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天の才  作者: 凡陽白雪
12/14

A 信念


「……」


夕食を食べ終えて食器を片付けられた机。瑠衣はほんの僅かな時間、呆然と視線を注いだ後に目を逸らす。勉強道具に手を伸ばそうと身じろぐも人の足音が近づいてきていることに勘付き、その動作を阻止された。

 ピタリと指先を静かに止めた瑠衣の元へ、人影が接近する。


「えっと…瑠衣さん、で合ってますか?」


「…あぁ、そうだが」


瑠衣の同意を確認すると、その人影の主───結衣は懇切丁寧に、恭しく頭を下げた。


「初めまして、ですね。私の名前は結衣と言います、そこまでお話する機会はないと思うので…覚えて貰わなくとも結構です」


「ああ、元々覚えるつもりなんて無いからな。お気遣い感謝しておく」


結衣の誤謬を正そうと、瑠衣が淡々と言葉を差し込む。言葉を何一つ包み隠さない毒舌と毒舌の邂逅───緩衝材の存在しない空間は当然ながら、衝突し合う衝撃だけがその場を支配した。瑠衣は結衣の容貌を観察して辟易しつつ、無闇に追い出そうとはしない。結衣は門前払いを受けることも憂慮していたが、杞憂だったと胸を撫で下ろす。

 この空間で放置していては話が進まないと判断した瑠衣は、凍りついた空気に温かみのあるふっと軽い吐息を吐いた。


「アンタのような人間が、何故俺に興味を持った?」


「あぁ、えっとですね…」


瑠衣の疑念に対し、結衣は迷いを彷徨わせる逡巡を繰り返して呻吟の声を溢す。

 凪咲に頼まれて唯々諾々と従った訳ではなく、結衣の個人的な意見を出す為に瑠衣の元を訪れた。が、凪咲との会話を皮切りに意識をしたことは事実。この場で何と言うべきか───何と言えば警戒されないのか。


「…いえ」


警戒されない方法を考えるのではなく、正直に話すことを考えるべきだと、結衣は自身を叱りつける。

 それで対話ができなければ、それでいい。そこまでの話なのだから。


「正直に話すなら、私はあなたに特別興味を抱いている訳ではないんです」


「そうか。ならば、何故?」


「私が興味を抱いているのは、楓さんの方ですから」


瑠衣はその名前に対しても動揺せず、泰然自若の姿勢を崩そうとはしない。


「俺に話しかけた動機が楓なら、この対話は無意味だ。理由は言わなくともわかるな?」


「人脈作りなら直接楓に伺え…ですか?私の用件はそういったものではありませんよ。仲直りして欲しいと言いたいだけです」


「……」


結衣は人脈作りの為に訪問をしている訳ではないと予測がついており、あくまで瑠衣は言葉の建前として戯れの一線を引いていた。結衣がそれを軽々と踏み越えたことで、瑠衣は冷ややかな視線を結衣へと注ぐ。

 瑠衣にとって馴れ合う偽善者とは忌避すべき邪悪。それでも即座に切り捨てて距離を取ろうとしないのは、No.5内に入ったあの時から瑠衣なりに成長した証でもあった。


「仲直り、か。面白いことを言うな」


「目は笑ってませんけどね、瑠衣さん」


「ふ…これは喧嘩ではなく、一方的に俺が突き放しただけだ。喧嘩などというチープな言葉では、楓まで悪者にされてしまう。訂正してくれるか」


独り言にも近しい、言葉の端々に悔恨の色が帯びている瑠衣の言葉を結衣は真正面から享受する。感嘆の声を思わず、といった形で呟いた。


「──へえ、」


「…なんだ」


「私が抱いていた印象とはかけ離れていて…少々驚いただけですよ」


結衣の視点で解釈した瑠衣という人間は、稚拙の一言で済む───成績が優秀ではあっても、人間としては未熟者としか言いようのない子供の癇癪持ちという評価を下していた。

 しかし、実際には冷静に観察するだけの器を持ち合わせた言動をしている。結衣は密かに、瑠衣に対する評価を改めた。


「よくわかってるじゃないですか、筋金入りの癇癪持ち」


「……」


「喧嘩って対等な相手同士にしかできないものなので。ええ、そうですよ。これは喧嘩なんてチープな言葉では済まないくらいの、チープなものです」


『結衣は評価を改めた』といっても、癇癪持ちという評価は変わらない。ただ、無闇矢鱈に意味もなく周囲へ当たり散らす癇癪ではないと理解した為に、『子供の癇癪』から『筋金入りの癇癪』に変化した。信念は無いが癇癪を起こしているのか、信念があって癇癪を起こしているのか。その違いを明確に結衣は線引きしている。


「わざわざ罵る為に、此処へ来たのか?」


「…はぁ」


瑠衣はNo.5内に位置する自身への嫉妬や悪意による言動、行動には慣れている。疑念を含む視線を送るが、結衣はそれを物ともせず深い嘆息を漏らした。結衣の双眸は瑠衣の姿を映しているものの、正確には瑠衣の姿を見ていない。何処か遠く離れた小さな感情へ向けられていた。

 どうして凪咲が結衣を瑠衣へ嗾けたのか、結衣は嫌悪を滲ませつつも理解してしまう。


「本当、嫌になりますよね…」


それは結衣と陽菜、瑠衣と楓の関係性が酷似していたからだ。人に対して距離を取り、本来情に薄い結衣と瑠衣。手を握りしめて離すことの無い、情に厚い陽菜と楓。対等なんて関係値ではなく、片や一方的に支えられて生きてきた人間、片や一方的に支えて生きてきた人間。そんな自分勝手なモノ同士の関係値だった。

 凪咲が仕掛けた型通りに対話を行うのは当然結衣にとって癪に障る事実だが、それでも対話を選んだ。それは決して、善悪の天秤で測った綺麗な信念により突き動かされた行動ではない。


結衣は───心の何処かで、腹が立っていた。たったそれだけのくだらないお話。


「何があったかは、詳しく知りませんが…きっと後悔しますよ」


「………」


「友人が笑顔を見せてくれる──それは本来、救い以外の意味を含むことはありません。ですが、その笑顔がどうしようもない歪みを携えた仮面であったのなら…」


結衣の脳裏には鮮明に焼き付いていた。


『大丈夫、アタシは大丈夫だよ、結衣…』ただひたむきに優しく結衣へ声をかけ続ける、陽菜の声。慈愛に満ちた陽菜の双眸。

 ───その声が震えていて、慈愛に満ちた双眸に涙を蓄えていた。その光景を。


結衣の脳裏には鮮明に焼き付いていた。


瑠衣が楓の付近から離れていくその瞬間に見えた、楓の表情を。

 その光景は結衣の寂寞を抉るにも十分すぎる代物だった。


「あなたが背を向けても、最後まで笑ってましたよ。楓さん。凄く嫌な笑みでした」


楓の笑顔と陽菜の笑顔。それはまるで、子供をあやすおまじないのようで。同時に、真綿で首を絞めるお呪いのようで。結衣は疎ましい既視感を覚えた。


「無知蒙昧で結構です、利己主義者で結構です。とっとと仲直りしてきてくださいね、私あの顔凄く嫌いですし。あなたの事情とか努力とか才能とか…心底、どうでもいいですから」


『事情』『努力』『才能』。それら全てをどうでもいいと一蹴できる、瑠衣にとっては現実を知ろうともしない無知の知に反する愚かな人間。瑠衣はこんな人間が当然上を目指せる筈もなく、順位に見合った妥当な実力だと結衣の事実そのものを突きつけるつもりだった。

 しかし、瑠衣の喉は乾いており張り付いている。何かを言葉に変換して口に出せるような状態ではなく、思わず唇だけを動かす無意味な運動となった。


「───」


楓から与えられて生きてきた自覚はあった。だからこそ、瑠衣には理解できない。


───何故、再び与えようとするのだろうか?何故、自らの負担を増やそうとする?


楓は理解できない、相容れない性格の持ち主。それは瑠衣にとってこれから先もこれまでも覆ることのない事実。───それでも、不思議と不快にはならない。理解できない存在である楓と友人であり続ける心地よさもまた、覆ることのない事実だった。


「あー…もう、帰りますね?こういう気まずい空間苦手で…あぁ、だからこういう厄介ごとは避けてきたんでしょう。私の馬鹿…」


ぶつぶつと遠慮なく地に向かって奔流となった不満を垂れ流している結衣は、瑠衣の表情を一瞥すらしなかった。瑠衣はただ、結衣の立ち去っていく姿を精神的な虚脱感と共に見送り、専らに思索へ耽る。

 呆れ果てた声が瑠衣の頭に響いた。それは記憶の残滓で構成された結衣の声で再生されたのか、聞き馴染みのある瑠衣自身の声で再生されたのか。それすらも曖昧だったが、木霊した言葉は鮮明に感じ取ることができる。


 ───俺は孤独も困り顔も別に気にしない。どうとでもすると良い。


「…よくもまあ、」


そんなこと言えたものだ。

 掠れた声で、発声は残念ながら上手くいかなかった。


____________________________________


「……」


夕食を食べ終えて食器を片付けられた机。楓は机から即座に目を逸らし、ベッドへと飛び込んだ。枕を大事に両腕の中に抱え込み、ぬいぐるみを愛する幼児のように力強くハグをする。ハグによるストレス発散の効果はささくれた楓の心に染み渡り、脳内物質の分泌を茫然とした意識へ確かに認識させた。


「うぅん」


ぐりぐりと枕へ顔を押し付けながら左右に振って、それを幾度か繰り返した後に止まる。足音が楓の元へ接近していることがわかったからだった。大抵こういった場面で楓に近づこうとするのは博愛主義者の香奈か、好奇心次第で動く凪咲。無意識の内にこの二人の顔が想起される。

 楓が枕に顔を埋めていた所を、何とか無に等しい気力で起こして人影を意識の淵藪として定めた。すると、予想もできる筈がない未曾有の事態が楓の眼前にある。楓の双眸に映ったのは───、


「え?」


「何だ、駄犬は駄犬らしくオモチャに喰らい付いて遊び呆けてたのか?止めやしねぇがな、涎を俺にまで飛ばすなよ──駄犬」


青紫の光沢が黒髪によく映える、退廃的な魅力を持った少年。蓮だった。

 駄犬を強調する悪意を込められた声色に楓は不快感を抱かなかった訳ではないが、それ以上に唖然としている。


「蓮…?」


「俺以外の何に見える。その目はお飾りか何かか?」


「そう、だね。キミがボクに関わろうと、いや……ボク達に関わろうとするなんて。何と言うか、その、少し驚いちゃって。あはは…ごめんね」


動揺の感情と楓の性格が交わった途切れ途切れに発するその言葉に、隠そうともしない忌避感を蓮は態度に表していた。


「は、相変わらず気持ち悪りぃ駄犬だな。まだ見境なく吠える方が滑稽で笑えるだろうに」


「不快にさせたのはごめんね。ただ、その、今は人と話す気分じゃなくって…って、あれぇ…!?」


「はいはい、俺からすれば心底どうでもいい話だろうが。邪魔だ、どけ」


蓮は楓が枕を抱えながらベッドに座っていた所を背中から蹴り飛ばす。楓は蹴り飛ばされた勢いのまま前屈みへ、最後に床へと手を付く形となる。ベッドの上を蓮が占領し、長い脚を組んだ。


「酷いね…いてて」


「あァ、悪かったな?」


口先では謝罪の言葉を紡いでいるものの、反省の色が見えない冷笑を浴びれば反省などしていないことは理解できる。楓は吐息だけを冷笑の返事として贈り、蓮のシニカルな性格を再認識する───が、再認識すればする程に、それに比例して楓の首を傾げることになる。


「えっと、キミはどうしてボクの所へ来たのかな。ボクのことが嫌いなんだろうなぁ、ってこれまでは思ってたんだけど…」


「安心しろ。お前もだが、此処にいる蒼氓共は平等に吐き気がする程度に嫌いだ。そこに上も下も大した差はねぇよ」


「うん…結局は、ボクを嫌いなことに変わりはないね…」


楓は理解していたものの、落胆を抑えきれないまま無意識に肩を僅かに落とした。


「ボクのことそんなに嫌いなのに、どうして関わろうと考えてくれたのかな…?」


「俺からの有難い仰せ言を授けてやろうと思ってな。近寄れ」


「え、うん…?」


蓮は人差し指のみ立てられた右の手の甲を楓に向けて、人差し指を数回内側に折り曲げる動作をする。その動作を確認した楓がベッド付近にペタリと座り込んでいた所を立ち上がり、蓮の元へと接近した。やがて、静寂が二人の間に流れる。

 端麗な顔立ちの微笑が徐々に深まっていく光景を、視線と視線が交錯することで嫌と言う程に見せつけられたその時。前触れも無く視線を外され、楓の耳元へ囁き声が告げられる。


「あのお坊ちゃん───瑠衣を、お前がNo.5内から葬ってやれ」


それは文字通り、悪魔の囁きだった。


「…なにをいってるのかな」


「まさかとは思うが、力量が足りねぇなんてほざくつもりか?」


「…」


「あー?涎を垂らした駄犬くんのためにも、わかりやすく言葉を選んでやったと思ったんだがなぁ」


「…キミは何を言ってるんだ、本当に」


粛々としていながらも、隠しきれない憤怒を示す楓に蓮は微動だにしない。微動だにしない蓮にますます反感を覚えた楓が蓮から離れようとしたが、楓の肩を優しく掴んで蓮がその動作を阻止する。


「はは、おいおい…なぁ、落ち着けよ駄犬。優しい優しい心からの愛でお前を純粋に口説いてるんだ、嬉しいとは思わねぇのか?」


「…流石に、今しがたボクのことを嫌いだって言った人間からの虚言は、良い気持ちにはならないね。口説いてるんじゃなくて、唆してるの間違いじゃないかな」


楓が肩に置かれた人肌の暖かみがある蓮の手を、できる限り最低限の力で振り払う。痛くも痒くもない筈の手を摩りながら、眉尻を下げて蓮は美を携える冷笑を続行した。


「愛にも人それぞれのカタチがあるだろうよ。俺にだって勿論、慈悲の精神はある。お前やお坊ちゃんのような嫌いな相手であろうと、慈しむくらいはやってあげたって良い。優しいからな」


「じゃあ、どうしてその慈悲が、瑠衣を脱落させることに繋がるのかな…?もし、瑠衣がNo.5内から脱落しても救われるとは思えない」


大仰な身振りの拍手を贈りながら、肩を震わせて静かな嘲笑と共に目を伏せた。妖しい翳りを纏う瞳と、伏せた睫毛の影が綺麗に捉えられる。


「救われるとは思えない、ねぇ…ふっ、ははッ…同情なんざ腹も膨れなければ金も手に入らねぇ。あしらうのも面倒なだけの迷惑行為だろ?──あぁ、なんて最高に可哀想なお坊ちゃん…」


「同情なんかじゃない、見下している訳でもない。他でもない、ボクが信じていたいんだ。…たとえ瑠衣が、ボクのことをどう思っていようとも」


「それが迷惑行為だとわざわざ明言してやったこの俺の慈悲がわからねぇのか?駄犬。あのお坊ちゃんは精々、積み重なる塵芥の中ではちっと使い心地の良い踏み切り台止まり。それが限界だ」


蓮が周囲を見渡し、釣られるように楓も軽く周囲へ瞳を動かした。休憩時間に歩く子供、ベッドに横たわる子供もいれば机に目を遣りながら座り込む子供も居る。楓は視線を逸らした。

 それぞれ一人一人、子供達が鮮烈に今を生きている。人間としての個性を実感できるこの箱庭で、蓮の言う塵芥という言葉を楓は到底理解したくはなかった。


「お前の安っぽい友情なんていう、滑稽通り越して感激の涙すら流れちまいそうになるものに目を瞑り───お前の踏み切り台として一蹴してやるのもまた、慈悲の一つだろうよ?」


「違う、それはただの利害関係でしかないよ。友情と呼ぶにはあまりに冷たくて、口に出すにも憚られるものだ」


「真綿で首を絞めているとは露知らず、陶酔しきった駄犬よりかは優しいと思うがなぁ。救う必要の無い犠牲まで救えば、その先は取り返しのつかない後悔や破滅の濁流。論外、だろ?」


飄々と持論を語る蓮の姿は、嫌悪を抱く筈の言葉であっても頼もしいとすら思わされる、洗練された威厳のある雰囲気があった。容易く趨勢すらもその話術で影響を与えてしまう、そんな雰囲気。

 しかし、その程度で諦めるようであれば楓という人間はこの地位で、この性格で、今この場を生きてはいない。


「その、救いたいっていうどうしようもない感情こそが、大切なものなんだってボクは思う。合理的な最適解は確かに楽だけど、未来への愛着を閉ざすことにも繋がる」


「未来への愛着?そんなものは種族が食物連鎖の中で生き永らえる為に創り出された知性の添え物だ。此処には必要ねぇよ」


「未来への愛着がない者に、生きる意味があるとは到底思えない。合理性を求めて通り過ぎるだけの日々にどれだけの価値があるのかなんて、考えたくもないんだ」


多くのことを気に掛けず、自身を不必要に危険へ晒さない。それは決して間違いなどではない。だから、犠牲や空虚に苛まれる未来すらも受け入れる。

 楓にとってそれはただの屍と同義。何よりも生きていく上で楓が恐れているもので、その生に対して生きているなどという言葉を使いたくはなかった。


「考えたくもない──そりゃ、当然だろ?合理性の中で生きられない者は等しく無価値、仮にお前がそれを理解した所で無抵抗に跪くか?博愛主義の駄犬には、ちと刺激が強すぎるだろうな」


「価値って、本人が定義して漸く存在するものなんだと思う。他人の解釈では無価値であっても、そこに感情が、行動が、信念があったなら、本人が定義した価値がある。それは決して無価値だなんて揶揄されて良いものじゃないんだ。けど──」


もう一度、楓は周囲を見渡す。蓮から無価値な存在、塵芥として定義されてしまった子供達。それを踏まえた上で、楓は無価値ではないと信じている。


「逆に言えば、未来への愛着が無い人間が他人から見て価値のある行動──キミに則って言うなら『合理的な行動』をとった所で、価値なんて何処にも存在しないんだ。本人が価値を定義していないから。それは酷く、恐ろしいことだと思う」


ふっと鼻で笑ってから蓮は睥睨した。蓮の小さく口だけを動かす動作へ、楓の思考に鮮烈な印象を焼き付ける。ダメか、楓の双眸に映った情報はそう告げていた。


『ダメか』なんて、まるでボクに何か期待していたような───?


楓は首を左右に振り、思考を四散させる。


「お坊ちゃんを救い出すことを、駄犬にとっちゃ価値ある行為として疑わない訳か」


「ボクが未来への愛着を失わない為に。その行いは絶対に、無価値なんかじゃないよ。ボクの大切な友人なんだ」


炯然たる蓮の睥睨にも遅れをとらないよう、楓は目を逸らさなかった。自然と怖がることもなく、暫く視線の交錯を享受していた所に蓮が諦念の色を滲ませる。諦念の色を滲ませた直後、瞑目して漂う冷え切った雰囲気に強引な一区切りをつけた。


「はー…堂々巡りって奴か?躾がなってねぇ野郎のようで大変喜ばしい、つい手が出そうになるくらいにはな」


「お互いの理解は届かなくとも『知ること』ができたのは、知性の真骨頂?だと思うから…良かった、と思う。でも、瑠衣の件はやっぱりダメだよ」


「踏み切り台を合理的に扱えねぇ、情に諂諛することすら厭わねぇ。──ったく、コレだからお前は駄犬なんだろ?最高に笑えるな」


「合理だけが幸せだとは思わない。幸せを願う為なら、キミの言う駄犬のままで良いんだ」


楓の言葉を最後まで聞き届けて蓮がベッドから立ち上がり、楓に背を向けた。未練を感じられない歩幅と迅速さは、蓮の合理性を身に染みて感じ取ることができる。


「───」


振り返る事もなくその場を立ち去り、そこには最初から何も存在せず、言葉の応酬すらなかったかのように錯覚する。楓にとって普段通りの光景が広がった。

 その普段通りの光景に存在していた違和感に、廊下へ出て再度話しかける。


「あのね、」


「あァ?」


「…ううん。なんでもない」


───キミはボクに、何を期待していたの?


それを言語化しようにも、上手く感情に整理をつけられなかった。楓はただ、蓮の立ち去っていく姿を精神的な疲労感と共に見送り、専らに思索へ耽る。

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