A 動き
第一の園の課題が終わり、自身の透明な部屋へ戻ってきた。少しの休憩を挟んだ後、勉強時間となった為凪咲は勉強を淡々と繰り返していた。
「教科書に齧り付く孤独な時間は、虚無感を感じるね。授業というものがあれば、虚無感も何もありはしないだろうに……いや、授業だと置いていかれる生徒と早すぎる生徒で格差が酷すぎるね〜…」
この施設において、授業というものは存在しない。というのも、定期的に配られる教科書にはよくある疑問点に対する回答や、余りにも丁寧に解析された解説が存在する。その上、凪咲は教科書で理解できる分必要が無い為使わないが、擬似的な授業を動画で繰り返し行える端末機器もある。
勉強というものが一人で行えるよう形式化されており、授業というものが必要ないということだ。
勉強で補えない思考力や機転、人間性については第三層でカバーされている。思考力や機転、人間性について教科書等で形式化されていないのは、まだこの施設が未完成である証拠だろう。この施設が完全に完成すれば、そのうち第三層の課題すら必要無くなるかもしれない。
「ま、そうなる前に…」
独り言をポツポツと呟いていると、監視役からの視線を感じる。静かにしろ、という監視役からの無言の圧力だ。
「ヘーイ。ごめんね〜」
勉強時間中、一言も喋らずにやれという命令は下されていない。しかし、人間は集中すると自然と静かになるもので、凪咲以外の人間が喋っている所は滅多に見ない。
「あ、そうだ、監視役」
机に向き合おうと顔を動かしたが、もう一度監視役の方へと顔を戻す形で振り向いた。監視役は普段通り、無表情のままだ。
「なんだ」
「デートしない?昼休み、昼食ぱぱっと済ませてさ。どうせ監視役も食べるのに大して時間掛からないだろう?」
監視役の昼食は凪咲と共に配給される形だが、共に食べる訳ではない。第四層から去り空いている子供の部屋を活用したり、朝・昼担当の監視役達が一時的に夜担当の監視役とそれぞれ交代してもらい第二層へと食べに行ったりと、大体はそんな感じだ。
ただ、凪咲の監視役やNo.5内に入る子供達の監視役は大抵空いている部屋で食べている。自身が担当する子供が高いナンバーであればあるほど、監視役の警戒心が高いのは当然のことだ。
「……断る、と言ったら?」
「え〜?寂しいねー?夜はかまってちゃんなのにね〜…」
「……」
夜眠った後、凪咲は肩を叩かれて意識を覚醒させた。凪咲が起きた場面は子供を特定する決定的な場面、意図があるとしか思えない。
「別にこのくらいはいいだろう〜?」
「………」
無言を貫き通してはいるが、拒否の言葉がない以上監視役なりに肯定を表している。いや、もしそうでなくとも凪咲は連れて行く覚悟を持っている為、監視役は監視役で諦めの感情を瞳に込めている。
「…昼食は手早く済ませろ」
「は〜い」
勉強時間の終了まで適当に時間を潰そうと、教科書に目を通して適当な問題を解いた。適当な問題を解いていることは目に見えてわかりやすく、偽装とは言えない雑な対応だった。が、問題を解くことよりも、監視役との会話を行う場所について思案する方が大事だと判断する。
監視役と会話をする以上、ある一定のラインまで目をつけられるのは仕方のないこと。しかし、第五層に送られる程の警戒は避けなくてはならない。
これまで凪咲は元々問題児として認識されているが、No.1としての実力を曝け出し、施設にとっての凪咲の存在価値を上げたこと。ある一定のラインを超えた問題行動は避けることで、第五層へ送られる程の問題児ではない判断を施設に取らせていた。それを忘れてはならない。
「監視役〜」
「……」
「避難階段…もしくは非常時用のエレベーターって、何処にあるんだい?」
「子供達の避難経路は普段使っている階段だ」
「いやいや、言い方が悪かったね。監視役や指南役、研究員の避難経路さ」
このような大規模な施設において、避難経路が無いことはありえない。避難経路の確認をすることは何も悪いことではないが、監視役の避難経路を聞くことはやはり警戒の範囲には入ってしまうだろう。それこそ、妨害工作か何かと考える可能性も否定はできない。
しかし、監視役の目が常に届いているのならば、そこまで問題にはならないだろう。
「……」
「後でお話ししようねー、監視役〜」
監視役の気配に向かって、適当に手を振った。小さな監視役のため息が凪咲の耳に届く。
____________________________________
「モゴモゴ…」
昼食を落ち着いてゆっくり噛みながら大急ぎで食べる。矛盾しか存在しない言葉を頭に反芻させながら、相変わらず味気ない栄養たっぷりの食事をした。
避難経路についての紹介は、昼休みに監視役がやってくれるように無理やり頼み込んだ為、嫌がりながらも承諾。監視役は凪咲の意固地さに誰よりも近くにいた分理解があり、こういう場面においてはすぐに折れてくれる。
「モガ…モグ……?」
視線を感じるが、視線の先にある気配の位置はわからない。監視役からの視線かと監視役の様子を一瞥してみるが、監視役が静かで礼儀正しいことだけがわかる。
どうやら違うらしい。視線を探ると、その視線の先は子供だった。
「…ん?蓮?愛の告白かねー?」
凪咲が視線を合わせて、気づいた合図としてウインクを返すと鬱陶しそうに目を細める。凪咲が視線を合わせても鬱陶しそうにするだけで、蓮の方から視線を外す様子が無い所を見ると、『昼休みに用がある』と伝えたい無言の圧力だと推測。
伝わったことを教えるように軽く頷くと、満足したのか蓮は視線を外す。監視役との約束の後に会話をすることを蓮へ伝えよう、と考えてから昼食を胃へと送り込んだ。
「ご馳走様でした〜っと」
両手を合わせて、礼をする。本心から食事に対して感謝をしている訳ではないが、人間としての一つの習慣だった。
食器が片付けられたことを確認した後、立ち上がる。監視役が凪咲の部屋へと向かってくる所で、ついてくるよう視線を送った。蓮が此方へくる前に、凪咲の方から蓮の部屋へ向かう。
「お前の方から来るとはな。どうせ部屋でダラダラ寝っ転がってると思ったが」
「うんうん、ちょっと報告しなくちゃいけなくてね。ほんのちょっっと用事があって、お話はその後でお願いできないかな?」
「…は、問題ねぇよ。こっちの用件は、どうせ時間のかからねぇ話だ。数十秒で片付く」
「む?」
蓮から凪咲へ持ちかけられる話は毎回簡潔で、凪咲と進んで話をしたがる性格ではないことは周知の事実だが、今回は少し特殊なケースだった。通常、蓮が凪咲へ話を持ちかける際は凪咲が偶然通りかかった場面で話しかけ、半ば報告のような話が多い。
しかし、今回は偶然通りかかった訳ではなく、わざわざ無言の合図をしてから呼び出しをしている。その特殊さから、凪咲は蓮にしては珍しく長話をすると予測していたのだが、凪咲の思考を読んでいたようにそれを真っ先に否定された。
凪咲が頬を膨らませ、不満そうにジト目で蓮を観察する。
「むー、まだ私は蓮への分析が未熟だねー…」
「お前に分析されたかねぇよ、気持ち悪りぃ。……実験動物を見るような目で見るんじゃねぇ」
凪咲から向けられた全身に纏わりつく視線を鬱陶しがり、しっしっとでも効果音が付きそうな手で追い払う仕草を見せる。
「さっさと会話を終わらせる。そっちも用事があるんだ、都合が良いだろ?」
「ま、私個人としてはこのまま話してても全然構わないんだけど、ね〜…」
凪咲が首を動かし、軽く背後を覗く。
「監視役からの視線が、ちょっと痛いかなー」
監視役の呆れが含まれる視線を痛い程に浴びている。すぐに終わるらしい蓮との会話を終わらせて、さっさと避難経路へ向かってしまわないとお叱りを受けそうだと感じた。
お叱りを受けても凪咲的には全く問題ないが、蓮が間違いなく面倒事を避けようと嫌がるだろう。避けようと嫌がれば、本来話す筈だった情報量を減らされるかもしれない。
いや、数十秒で終わる話であるならばその心配は無用だね、と凪咲が微笑んだ。
「お前は何故外を目指す?」
うんうんと頷きながらも蓮について一人思考の沼に嵌っていると、全てを取り払うように鋭い声が凪咲を貫いた。貫くと同時に、凪咲が首を傾げる。
「…ん?そんなことかい?もっとこう…好きなタイプとか、大事なことを聞きたいのかと思っていたんだけどねー?」
「そんなこと、で済ます話ではねぇだろ。お前の動機は分かりやすい他のガキと違って知らねぇんだよ」
「私はわかりやすい方に分類される人間だと思うんだがねー」
蓮が狡猾さを滲ませる瞳と共に、口に弧を描くとよく見る冷笑へと変化する。
冷笑がよく似合う退廃的な美しさを感じるが、果たして『冷笑がよく似合う』は褒め言葉になるのか。凪咲は口を結んでおいた。
「…フン…それに、お前に話しかけたのは、お前が外に出たがってるっていう遠回しの言質を取る為でもある」
「あーなるほど〜?別に隠すつもりもないから、直接聞いてくれてもよかったのにね〜。うんうん…」
頷いて妖しく笑うと、凪咲が真面目に答える気が無いと解釈したのか、睨みつける鋭い視線が刺さる。
少なくとも、この場において凪咲は誤魔化すつもりはない為、完全なる誤解だった。
「お前が外を目指す理由はなんなんだ?話の脱線はさせねぇよ」
「へへ〜、真面目な話は苦手なんだよねー。好きなタイプでも話さないかい?」
蓮の呆れそのものを表すように、額に手を当てる。蓮は先程から小さな身じろぎが目立つようになってきていた。
恐らくは、会話を退屈だと思っているのだろう。凪咲が寂しさを滲ませる表情をわざとらしく見せつける。
「話さねぇよ」
「ハッ…もしかして私が好みのタイプで話せないのかい?それは悪いことをしたね…」
「死んでもお前だけは選ばねぇよ、安心しろ。さっさと話せ、そんなに死にてぇか」
「ついつい話を引き延ばしてしまうのはご愛嬌なのさ」
凪咲が軽く頬をかいた後、聞き入れてもらう為の真剣な空気を表面上形作りながら、静かに目を閉じる。目を閉じた凪咲は平衡感覚を失った人間のように、左右へ上半身を揺らした。『んー』『あはー』とわざとらしく声を出しているなんとも不気味な姿だったが、しばらく経ったその後突然目を開ける。蓮が反射的に身構えるような硬直を一瞬示した。
「蓮。何故、人間は月を目指したと思う?」
「…あァ?」
突拍子もない一言、質問に蓮が眉を顰める。少しの間思案した後、凪咲を探るような視線を向けるがすぐに諦めを含む息を吐いた。
諦めの感情がこもった声色で、半ば独り言に近い形のまま口に出す。
「……科学技術の発展。詳しく言うなら、惑星への解像度を高める情報や、資源の確保等の影響による技術向上を通した上で、人間という種族の継続性安定化…辺りじゃねぇか?」
「あはは、それもそうだね〜。人間という同族を生かそうとするのは、生き物として当然の行為だからねー。…でも、私が言いたいのはもっと単純明快、簡単なことさ」
足音を立てて蓮へと近づき、肩に手を置く。凪咲の影が蓮へと差し掛かって、纏わりつく影と相対的によく瞳が映える。
「好奇心だよ」
「……はあ?」
「人間の原動力…発展の裏には必ず『好奇心』があるのさ。ああすればこうなるかもしれない、こうすれば一体どうなるのか」
凪咲の影が蓮の身体を離れ、裾を翻しながらくるくるとガラスの空間を彷徨う。
「月や宇宙、星の存在は知っていても、その未知なるお味は実際に行ってみないとわからないだろう?それと同じさ。確かに外を知っていても、私は外を知らないのさ」
「……あ?たった、それだけか?」
「それだけ?いやはや、何を言ってるんだい。それだからこそ、だろう?好奇心だからこそ人間はここまで動けるものなのさ」
身体の動きを止め、再び蓮の方向へと向き直す。蓮の表情は何処か鬼気迫るものを感じる程、何かの感情に駆り立てられているようだった。
果たしてその何かの感情が凪咲へ向けられたものなのか、はたまた別の何かに向けられたものなのかは蓮だけが知り得る事実だろう。
「気持ち悪りぃな。好奇心だけでそこまで動けるのは、天才故かお前だからか…は、机上の空論か。チッ」
「あは、それは難しい議論だね〜。天才ではない私は私とは呼べないさ。間違いなく、私を構成する一つの要素だからねー」
「……」
考え込むような仕草を話しながら見せつつある。が、凪咲を改めて認識すると、一度中断して視線を合わせる。
用済みだ、もしくは邪魔だどけ、とでも言いたげな無言の空気感を発していた。それを無視して凪咲が蓮を観察し続けると、蓮が耐え切れずに口を開く。
「……まあいい、俺の用事はこれだけだ。帰れ」
「ええっ、冷たいっ…こう、もっとほら、考え込んでばかりでそこまで面白い話してないじゃないかぁ〜!好きなタイプとか…」
「どんだけ好きなタイプ話してぇんだよ、くだらねぇ、帰れ、鬱陶しい」
「……」
蓮がそう吐き捨てると、監視役が凪咲を連れ出し、廊下へ引き摺り出す。
「…うーん、凄いデジャヴ」
結局好きなタイプは話せなかったねー、と監視役へ小さく話しながら、監視役との約束を果たしについていった。
____________________________________
「……あれ?おかしいな…」
楓が借りていた本を返す為に図書室を訪れた際、ついでに瑠衣に挨拶でもと周囲を見渡す。
瑠衣は普段、昼休みに図書室で本を読むか勉強をしている。いつも同じ所に座っていて同じことをしている為、もはや置き物の一つとすら錯覚できてしまう程だ。瑠衣に勉強を教えて貰おうと図書室を訪れる子供もいるくらいで、一部の人間からは座敷童子とすら呼ばれている。
実際、勉強を教えることで競うならば誰にも瑠衣には勝てず、瑠衣が教えた暁には間違いなく学力向上に大きく貢献できる。座敷童子のような福を齎す効果に対しては否定できない。
ただ、瑠衣本人が誰かを引き寄せない雰囲気を漂わせている為か、教える人数は圧倒的に香奈の方が多い。それを楓は少し勿体無いと思っている。
「珍しい…」
定位置を確認すると、瑠衣がいつも通りの定位置で勉強_____していなかった。本も勉強道具も中途半端に置いてあるだけの机、瑠衣の表情を見ると意識が上の空であることを如実に語っている。瑠衣が元々纏っている誰も引き寄せない空気が色濃く漂っており、周囲にいる人間の戸惑いが楓へ漠然と伝わってきていた。
楓がこれまで図書室に行っていた中で、このような出来事は初めてだった。
「どうしたんだろう…」
瑠衣の様子を窺いながら、本を返した後に瑠衣へ近づく。楓の近づいてくる足音に気づいておらず、焦点の合わない瞳で何処かを一点に見つめていた。
「…瑠衣?」
「…?あぁ」
肩を軽く叩いて話しかけると漸く楓の存在に気づいたのか、覇気のない声色で楓の言葉に応える。
「えっと、疲れてる…?ごめんね、話しかけちゃって…」
「いや、気にしないでくれ。こちらこそ気づかなくてすまない」
首を左右に振り、巡らせていた思考を無理やり払う形で楓へと意識を向けた。楓が瑠衣に向き合う形で空いていた椅子に座り、心配そうな面持ちで瑠衣と目を合わせる。
「どうしたの?瑠衣が何もしてないなんて珍しいね。いつもは…その、何かに追われているみたいにてきぱき?してるというか…」
「てきぱき、ではないが…何かをしていないと落ち着かない性分なのはそうだろうな」
楓に疲労のため息として認識され、できる限り心配されることが無いよう小さくため息を吐く。
もう既に心配されており、殆ど意味を為さない虚しい努力だったが、瑠衣のプライドの問題だった。
「……ただ、第三層の課題について考えていただけだ」
「……」
「前回の第三層の課題『宝探し』において、俺は完全についていけていなかった。上手く言葉にはできないんだが……不安になったんだ」
瑠衣は元々No.2の冠を持っていた立場で、現在も堅実に良い成績を保ち続けている。もし落ちたとしても、次には必ずNo.2へ這い上るような実力と向上心を持っており、将来性に大した問題は見られない存在___だった。
「俺自身の限界……底が見えてきたような気がしてならないんだ」
「そんなこと…だって、瑠衣は勉強も、運動も……教えることも、この施設全体において頭一つ飛び抜けてるんだよ。もっと誇ったって…」
「………No.3の、楓が言うか…」
瑠衣はここまで課題に追いつけなくなったことは無かった。元No.2として香奈や楓の一歩前へ進んでいた筈が、いつの間にか先へ先へと周りの人間が歩んでいる。その兆候は瑠衣にとって、すごろくゲームの時から密かに感じ取っていた。静かに、小さく____そして確実に芽生えている恐怖心。
瑠衣は独り言を垂れ流すように、俯きながら聞こえるか聞こえないかの声量で言葉を口にする。
「…天才と、秀才。この施設において、優遇されるのはどちらだと思う?」
「え…?」
「…忘れてくれ」
瑠衣が楓を置いて、その場から立ち上がり図書室を早足で立ち去る。昼休みはまだまだ時間があるというのに、瑠衣が図書室から早足で出てくる場面を目撃した子供達は驚きの表情を見せていた。
「……瑠衣?」
弟のような楓と、兄のような瑠衣。それが今だけは、天才の楓と秀才の瑠衣。物理的な距離も相まって、楓と瑠衣の才能の差を表す壁を感じ取った。