A 大規模育成課題①
正確な体内時計に従い、起床。机の上に置かれていた朝食を食べ終えた凪咲は、ベッドの上で悠々自適に寛ぎながらも朝の放送を流される時を待っていたのだが───
「んー?おかしいねー。珍しく放送を流すのが遅れているように感じるよ。むむむ」
凪咲の体内時計に訊いてみても、普段通りならそろそろ放送を流されていてもおかしくはない時間帯。
ガラスの仕切り越しに、動揺している子供達の様子がないか凪咲は水面下で窺ってみる。凪咲の目に違和感を抱いている様子は確認できなかった。
「まぁ、それは仕方ないか〜」
凪咲のように確実な体内時計を持っている子供など、そう簡単に存在するはずもない。些細な時間の違い程度で違和感を抱く凪咲の方が、この錚々たる面子の中でも屹立する常識はずれであることを意図せず再自認。魚網鴻離という形で経験値を積み上げ、学び直す羽目になった。
『起床時間だ。第四層にいる観察対象は第三層の園へ向かえ。指南役も同じく第三層の園へ、研究員は第二層にて観察対象のデータを────』
凪咲は普段よりも少々遅れた、スピーカーを媒介として聞こえる朝の放送を聞き流す。漸くとでも言わんばかりに、ベッドから両足を降ろして力強く立ち上がった。廊下を移動し始める子供達と共に第三層の課題へ向かう。
「香奈、目が寝てるよ…?その、危ないから、目は開けて…」
「…ん」
「香奈ー…危ないってば、うーん…」
課題へ向かう廊下の先、凪咲の双眸に捉えられた二人がいる。
凪咲の双眸に映るのは───威厳ある普段の佇まいからは考えられない、微睡みに浸る香奈の不安定な足取りに、眉を八の字に下げている楓が声を掛け続けていた姿。通常であれば香奈を敬愛する人間か、ただ一人で監視役を頼りに歩いていることが多い香奈だが、今回は楓を連れている。
その光景を確認した凪咲は珍しく楓の方からではなく、香奈の方から楓を頼ったと推測した。関係が拗れた瑠衣の件で楓の精神的なケアを積極的に行いたい、香奈なりの考えなのだろうと結論付けている。
「香奈ー。眠い時見境なくキス魔になるのやめようよ〜…あと、やっぱり目は開けてー…怖いよー」
「ん〜…」
「な、何言ってるのか全然わからない…」
寝惚けて不安定な香奈を相手に苦戦している楓は、まごつきながら何とか支えようと芯の弱い決心をして、香奈の左手をとり楓の右肩へと固定する。
「ふぁぁ…」
「随分と眠そうだね〜、香奈」
小さく欠伸をした香奈と支える楓に凪咲が接触。すると、身体を弱々しく一度震わせた後、急激に香奈の意識が覚醒する。寝惚けていた様子から一転、鋭い牽制が凪咲に突き刺さった。
「…何?」
「わーお、怖いな〜香奈。一緒に行こうって言おうとしただけだよ〜」
「不裁可。以上よ、女狐」
「酷いねぇー!?向かう先は同じさ〜…ダメなのかい?」
「人の身を惑わし規矩を望まぬ度し難い女狐と、瑣末な談笑を交わすことは愚行でしかないわね」
「ま、まあまあ…落ち着いて、二人とも」
香奈と凪咲の会話に仲介し、楓は凪咲を蛇蝎の如く嫌悪する香奈の感情をこの場から剥離させようと奮闘している。奮闘の結果は芳しくないが、楓の努力により香奈がこれ以上の嫌悪を押し付け、侃侃諤諤と口論を繰り広げる最悪の事態だけは未然に阻止できそうだった。
楓は安堵と諦念から来る錯綜とした思考を詰まらせないよう整頓。未だに克服できずにいる、嫌悪を精神に馴染ませていた他人の態度から意識の淵藪を逸らす。
凪咲は楓の必死な仲介を好機として捉え、目を炯然とさせながら瞬いた。
「瑣末な談笑ではないかもしれないよ〜。ちょっとだけ聞きたいことがお二人にあるのさー」
「───へぇ?身の程を弁えた愉快な進言であれば、斟酌を含め裁可を賜ることも視野に入れておいてあげましょう。せいぜい、篤と趣向を凝らしなさい」
「あはは、わかったよ〜。……別に怖いことを言いたいわけではないんだがねー、二人は今日何か違和感を感じたりしたかい?」
「……ん、と…?何に、かな?」
「───?」
観察による結論が正しいかどうかを確かめる為、凪咲はわざと概略的に訊いてみた所、時間への違和感を感じられていないと確信を持つ。敷衍の言葉を使おうとはせず、梨の礫と化した凪咲に香奈と楓は顔を見合わせる。
「わからないならわからないで構わないよー。私の勘違いだね〜」
「価値の有無は主観的な物なんだし、その…話してみてもいいと、思うけど…」
「いや、話さなくても良いと思ってねー。私が抱いた疑問の答えは、もうすぐわかるかもしれないし〜」
凪咲は緩やかに関心を階段の先へと収斂させて、その先の空間に存在する朧げな未来へ嫣然と微笑みかけた。凪咲の微笑みには生粋の好奇心による色が帯びている。
凪咲の様相を窺っていた楓は少しの硬直を携え、香奈は凪咲が向ける関心の矛先に対して警戒を覗かせていた。
「もうすぐって…もしかして」
「女狐が指している『答え』とは、第三層に顕在化しているのね」
「うんうん、そうだね〜。そうかもしれないよっていう可能性のお話ではあるんだけどー、現時点ではそうだと思ってるよ〜」
『もうすぐ』という曖昧なヒントに、すかさず優れた洞察力を発揮する香奈と楓。凪咲の疑問を具体的な形で理解しているわけではないが、第三層の課題に対する警戒を高めたことは良い兆候だと凪咲は評価する。
凪咲の近くにある楓の頭を遠慮なく撫で回した。
「わわわわわ」
「いいね〜君達、よく頑張ってる頑張ってる!良い子達だね〜」
「うぅ、子供扱い…?いや、子供扱い…なのかな?」
「鎬を削り合う檜舞台が眼前まで迫った人々を俎上の魚扱い───澱みを湛えたその炯眼。啓蟄の候に蟄虫が一枚地を隔て、蠢めく不快感があるわ」
「遂には蟄虫扱いなのかい…?女狐を凌駕しちゃってるよー、香奈ー」
凪咲は大仰に肩を落とし、落胆を滲ませた声を喃々と垂れ流していた。
───凪咲は元々万人受けの性格ではないのだが、香奈に興醒めと見限られているのにはそれなりの問題がある。楓は香奈が凪咲を忌避している原因を一つの情報として記憶している為、苦笑しか溢れない。
「ん?どうかしたのかい?」
「あはは、えっとね、ううん。なんでもない」
「……」
そんな楓の思惑も露知らず、凪咲から発せられた不変の間延びした声色。その声、言葉、存在全てを姦しいと一蹴、歯牙にかけようともせず香奈は第三層の廊下を闊歩した。香奈の後を追いかけて、凪咲と楓も歩調を合わせながら廊下を歩む。
「えー、気になるね〜。なんでもないって気になっちゃう言葉だよね〜」
「ほ、本当に気にしなくていいよ…ボクが一人で考えてただけだし…」
「ふむふむ、確かに。それは楓の長所でもあるし、悪癖でもあるよね〜」
「うっ…」
凪咲は揶揄いを半ば交えた追及を楓に述べると、心当たりがあると言わんばかりに意気消沈する。が、凪咲は発言を撤回することなく栩栩然として足を進めた。それを見て楓も首を軽く振り、切り替えるための両頬を叩く素振りを見せる。
そうしていると、瞬く間に三人の爪先は同一の扉へと向けられていた。
「───」
無意識の内に緊張の糸を張り巡らせている楓の付近から離れた香奈は、易々と糸を切り抜けて扉へ手を掛ける。
勝負の火蓋が切られるその瞬間には、扉を開く際の軽く軋む音色だけが木霊して、光が視界に蔓延り三人をその場に羈縻する。
「え」
「なるほど〜。これはこれは…確かに時間が掛かりそうだ」
三人の双眸に映った景色は、三人の知っている第一の園とはかけ離れていた。
談笑ができそうな椅子と机。四つある机の上には一つの机毎に種類別で赤色の薔薇、青色のカーネーション、黄色のマーガレット、白色の百合が生けてある花瓶が設置されている。椅子の下には敷かれた硬めのカーペット。紐付きの風船、主張が控えめの小さいペーパーフラワー、青色の星や赤色のハート、白色の花の形をした折り紙など。
今から子供達の誕生日パーティーでも開催されるのかと疑ってしまう、色鮮やかな会場。その上、第一の園の扉を開いたにも関わらず、第二の園と第三の園に所属する子供達の姿も確認できる。防音の可動式間仕切り壁が退いており、普段の三倍は広い。
「流石に、ここまでのリフォームは初めて見たねー。うーん、愉快愉快」
「今回の課題は、大規模ってことなのかな…?」
子供達の活力を孕んだ音が漣となって押し寄せる第三層の空間。指南役の姿、指南役付近が子供達に埋もれて視認できないが、ルールを説明する為のプロジェクターが指南役の付近にあることは容易に想像できる。子供達が自ずと集まる前方へと、凪咲達は阿吽の呼吸で踏み出した。
前方へ暫くの間接近し、子供達の騒めきが盛んに鼓膜を揺らす頃。一人の子供の空を想起させる瑶瓊が、凪咲達の容貌を映している。言うまでもなく、凪咲は視線に勘づき視線の先を一瞥した。
「結衣と目が合ったね〜、やっぱり私のことがー!…と、言いたい所だけども〜」
「……?」
結衣の視線の先は凪咲──ではなく、凪咲の隣にいる楓。楓は心当たりが無いと首を傾げているが、香奈は結衣の視線に我関せず。香奈の様子に違和感を抱いた凪咲が一、二回瞬きをした。
香奈は普段、誰かが何かを訴える視線に無関心といった姿勢は取らない。香奈は自身に関係のない事象であっても、誰かが何かを訴えていれば首を突っ込もうと足を動かし、その身を賭して解決へ導く。
「………」
「…なるほど。相変わらず、お優しいねぇ」
凪咲は違和感の正体に好奇心が湧いて観察したが、香奈の力強い決意は相変わらず双眸に宿っている。
見ている限り、全く気にかけていないという訳ではなく、わざと様子を傍観してあげていると言った方が正しそうだ。
『観察対象、No.1〜59確認した。これより、大規模育成課題を開始する。監視役は速やかに第二層への移動を実行しろ』
取り残された子供がいないか、阿轆轆地に物事は進んでいるか。それらを認識し、子供達の人数を確認した合図の放送が流された。同時に、監視役達が園から続々と退出していく。
「大規模、育成課題…?」
「へーえ、そんなのあったんだね〜」
「ボクも初耳…その、なんというか…抜き打ちテストって感じで、凄く緊張する雰囲気…」
「もしかして、『〇〇歳の時に大規模育成課題を行なう』とか計画されてたりするのかなー?」
ある一定のライン、歳まで脳を育成し、大規模知能テストを行なうことで途中経過の育成データを取る。その後、データの良し悪しや改善点を審議し育成方針を再び定める。
ありえない話ではない、ということは確かだった。
「これ、監視役も知ってたのかね〜」
「…?えっと、どうなんだろうね。…物事が潤滑に進むよう、研究者から大雑把な日時を示された計画書くらいは…渡されてるんじゃ、ないかな。でも、日時くらいだと思うよ」
「……」
何故、凪咲は監視役に対するそのような疑問をわざわざ口に出すのか。それはとあることに思考を巡らせて、一部監視役への評価を改めようかと凪咲が詠歎したからだった。
凪咲は思考の結論へと静かに思い至ると同時に、思考回路を一つ一つ丁寧に整える。
「───ふむ、これはこれは…」
───凪咲は監視役を利用することを遠謀深慮しておきながら、監視役を利用することに踏み切ったのは直近だ。
凪咲の監視役が施設へ長期に渡り反感を抱いていることは容姿や行動、言動から容易に推測を立てることができる。が、幾ら娘という弱みを握られているとはいえ、随分と後手に回っていると凪咲は疑念を芽生えさせて、あと一歩を踏み切ることに躊躇っていたのだ。
凪咲の推察が根本から間違っている可能性。監視役が娘という弱み以外にも、何かを握られている可能性。施設に反感を抱いていることは事実でも、弱みを握られている訳ではなく単に施設を利用している可能性────。
監視役は利用できると深謀遠慮していても、動き出すにはあまりにも拙劣な状況把握であり、凪咲の情報網はあまりにも狭隘だった。
その為、凪咲は外へ出た際身柄を保護してもらう狙いと同時に、監視役の狙いを明確に見定めようと動いていた。結衣という後ろ盾を用いて。
後ろ盾が通用しようが通用しまいが、どちらにせよ監視役の狙いを推測通りだと確定するか、再び狙いを思案し直すかを選べる。凪咲にとってのやり得、というもの。
「あははー」
───改めて、その疑念についてだが。
凪咲が現在解析した結果、凪咲の疑念、監視役の後手に回る立ち回りについての原因は此処にある可能性が極めて高くなった。監視役への疑念は杞憂だったのかもしれない、と凪咲は薄々感じ始めている。
今回の大規模育成課題のルールや様子を見る限り、後手に回っていた理由が監視役はこの大規模育成課題の存在を知っていて待っていたからだ、という説が凪咲の思考の中で濃厚になってきていたのだ。
「監視役ってー、やっぱり食えない奴だよね〜」
「?」
凪咲は両手を掲げ、肩を竦める。
凪咲の監視役が施設と契約する上で、指示を受け入れるだけの存在としてではなく、計画書を緻密に確認できる監視役兼研究者として勇往邁進に交渉していたのであれば。監視役は、この大規模育成課題を待っていたのかもしれない。何年も待ち続ける精神力と計画性が大前提となる話ではあるのだが────。
退出する直前に監視役から送られた、視線の刃。その意味が漠然と凪咲の思考に浮上して、誠意のこもっていない謝罪を心に留めた。
───ごめんね〜監視役。でも、何事も最悪を想定して保険を掛けるのは悪いことじゃないだろう〜?
「ゲームを行なってもらう」
子供達の騒めきと凪咲の思考回路を鎮める一本筋の通った指南役の声色。即座に子供達は頭の切り替えを実行し、その場には重苦しい静寂だけが取り残された。
「これからお前らには、『色取り』を行なってもらう。ルールはプロジェクターに表示された文書と共に、口頭を交えて説明する」
そう言って、凪咲達の視点では子供達に埋もれて見えない指南役がプロジェクターを静かに操作し、ルールを投影する。
指南役の口頭による説明と、プロジェクターに表示された資料を思考回路の中で噛み砕いて、凪咲は箇条書きに重要な説明を記憶した。