A 奇遇
凪咲が監視役と共に非常用エレベーター付近から離れ、子供達の住処へと帰還する。煢然たる透明な空間を横目に廊下を歩いていると、
「…お前」
睥睨という表現が言い得て妙である、黒ずんで濁った双眸を凪咲の眼前に曝す蓮がいた。凪咲に対する明瞭な敵愾心の様相を呈している。
「なんだいー?蓮?」
「…立ち入り禁止区域に近づいたな?」
「あは、何のことだい?」
「惚けるな。お前が向かっていた方向はどう見たって立ち入り禁止区域だったろ」
冷たく探る目を凪咲は甘んじて享受しながら、肩を小刻みに揺らして顔を綻ばせる。第三者から見れば、自然と優しい笑顔の溢れる愛らしい少女だ。
「監視役と共に行ってたし、越えちゃいけない一線は越えてないって証明自体はできるよー」
監視役は凪咲と目的が一致しているとはいえ、凪咲との関係性はあくまでニュートラル。監視役の定義する物事の是非には、蓮のお望みのままに偏頗の惧れなきモノを提供されることだろう。
そう意図して凪咲は発言したつもりだったが、凪咲と監視役をそれぞれ一瞥して、
「…それはどうだかな」
蓮は翳りの見える瞳の色を覗かせた後、嫌悪を示した大きな歩幅で即座に凪咲と凪咲の監視役から離れる。凪咲はそれと同時に、目を細めて訝しむ。
「この信頼の無さ。どう思うんだい?監視役〜」
「当然の帰結、と言いたい所だ」
「あは、君もそう思った〜?」
『と言いたい所だ』というこの監視役の言葉は、『凪咲が嫌われることは当然だろう?』という意味を込められたモノではない。『そう、普段であれば言いたい所だが』という意味合いだった。絶妙なニュアンス、どちらの意味合いでもおかしくはない文章で伝達している。
凪咲は逡巡を巡らせるような素振りを監視役へ見せつけ、独り言と誤って認識されるような声色と声量で呟いた。
「…これで、確信になったかなー?」
瞑目しながらも、ふっと軽い吐息を吐いて会話に一区切りをつける。
すると、凪咲は突然背後を振り向き、監視役を視界内に入れてから微笑みかけた。
「…」
「まだ昼休み終わる時間じゃないけどー…瑠衣、あそこにいるねー?」
凪咲が指す人差し指の先には、シルクのような艶のある金髪を有した、艶やかというより婀娜やかな少年がいる。現在、No.4に位置する瑠衣。彼だった。
「……」
「あー、もう話す気ないのかい?悲しいねー」
『監視役に話しかける』という意思表示を視線で凪咲が示唆したものの、監視役は一顧だにしない。凪咲はそれを確認した後にやれやれと首を左右に振り、歩み始める。凪咲が爪先を向けたのは当然、瑠衣のいる方向だった。
「やっほーい、瑠衣」
「……アンタか」
覇気を纏わない、硬い声色と共に瑠衣は顔を上げる。曖昧さの拭えない相貌を元に凪咲の思考に存在する羅針は定まった。
「どうしたのかな〜。何かあった〜?」
「気にする必要があるか?」
凪咲の飄々とした態度に目を逸らし、瑠衣は忌避感を包み隠そうともせずその場で懊悩する。表面上何も気にしていない靦然たる態度をとりつつも、凪咲は瑠衣の机──正確には、瑠衣の手元を一瞥すると教科書も本もまっさら何もない。
常時努力を重ねることを怠らない瑠衣にしては珍しく、何もしていないということを推測できる。
「珍しいねー。何もしていないのかい?」
「……」
「あぁ、違うよ?休憩だって勉強する上で必ず大切なモノの一つだからねー、バカにしてるわけじゃないさ〜」
「……」
凪咲が発した敷衍の言葉には耳を傾けようとせず、目の焦点を合わせようとしない。瑠衣の様相を見かねた凪咲が瑠衣の元へ近づき、頭を撫でようと右手を頭上へ差し出す。が、乾いた音を立てて凪咲の手を瑠衣ははたき拒絶した。
「饕戻が透けて見える。やめろ」
「饕戻だなんて〜…酷いなー…」
監視役にとっては既視感の伴う、手を優しく摩って慰める凪咲を瑠衣は威圧して再度会話を拒絶した。
「話すつもりはない」
「瑠衣がグレちゃったー…うーん、いや、いつもこんな感じだったか…」
「帰ってくれ」
小声でぶつぶつと思考を吐き出しつつも、凪咲へ贈られた視線の射線を遮る形で踵を返す。怪訝な表情で何処か呆気に取られたような素振りを見せる瑠衣をおいて、凪咲は背を見せながら首だけを動かし瑠衣へ語りかけた。
「ん、何を驚いているんだい?」
「…いや」
「帰って欲しいんだろう?あぁ〜、帰ってあげるとも。───君の心を慰めるのは、私の役目じゃないんでね〜」
「何を言っている?」
「ちょっと確認ができただけで満足、ってことだよ〜」
いずれ、このような事態が起こるであろうことを凪咲は推察していた。瑠衣は努力家、野心家であり『完璧主義者』という特性も併せて持っている。それ故に、心を病みやすい気質であることは火を見るよりも明らか。凪咲ではなくとも、それを理解していた人間は周囲にいたことだろう。
───それを言及しようとする人間が、瑠衣の周囲にいなかっただけで。
「ま、賢明な判断だよね〜」
「?」
周囲の人間達に指摘するメリットはない。もし、瑠衣に周囲の人間がそれを言及した所で改善できるとは到底思えないからだ。誰であろうと聞く耳を持たないことは理解されていた上に、そもそも子供達からすれば瑠衣に堕落してもらった方が良い。尚更、傍観を選択する。
「……」
瑠衣は嫣然と微笑む凪咲に対する猜疑心を徐々に強めながら、眉を顰める。眉を顰める瑠衣と連動するように凪咲は歩みを進めた。
「虚心坦懐。それが、唯一君に送る私からのアドバイスだよー」
「…は?」
言葉の残滓だけが散りばめられ、凪咲は振り返ることもせずにその場を去る。
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第三層へ向かう為に階段を上る。普段と何も変わらない日常、それらを玩味しながら。
「ねえ〜?」
階段を上る。
「ねえって〜」
何もかもが変わらない、階段を───
「無視しないでくれるかい〜?結、衣、ちゃん」
「鳥肌が立ちましたよ…?」
昼休みの終了を告げる前触れの放送が鳴り響く前に、結衣は第三層へ移動をしようと動いていた所、凪咲から捕捉された。
「あ〜、やっと目を合わせてくれたね〜。マイエンジェルちゃんちゃかちゃん」
「なんですか、もう…」
語尾に常時ハートでもつきそうな甘ったるい凪咲の声色。結衣は物憂げな様相で双方の二の腕を抱え込みながら、『邁進』という名のご立派な肩書きをぶら下げた思考回路の強姦に対応する。
「お願いしたいことが〜」
「丁重に、ご丁重に、絶対に、確実に、明確に、断固としてお断りします」
「早い早い早い、まだ、まだ言い終わっていない!!まだ言い終わってすらいないだろう〜!聞いて〜!可憐で愛おしい凪咲ちゃんのお話、聞いてよー!!」
「はぁー…」
結衣の両肩を揺さぶりながら、凪咲は大袈裟に叫ぶ。結衣は思わず嘆息を漏らしてから両手を掲げ、降参の意思を示した。同時に凪咲も肩を揺さぶることを止める。
「一応、お話だけは聞いてあげます。なんですか」
「うん、ありがとう!我が友よ〜。やっぱり持つべきは共に戦う友だよね〜!ともだけに」
「………」
「ごめんごめんごめん、進むペースを早めないで、ね〜??」
背後に位置する挙動不審としか言いようのない凪咲へ結衣は振り向き、足を運ぶ速さを漸減させる。凪咲は安堵を胸に置く右手と重苦しい吐息で表現した。
友、という言葉を出した途端に監視役から無言の圧のようなモノを感じたが、凪咲は動揺しない。
「真面目にお話するつもり、あります?」
「あるよ〜?」
「それを本気で言っているのだとしたら、きっとあなたは相当重症ですね…いや、今更ですか」
結衣は額に手を当てた。
「うぅ〜…」
言葉の端々から感じられる呆れに対して凪咲はがっくしと肩を落としたが、即座に清淑な姿勢へと矯正する。
「酷い…もっと大切に扱って〜?結衣」
「無理です」
凪咲は再び肩を落とす。
結衣とこれ以上の進展は見込めないと察知し、若干あどけなさのある不機嫌そうな動作を残しつつも結衣へ向き直った。
「…ある人に会ってほしいんだよ〜。結衣に」
「…ある人?」
「うん〜」
結衣は自然な動作で首を傾げる。必死に思考を巡らせるが、心当たりが見つかる訳もない。不本意ながらも大人しく凪咲の言葉へ耳を傾ける判断を下す。
「誰なんです?それは…」
「瑠衣って子なんだけどね〜」
「瑠衣って…No.2からNo.4に転落したあの人ですか?」
「…君って結構、毒舌だよね〜?」
「…まあ、良くも悪くも印象に残っていますので。図書室に居座る座敷童子さん…」
結衣は凪咲から目を逸らしつつ、苦笑を浮かべる。結衣の様相を観察して凪咲は納得した、と首肯しつつも、同時に瑠衣は周囲からどのような評価を貰い受けているのか好奇心すら湧き上がった。
凪咲は好奇心を切り替えて、間延びした声色で会話を続行する。
「瑠衣がそっちでなんと言われていようと、結衣に会ってほしいんだよね〜」
「何故、私なんですか?」
「今回の案件に関しては、私よりも君の方が向いてると思ってね〜」
「…言われれば言われる程、余計にわからなくなりますね…どういうことですか?」
「会ってみればすぐに分かるよー、きっとね」
問い詰めようと結衣が動き出した際に、昼休みの終了を告げる前触れの放送が廊下中に鳴り響く。子供達の足音が段々と増加し、それらが階段へ接近していることが聴覚へと伝達された。結衣は階段から視線を外し、子供達の足音が木霊する廊下の方向を視覚情報として取り入れる。
「もうそろそろ、運動時間ですね。移動しないと…」
「うんうん、そうだね〜。じゃっ夕食後の休憩時間、瑠衣とのお話。よろしくね〜」
「え?いや、私はお話を聞くだけで受けるとは言ってませんよ…?ちょっと、凪咲さーん!?」
結衣の声を振り切りながら、凪咲は階段を上る。周囲からの注目の的となって視線が凪咲を穿つものの、それらを凪咲が気にするはずもなく颯爽と駆け抜けていった。
「よ〜し、結衣に言いたいことも言えたしー。これで万事おっけーだね〜」
機嫌の良さを証明するようにスキップで廊下を移動、第三層のスチールドアを血気盛んに押し開ける。扉から轟く騒音に、既に移動を終えていた子供達も廊下にいる子供達と同様に瞠目していた。
「ドーン!」
「ぁ」
力強く押し開かれた扉へ誰かが運悪く激突。周囲には元から発生していた騒音と現在発生した不協和音、凪咲の手には障害物に激突した衝撃による痺れが残留した。凪咲の眼前には尻餅をついて額を両手で押さえている、いかにも被害者な少女がいる。
「…」
「わっと、すまないね〜。大丈夫かい?麗しき淑女」
凪咲が右手を差し出すと、凪咲の右手を頼りに片手ではなく両手で握りしめて少女は立ち上がる。何故両手なのかと疑問を抱いた凪咲は、手を経由して伝わる少女のか弱い握力によって疑問を地産地消された。
「配慮をしない。それはダメ…だと思われる」
「あは、すまないね〜…頭、大丈夫かい?」
「…それは悪口?…だと思われる」
「いや、違うからねー?」
青みがかっている白──月白色の長髪と、シトリンのような橙色を帯びている黄色の瞳が特徴的な少女だった。銀髪でセミロング、空を想起させる瞳の結衣と雰囲気は似て非なる少女であり、『可憐』というより『清純』が一番近しい言葉遣いだろう。
凪咲は納得の行く解釈を自身で突き止めた欣喜雀躍を、半ば強引に思考の中へと押し留めた。いや、押し留めざるを得なかったと言った方が正しい。
「あはは」
「……」
───凪咲の背後に肩を全力で握りしめる、息遣いの荒い結衣の姿があったからである。
もしこの状況下で素直に喜ぼうとするモノなら、間違いなく叩かれた筈だ。物理的に。
「凪 咲 さ ん ?」
「やだ、情熱的だねぇ〜?ついに私は追われる側になったのかい?」
「顔引っ叩きますよ、本当に」
ギリギリと典型的な痛みを伴う結衣渾身の力を肩へ発揮され、凪咲の身体の一部が悲鳴を上げる。
「うーん、痛いね〜」
「僕は邪魔…だと思われる」
凪咲の眼前に佇む少女は、結衣と凪咲の会話を友人同士の戯れと解釈して退くことを最善と判断する。その判断へ結衣は寝耳に水とでも言わんばかりに、立ち去ろうとする少女を引き止めた。
「待ってください、スイさん!違います!」
「違う、とは?…だと思われる」
「この人はただの!!足枷です!!!」
「酷いッ!?」
想像していた回答を上回る、数倍悲しい回答へ靭性虚しく凪咲は膝から崩れ落ちる。地に手を着き、大仰な動作で首を左右に振ってから結衣へと視線を浴びせた。
「酷くありません。当然です」
「そんな酷い言い草しなくてもー…」
「無理です」
「あれぇ〜、私君自身に何か…」
出力していた言葉を中断し、凪咲の思考へ浮かんだ疑問を口に出しかけた言葉へ上塗りする。
「あれ、君と…スイ?結構仲良かったりするのかい?君が名前を呼ぶ人物なんて、陽菜くらいなものかと思っていたんだがね〜」
「え?あぁ、いえ」
ぎこちなさを感じる視線の揺らぎ、眉を八の字に下げていた結衣は不安定な雰囲気を纏っていた。が、それも刹那的な時間だった。幾度も瞬きをした後、そこには尋常一様の結衣が留まっている。
「スイさんは私の友人ではなく、陽菜の友人でして…お互いちょっとした顔見知りというか。あの子、かなり交友関係広い子でしたので…」
「陽菜はお節介焼き…だと思われる」
結衣の言葉に淡々とした補足を付け加えられた。補足を通し、凪咲は陽菜の性格を加味した事象に対する理解を深めて、うんうんと頷きながらも分析を口にした。
「なるほど〜。大方、交友関係の少ない結衣に紹介したとか、そこら辺かな〜。陽菜って子は相当優しい子だね〜」
「………当たり、ですが。なんというか、凪咲さんにだけは指摘されたくなかった言葉ですね」
「ん???」
結衣による毒舌を食らい、凪咲は視点をバッと結衣へ移す。結衣はジト目で凪咲を睨みつつも身体全体を脱力させ、安堵を宿していた。
凪咲はそれを察知しているが、指摘しない。
「僕も交友関係は少ない。恐らく、陽菜は双方を気遣った…だと思われる」
「君達のような人間に友人がいないのは、確かに勿体無いね〜。スイも結衣も、こんなに可愛らしい子供なのに…」
「…凪咲さんも同い年ですよね?…子供扱いですか…」
結衣の独り言にも近しい言葉には一顧だにせず、凪咲は握手を強請るような右手をスイへ差し出す。
「スイ、改めて自己紹介お願いできるかい〜?これも何かの縁さ、私と友人になろうよ〜」
「断ると…言ったら?No.1、凪咲…だと思われる」
「悲しくて悲しくて、夜しか眠れないかもしれないねー」
茫々たる海を漂うミズクラゲを想起させる、しなやかな身のこなしでスイは凪咲へ歩み寄り、凪咲の右手を優しく両手で包み込む。冷たさを抱く外見の印象とは対照的に、スイの心地良く暖かい体温が手を伝って凪咲へと伝達された。
「スイ、No.40。よろしく…だと思われる」
「ありがとうね〜、よろしく頼むよ〜」
スイは自己紹介を終えると凪咲の右手を離す。一定の距離をとりはじめたスイを横目に、結衣が凪咲の元へ接近した。軽く肩を叩いて疑念と好奇心を抱いている凪咲の意識を引き寄せてから、凪咲の耳元へ囁きかける。
「ちなみに補足ですが。スイさんは『翠』と書いてスイさんではなく、睡魔の『睡』と書いてスイさんだそうです。覚えておいて下さい」
「そうなのかい?名前にしてはちょっと珍しいような気がするね〜…ところで、何故囁き声なんだい?私に近づきたくなっちゃったのかい?」
「それを間違えると何故か睡さんかなり怒るので、バレないように先んじて忠告を……あと、かなり気持ち悪いです。その言い草」
結衣の忠告を聞き届け、凪咲は意識の淵藪を睡へと移転させた。結衣との間隔は自然と離される。
睡は二、三回パチパチと瞬きをした後に機械じみた無機質さで首を傾げ、髪を地と垂直に導く。
「…やはり、仲が良い?…だと思われる」
「違いますよ、睡さん。足枷は例えどれだけ嫌であっても、ついてくるだけですから」
「うーん、涙だねぇ…」
『観察対象、確認した。指南役の指示に従い、課題をこなせ』
凪咲、結衣、睡の会話に一区切りがついた頃。タイミングを見計らったような間で、子供達にとって聞き飽きる程に聞き馴染みのある放送が空間全体に浸透した。阿吽の呼吸で子供達の空間は静寂で包みこまれる。
「…おっと、始まるね〜」
スピーカーからの放送が鳴り止み、子供達は指南役からの指示を仰ぐ。一斉に子供達の双眸には指南役の姿形が映され、情報を一点に絞り込んだ。
───ただ、一人の例外を除いて。
「………」
結衣の瞳に映ったのは、瑠衣が楓の付近から離れていく。その瞬間だけだった。