げた。そして、観客席を見渡しながら、ゆっくりと語り始める。


「皆さん、いかがでしたか? 彼女の歌声に心を動かされた方も多いでしょう。私も彼女の才能には目を見張るものがあります。彼女こそが、この国に生まれた奇跡の歌姫、エル・ラヴェル侯爵令嬢です。」


 私の名が明かされた瞬間、観客席がざわつき始める。

 ちょっと、やめてよ。奇跡なんて。


「ラヴェル侯爵家の令嬢……?」

「彼女が、こんな舞台で……?」


 カイは続けて、観客たちのざわめきが収まるのを待つと、柔らかい笑みを浮かべながら言葉を紡いだ。


「しかし皆さん、思い出していただけませんか? 最近、この国で『第三王子アルト殿下がいかに素晴らしいか』という話が、やけに多く聞こえてきませんでしたか?」


 その言葉に、会場のざわつきが再び広がる。


「確かに、最近アルト殿下の話ばかり……」

「でも、それは……自然と皆がそう思っただけでは?」


 私はその様子を見ながら、心臓が激しく鼓動するのを感じた。怖い。でも、カイの後ろ姿が、まるで私を守る盾のように思えて、足が震えるのを抑えられる。

 カイは一歩進み出ると、静かに首を振った。


「残念ながら、それは自然に起きた現象ではありません。彼女の婚約者であるアルト殿下は、エル嬢の歌声に特別な力があることを知り、それを利用していたのです。」

「利用だと……?」


 観客たちが騒ぎ始める中、カイは静かに私を振り返り、優しく目を合わせた。その視線に背中を押されるように、私は震えながらも一歩前に出た。そして、絞り出すような声で語り始める。


「……私は、アルト殿下の婚約者として、ずっと彼のために歌を紡いできました。ですが、彼はその歌を……私の歌声を、魔道具を使ってこの国中に拡散し……国民の心を操っていたのです。」


 自分の口からこの言葉を発することが、どれほど勇気を要することか。それでも、私は舞台の上で立ち尽くし、言葉を続けた。


「皆さんが聞いていたのは、私がアルト殿下を讃えた歌。その歌には、聞く人の心を動かす力があると、彼は気づいていたのです。そして、その力を利用して皆さんに……彼を不自然に支持するよう仕向けたのです!」


 観客席がざわつき、動揺の色が広がっていく。

 なぜ、こんなにアルト殿下を崇めていたのか、はっきりと答えられない。まるで今まで夢を見ていたかのような表情になり、次第に「なぜ、あれほどまでアルト殿下を…」という囁きが客席全体に広がり始めた。


「そういえば、アルト殿下があれほどまでに支持される理由って、明確だったかしら……?」

「私も、いつの間にか彼を絶賛していたが……実績はあの二人の王子殿下ほどでもないのに」

「では……本当に我々は彼の言う通り……」


 人々の記憶は曖昧だ。気づけば、アルト殿下を称えろという声がいつも周りに溢れていた。

 しかし、私の歌を聞いた直後では、すでにその膜は剥がれ落ち、冷静な判断力を取り戻している。


「嘘だ! 馬鹿げたことを! こんな無礼な話、聞き捨てならん!」

「殿下、落ち着いてください。この場で騒ぐのは得策ではありませんわ」


 彼の隣にいるアイリス嬢は、驚きながらもアルト殿下の腕にしがみついている。


 私はその二人の様子を目にした瞬間、胸の奥から熱いものが込み上げてきた。自分を利用し、裏切っただけでなく、こんな場面でも他の女性と寄り添っているなんて。

 カイが軽く竪琴を鳴らしながら、余裕たっぷりの笑みを浮かべる。そして二人を見下ろすような視線でこう言った。


「殿下、それとハーリントン伯爵令嬢。二人は随分と仲がよろしいのですね。色までお揃いの服装とは、大変お似合いですよ」


 その言葉に、アルト殿下は顔を真っ赤にして激昂した。


「貴様……ふざけるな!」

「殿下。こんなところで熱くなるなんて、品がありませんわ。」


 アイリス嬢はそれでも離れなかった。

 どういう女なんだ。

 そのやり取りを見た瞬間、私は震える声で叫んだ。


「アルト殿下! 私はもうあなたの言いなりにはなりません! 私は、今ここであなたとの婚約を破棄します!」


 劇場中が静まり返る。私は震えながらも続けた。


「あなたが私を裏切り、私の歌を利用し、人々を欺いたこと……絶対に許すことはできません。もうあなたのためではなく、自分自身のために歌います!」


 私がそう告げた瞬間、観客席から「おお」と声が上がった。

 アルト殿下は何かを言おうとして一歩前に出るが、その瞬間、第一王子ヴェルナー様の冷たい声が響いた。


「アルト、ここで騒ぐな。話は後でゆっくり聞かせてもらうぞ」


 続けて、第二王子ユリウス様も立ち上がり、弟の肩に手を置く。


「弟よ、余計なことを言う前に、我々と来い」

「兄上! 騙されるな! その男とあの女は結託している!」


 アルトが喚くが、ヴェルナー王子は冷ややかな眼差しを向ける。


「アルトよ、見苦しい。現に我々は、既にあの歌姫の歌を聞き、お前に対する疑念がさっきから浮き彫りになってきているのだ。真実を明らかにするため、お前とアイリス嬢には後日、正式な調査を受けてもらう。もし魔術で人心操作を行っていたなら、それは王位継承を歪める重大な罪だ」

「……っ!」


 アルト殿下は歯噛みし、蒼白な顔で震える。観客たちはもう彼らを絶対的に信じてはいない。

 むしろ、どうしてこんな不自然な支持をしていたのか理解できず、困惑しながらも、私の歌を境に正気を取り戻したことを感じているようだった。


 二人に挟まれ、アルト殿下は唇を噛みしめながらも押し黙り、そのまま劇場を後にした。

 アイリス嬢も渋々とついていく。


 劇場が静まり返る中、カイが一歩前に出て再び観客に語りかけた。


「皆さん、どうかご安心ください。エル嬢の歌には確かに人々の心を動かす力があります。しかし、今彼女はその力で誰かを操ることなどしていません。皆さん自身の自由な意志で、誰を支持するかを決めてください。それが、この国にとって本当の未来を作る一歩となるでしょう」


 彼の言葉に、観客から再び拍手が巻き起こる。それは先ほどよりも力強いものだった。

 カイが私の肩に手を置く。


「よくやったね、エル」

「カ、カイ……私、やりました……」


 思わず涙が零れる。今度の涙は恐怖や絶望ではなく、解放と安堵(あんど)の涙だ。

 私の歌は、アルト殿下の不正を暴き、人々の目を覚ました。


 そして、あの時夢見た世界への扉が、今静かに開かれているような気がした。

 この国を出て、世界を旅しようと決めた。

 あの日カイが歌った詩に魅了され、私もいつかあの水晶の湖や灼熱の大地を見てみたいと思った、あの子供の頃の気持ちが、今になって胸の奥で生き生きと蘇っている。


 王族の目の前で真実が示された今、いずれ正しき裁定が下されるはずだ。アルトとアイリスには、相応の罰が与えられるだろう。因果応報といえる結末が待っている。


「さぁ、皆の者、これで本日の演奏会は幕を閉じよう。しかし、この歌姫が示した真実は、これからの我々に大きな問いを投げかけるものだ。偽りの崇拝ではなく、本当の美しい声に心を預けるべきか否か……」


 司会者がそう締めくくると、改めて大きな拍手が沸き起こる。その拍手は私に向けられている。私が踏み出した一歩は、嘘の愛を捨て、真実を掴み取るためのものだった。


 カイは目を細めて手を差し出してくる。

 私は無意識にエスコートに応えた。


「いこうか。エル」

「はい!」


 そカイは私に笑顔を送る。私は心からの笑みで頷いた。

 ステージから去る最後の一歩が、これからの私の新たな人生へと繋がっている気がした。


「エル、これで君は自由だ。これから、どうする?」

「まずは両親と話をして、その後は……いつか、世界を旅してみたいです。あなたみたいに、世界を見て、それを歌にしてみたい」

「じゃあ、どこかの大陸でまた会おう。その時は、お互い新しい歌を交換しようじゃないか」


 その言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなる。別れを惜しむ気持ちがわき上がるけれど、彼がそう言うなら、きっとまた会えるはずだと信じたくなる。


「はい、ぜひ……その時は、もっと素敵な歌を紡げるようになっていますから!」


 笑顔でそう返すと、カイはふっと笑い、私の顔をじっと見つめた。

 その視線に、思わず少しだけ視線を逸らすと、不意にカイが一歩近づき、私が驚いて顔を上げるよりも早く、彼の唇が私の頬にそっと触れる。


「……っ!?」


 頬に伝わる、ふわりとした感覚。気づけば顔が勝手に熱くなり、真っ赤に染まるのが自分でもわかった。


「なっ、なにを……!?」

「別れの挨拶さ。旅人同士の習慣みたいなものだよ。」


 さらりと言うカイの表情は、どこか悪戯っぽい。それでも、頬の熱が引かない私は、思わず視線を逸らして言葉に詰まる。


「そ、そんな習慣、聞いたことありません……!」

「あはは、だろうね」


 私が抗議しようとするのを遮るように、カイは軽く竪琴を弾いて立ち上がった。


「じゃあ、エル。またどこかで」

「……またどこかで、ですか」


 軽やかな足取りで去っていくカイの後ろ姿を、私は目を見開きながら見送った。

 頬に残る熱を両手で押さえながら、私は小さく呟く。舞台の上で決めた新しい旅立ちが、さらに胸を高鳴らせるようだった。


 いつか、あの人と歌を交換できる日が来る。

 その時は、もっと広い世界を知った私でありたい──そう心に誓った。



 ◆ ◆ ◆



 あれから、全てが落ち着くまでにはいくらかの月日がかかった。

 アルト・エグランティア殿下は王家の裁定により、王位継承権を事実上剥奪され、彼と通じていたアイリス・ハーリントン伯爵令嬢も爵位を失い、遠く閑散とした領地で厳しい監視下に置かれることになった。

 第一王子ヴェルナー殿下と第二王子ユリウス殿下は、国中に散らばる不正の痕跡を浄化するため、地道に改革を進めている。いつか彼らがこの国を、より良き方向へ導くだろう。


 私の両親も始めは私を疑っていたが、真実が明らかになり、詫びてくれた。

 穏やかな食卓を囲み、これからのことを率直に話した。旅に出たい、世界を見てみたい。

 もちろん最初は驚かれたが、やがて父は「お前が自分自身の声を信じるなら、それもまた道だ」と承諾してくれた。

 こうして、私は自由の翼を得た。


 季節は移ろい、ほどなくして、私は旅立ちの日を迎える。

 あの日から、私は壊れた玩具(おもちゃ)のように、彼のことを思い出しては歌を紡ぐ。

 惚れやすいな。とは自分でも自覚してるが、歌わないと心がザワザワしてしまう。

 けれど、前のように歪んだ愛の歌ではない。彼が今どこで何をしているかを、想像の中で紡いでいく。


 王都の門を出て、草原を渡る風に身を委ね、心の内に紡いだ詩を口ずさむ。紺碧(こんぺき)の海を越えた先に、灼熱の大地や、水晶の湖があると旅人たちは言う。

 幼い頃、とある旅人の歌に憧れ、いつか私もその景色をこの目で見たいと思った。

 今はその夢が、ほんの少しだけ近づいている気がする。


 清々しい朝の光を浴びながら、私は小さく歌う。

 歪んだ愛はもう過去のこと、けれどその痛みさえも、新たな詩へと生まれ変わる。

 私の声は、もう誰かに利用されるためではない。ただ真っ直ぐに、世界へと解き放たれていく。


 風が髪を揺らし、小鳥が(さえず)る。

 彼がいつかどこかの大陸で待っているかもしれない。再会したら、一緒に歌おうと約束した。今はまだ遠い未来のことだけれど、歩み続ければ、きっと辿り着けるだろう。


『〜♪』


 澄んだ声が、新しい一歩を刻むように響く。


 遥か彼方まで広がる草原の向こうへ、海を超えて──

 歌うほど、壊れるほど、恋焦がれたあなたに向かって。

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