第三話「勝頼のたくらみ」
強右衛門は、長篠城のピンチを信長と家康に訴えた。聞き終えて、信長は言った。
「あいわかった。長篠城を助けるため、織田、徳川連合軍、三万八千の全軍をもって武田と戦おう」
ポルトガルからキリスト教を伝えにきた宣教師、ルイス・フロイスの報告書によると、信長の声は少しかん高かったらしい。そのかん高い声が、強右衛門にはそれこそ彼らのいう神様の救いの声に聞こえた。
はりつけのエピソードだけが注目されがちな強右衛門だが、ここでのやりとりも知ってほしい。信長が言った。
「強右衛門とやら、さぞ疲れたろう。食事を用意したから、ゆっくり休むといい」
食事が運ばれてきた。戦の前で慌ただしいとはいえ、天下人たる信長の用意したものだ。どれも、下っ端足軽の強右衛門にとっては、見たこともないご馳走だった。
食べたい。食べたくないわけがない。ご馳走とか抜きにして、走り疲れて腹ぺこなのだ。しかし、強右衛門は首を横に振った。あの薄いお粥をすすっていた仲間たちのことが思い出されたからだ。
「お心づかいに感謝いたします。でも、長篠城の仲間たちは今も苦しんでいるのに、わしだけご馳走を食べてのんびりはできません。それに、助けが来ることを早く知らせないと、彼らはもしかしたら『助けはこない』と思いこんで、武田軍に降参してしまうかもしれません。ですから、まずわしが一人で長篠に戻り、助けが来ると伝えます」
そういって、強右衛門はすぐさま岡崎城を出発した。信長も、家康も……その場にいた誰もが、感動して後ろ姿を見送ったという。
「たいした男だ。武士というものは、ああでなくてはならん」
何度も人に裏切られてきた信長の言葉には、実感がこもっていた。
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走る、走る、走る。強右衛門は、ひたすら来た道を引きかえした。
苦しくはなかった。いやもちろん肉体的には苦しいのだが、助けがくるという知らせを、一刻も早く仲間たちに伝えたかったのだ。
実はこれ、医学的にも根拠のあることだったりする。人間の体でいちばん酸素を使うのは脳みそなのだ。そしてその脳みそは、恐怖や不安を感じたときに、もっとも多く酸素を消耗する。緊張すると心臓がドキドキするのは、ポンプをフル稼働させて脳みそにどんどん血液、つまり酸素を送り込むためだ。だから体は疲れていても、強右衛門は走ることができたのだろう。
長篠城まであと少し。だがここで、強右衛門は武田軍に捕まってしまう。
城を出たときののろしを、勝頼も見ていた。自分たちに覚えのないのろしが上がり、長篠城の兵隊が喜びの声を上げれば、誰だって「おや? あいつら何か始めたな」と思うに決まっている。武田軍は、見張りの兵隊を増やし、合言葉も変えて、強右衛門を待ちぶせていたのだ……。
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「ほほう、おまえが長篠城の使いか」
椅子にどっかと腰をおろした、立派な身なりの武将。強右衛門は、武田軍の親玉、武田勝頼の前に連れてこられた。
「何をたくらんでいる? 素直に言ったほうが身のためだぞ」
「おお、言ってやるとも。全部な」
強右衛門は、勝頼に何もかもしゃべった。夜にこっそり城を抜け出し、川底を泳いで見張りを出し抜いたこと、のろしを上げたこと、岡崎城で信長と家康に会ったこと。そして、織田と徳川の大軍が、もうすぐ長篠城を助けにくること。
これは武田軍にとっては何から何まで悪いニュースなので、黙っててやる必要なんかない。「お前たちはもうおしまいだ!」というわけだ。
これは私の考えだけど、むしろ武田軍のほうが、簡単には信じなかったと思う。人間、誰だって都合の悪いことは信じたくない。それに、敵が逃げ出すようにハッタリをかますのは、よくあるやりかただった。この時代よりもっと昔の中国の、諸葛亮孔明という人が有名だ。もし興味がわいたなら、これを読み終わってから「三国志」と「空城の計」で調べてみるといいだろう。
「むむむ……」
勝頼はうなった。
(この男の言っていることは本当なのか? それとも助けなんていないのに、のろしだけ上げてハッタリをかましているのか?)
もし本当なら、大急ぎで長篠城を落とさねばならない。ただでさえ武田軍は織田、徳川の連合軍より数が少ない。長篠城を囲んでいたはずが、あべこべに自分たちが織田、徳川、そして長篠城の奥平に囲まれることになる。だが前にも書いたとおり、城を落とすのはむつかしいことだ。
(ここはムリをせず、ひとまず甲斐の国に戻るか?)
信長の敵は武田だけではない。なら引きかえしてチャンスを待ち、そっちで手いっぱいのときに、改めて長篠城を攻めるという手も……。
いやダメだ。たった五百の兵しかいない城を落とせなければ、「長篠城ひとつ落とせない武田は落ち目だ。勝頼は弱い。あてにならない」と、織田や徳川につく者がまた出るだろう。
それに、もしハッタリだとしたら、敵のお芝居にまんまと引っかかることになる。そうなったら天下の笑い者だ。いずれにせよ引きかえす選択肢はない。
となると、助けがくる前に長篠城を総攻撃し、残った戦力で信長と戦うか。
長篠城を見張る兵隊を少し残して、まずは織田、徳川連合軍を迎えうつか。
(どうする? どうしたらいい?)
勝頼の頭の中を、いろんな考えがぐるぐる回る。
だがある瞬間、稲妻のようにひらめくものがあった。すぐさま長篠城を落とし、なおかつ城の兵隊をそっくりそのまま自分の家来にできる、一石二鳥のアイデアだ!
(さすが俺だ。親父どのの信玄よりすごい武将かもしれん)
勝頼は、満足げにうなずいた。