【コミカライズ】婚約破棄を言い渡されましたが、恋した相手は貴方じゃなかったので大丈夫です。【アンソロジー】
ソニアは足早に廊下を急いだ。
胸は期待に躍り、今にも駆け出さないようにするので精一杯だった。
貴族の令嬢が屋敷内を駆け回るなんてはしたない。
そんなことをしたらダミアン様に嫌われてしまう。
その一心で走り出すのをなんとか堪えていた。
頬はバラ色に染まり、菫色の瞳を輝かせながら、彼が待っているであろう一室の前で足を止める。
大きく深呼吸をして、ドアノブに手をかけた。
ようやく。
ようやく会えるのだ。
この十年、彼に会えることをずっと待っていた。
六歳の誕生日にお祝いに来てくれた、二つ年上の遠縁の親戚。
ダミアン・ルクヴォワール様。
伯爵家の御子息で、我がフォルナーラ侯爵家より格は下だが、そんなことは関係なかった。
ずっと恋をしていた。
遠い地に住む彼に、会えないまま十年が過ぎようと、一途に想いを寄せ続けてきたのだ。
今日のパーティで、ようやく彼との婚約が正式なものとなる。
これからはずっと一緒に暮らせるのだ。
そう思うと、あまりの幸福に眩暈がしそうだった。
控えめにノックをする。
返事を待つ間、手が小さく震えていた。
「どうぞ」
短く発された言葉にどきりと心臓が跳ねる。
想像していた声より少し高い。
ゆっくりと扉を開ける。
そこにいたのは二人の人物だった。
一人は豪奢な客人用の椅子に座り、もう一人はその彼に付き従うように傍らに立っていた。
ああ、彼だ。
ソニアにはすぐにわかった。
栗色の髪に涼しげな目元。
子供の頃に楽しく遊んだ記憶の彼そのままに成長していた。
「お久しぶりですダミアン様。ソニア・フォルナーラでございます。ずっとお会いできるのを心待ちにしておりました。今日はよろしくお願いいたします」
鏡の前で何度も練習した笑みを浮かべる。
笑いすぎないように、下品にならないように。
少しでも印象を良くするために必死だった。
彼はきっとこう返してくれる。
礼儀正しく立ち上がり、手を差し伸べて、「私もこの日をずっと待ちわびていました。あなたに会えて嬉しい」と。
何度も夢想していた、再会の日だった。
けれど現実はそうはならなかった。
ダミアンは座ったまま切れ長の目をちらりと私に向けて、興味もなさそうにすぐに逸らし「ああ」とだけ言って、それ以上は口を開こうともしなかった。
「……え、っと、あの……」
「用はそれだけですか。ならばお引き取りください」
そう言って鬱陶しげに眉を顰めた。
胸がざわつく。
何かおかしいと思ったけれど、違和感の正体がわからない。
戸惑っていると、従者が申し訳なさそうに「少しナーバスになっていて」と詫びてきた。
けれどソニアはあまりのショックに何も言えなくなって、無言でぺこりと頭を下げて急いで部屋を出た。
きっと緊張していたのよ。
従者の方も言っていた。
これから婚約発表でみんなの前に出るし、会うのは十年ぶりだし。
そう自分に言い聞かせはするが、悲しい気持ちが消えることはなかった。
* * *
ダミアンと出会ったのは十年前だ。
ソニアの六歳の誕生日に、お祝いに来てくれた貴族の子女たちの中の一人だった。
他の子たちや、それぞれの年の近い従者や侍女たちも一緒に、フォルナーラ家の庭で一日中遊んで過ごした。
特に仲良くなった子達に後日手紙を書いたら、すぐに返事がきた。
それが嬉しくて、ソニアはまたペンを執った。
今思えば、皆フォルナーラ家の格が上だったから返さざるを得なかったのだろう。
その日限りの友人だ。何度か繰り返すうちに自然と内容はよそよそしいものになり、そのうちやりとりが途絶えていった。
その中で、ダミアンとのやりとりだけは違っていた。
彼はいつもソニアの手紙が来るまでの間に起こった楽しい出来事や、嬉しかったことを書いてくれた。それからソニアの体調を気遣ってくれたり、誠実で優しい言葉をいつも添えてくれた。
ソニアはそれが嬉しくて、自分も出来る限り優しい人間でいようと努めた。
彼に恋をしていると気付いたのは、文通が始まってから数年後のことだ。
ダミアンから手紙が来るのを心待ちにして、毎日メイドに届いていないか尋ねてはがっかりする日々だった。
手紙を読めばそれだけで幸せになれて、新しいものが届くまで古いものを何度も読み返したりしていた。
会いに行きたかったが、それは叶わなかった。
ダミアンは遠い地に暮らしていて、そこに向かうまでの道はここ数年でずいぶん危険なものとなっていたから。
せめてもと父にダミアンの情報をせがんでは、噂程度の話題にも喜んだ。
領地では有能と名高く、若くして当主から仕事の一部を任されるようになったと聞いて、自分のことのように嬉しかった。
成長するにつれ美丈夫に育ち、領地周辺の御令嬢方から引く手あまただという話には少なからず嫉妬を覚えた。
十四の時に恋心を抑えきれなくなって、とうとう手紙で想いを打ち明けてしまった。
ダミアンは優しく気持ちを受け入れてくれて、自分も好きだと言ってくれた。
あまりの嬉しさに舞い上がって、その日は眠れなかった。
翌日父にそのことを報告して、どうしてもダミアンと結婚したいのだと告げると、なんと父はそれを許可してくれた。
ソニアには少し年の離れた兄と姉がいて、二人とももう結婚している。
兄は格が釣り合う侯爵家の御令嬢と。
姉は格上の公爵家に嫁入り。
どちらも政略的な要素を含むが、幸せな結婚生活だと言っていた。
だから末子であるソニアは、格とか考えずにちゃんと好きな相手と結婚すればいいと小さい頃から父に言ってくれていたのだそうだ。
すぐにダミアンに手紙で伝えると、領主である父親と話し合った結果、ソニアの十六の成人の日を待って正式に婚約をということになった。
両家の親同士で話し合いの場がもたれたそうだが、詳しい取り決め等はソニアの耳には入ってこなかった。
ソニアはただダミアンとの愛を深めなさいと言われ、その通りに手紙のやりとりを続けた。
その頃には文字に幼さが消え、文章は洗練されて心のこもった美しいものへと変わっていた。
時候の挨拶も律儀に添えて、ソニアだけでなくフォルナーラ家への気遣いも忘れない。理知的で、感性の繊細さや人柄の好さが充分に伝わるものだった。
有能だという噂を裏付けるには十分だ。
内容だけでなく、便箋の選び方や香り付けなどの気遣いも好きだった。
ますます恋心は募り、彼との暮らしを夢想すると胸がいっぱいになった。
どんな青年に成長したのだろう。
想像するだけで幸せだった。
栗色の髪の、キリリとした目が印象的な少年だった。
遊んだときはやんちゃな子供という印象だったが、大人になるにつれて落ち着いていったのだろう。
手紙の文面からは、領主になるのにふさわしい思慮深さを感じた。
例え想像していた容姿とまったく違っていても構わない。
中身さえ手紙の通りの人物であればと期待に胸が膨らんだ。
それなのに。
記憶通りに成長した彼は、手紙の印象とは真逆の冷たい瞳でソニアを見たのだった。
* * *
鬱々とした気持ちをよそに、パーティが始まってしまった。
この日のために熟考を重ねて選んだ特別なドレスを着ているというのに、ソニアの心は暗く沈んでいた。
隣に立つダミアンは一度もソニアの方を見ず、退屈そうに父の挨拶の言葉を聞いていた。
何故だろう。手紙の印象と彼のイメージが少しも重ならない。
期待しすぎてしまったのだろうか。
友人にも、文通で仲良くなった相手が実際に会ったら全然イメージと違ったと嘆いていた子がいた。
ダミアンもそうなのだろうか。
それとも照れて上手く話せないだけなのだろうか。
まさか侯爵家の娘に取り入るために優しい人間を演じていたとでも言うのか。
けれどどうしてもあの手紙の内容が全くの嘘だとは思えなかった。
大丈夫。
今は冷たく感じてしまうけれど、実際に会って話をすればすぐに打ち解けられるはず。
そうすれば、手紙の時のような本心をきっと自分に見せてくれるようになる。
ソニアは出来る限り前向きになろうと努力した。
それが打ち砕かれるまで、時間はかからなかった。
「ではダミアン君。キミから皆に向けて挨拶をお願いしようか」
父がにこやかにダミアンにバトンを渡す。
彼は浅く頷き、小さく嘆息するとこう言った。
「婚約の話は無かったことにしていただきたい。今日はそれだけ言いにきました」
会場内が一気にざわついて、父の顔色が変わった。
ソニアはといえば、ダミアンが言ったことの意味が解らなくてぽかんとするしかなかった。
「それはどういうことだ」
唸るように父が言っても、ダミアンは涼しい顔をしている。
「言葉の通りです。フォルナーラ家との婚約は白紙に戻してください」
「……理由を聞かせてもらおうか」
「簡単な話です。もっといい相手が見つかっただけのこと。フォルナーラ家より格上の御令嬢と恋仲になったのです」
「なんだと!?」
「ダミアン、貴様何を言っておる!」
「父上には言っておりませんでしたか。ですが喜んでください。こんな半端な侯爵家より勢いのあるノヴァク家の御令嬢です。これで我が家の格も上がる」
「ふざけるな! こんな失礼な話があるか!」
「も、申し訳ございません! すぐに息子ときちんと話をつけますのでしばし時間を……!」
一瞬にして空気が殺伐として、これは冗談でもなんでもないのだとソニアは理解した。
理解した瞬間目の前が真っ暗になって、耐えがたいほどの絶望が襲ってきた。
好奇の視線がソニアに集まる。
同情の色もあるけれど、ほとんどは捨てられた女が何を言い出すか期待に満ちた目だ。
何故そんな目で見るのだろう。
今日は今までで一番幸せな一日になるはずだったのに。
皆に祝福されて、幸福な気持ちでダミアンと愛の言葉を交わすはずだったのに。
何一つソニアの希望は叶わず、彼女はその場から逃げ出すことしか出来なかった。
* * *
裏庭にある花園の一角、四阿のベンチで声を上げて泣いた。
悲しみで胸が張り裂けそうだった。
ダミアンはソニアのことなど好きではなかったのだ。
あの口ぶりでは、格上の家の娘であれば誰でも良かったのだろう。
たまたまソニアが彼に熱を上げて、都合がよかったからキープされていただけ。
けれどソニアの家より格上の本命を見つけたから要らなくなった。
とても分かり易い話だ。
小さな子供にも理解できる。
自分だけが周りの見えていない愚か者だったのだ。
ソニアが思い描いていた優しいダミアンなど、どこにも存在しなかった。
悲しくて悲しくて、この十年の自分の気持ちがゴミみたいに思えてきた。
こんなにも好きだったのに。
こんなにも信じていたのに。
全て嘘で、全て無駄でしかなかったのだ。
涙が次から次へと溢れて、嗚咽が止まらなかった。
身体中の水分が枯れ果てるまで泣いて、いっそ死んでしまいたかった。
「ソニア様!」
唐突に聞こえた声にびくりと肩が跳ねる。
涙でびしょびしょの顔を上げ、声のした方を見ると、一人の青年が駆け寄ってくるところだった。
泣き顔を見られたくなくてとっさに俯く。
彼は構わずにソニアに近付いて、汚れるのも構わず躊躇なく地面に跪いた。
「申し訳っ、ありません。主人が、大変失礼な、っことを、」
息を切らせて言う言葉にそっと顔を上げる。
顔からは汗が噴き出していて、自分を探し回っていたのだとすぐに分かった。
よく見ればその青年は待合室でダミアンの側に控えていた従者で、主人とはダミアンのことを言っているのだと理解してまた胸が痛んだ。
「これを」
自分の汗も気にせず、ポケットから取り出したハンカチをソニアに差し出す。
「安物ですがご容赦を」
彼の出現で涙は止まったが、確かに人に見せられる顔ではなかったのでありがたく受け取る。
「……ありがとうございます」
涙を拭ってなんとか礼を言うと、彼は痛ましそうな表情のまま首を振った。
「本当に、なんとお詫びすればよろしいのか……」
「貴方は悪くないわ」
自分がダミアンに愛されていなかっただけ。
それを従者に謝罪されたって虚しいだけだ。
例え本人に謝られたところで、もう許す許さないの問題ではなかった。
あんなに心を尽くして手紙のやり取りをしてきたのはなんだったのだろう。
この十年間の幸せな時間は幻だったのか。
「気に、なさらないで……っ、」
言葉に詰まって再び涙が溢れてくる。
悲しくて悲しくてたまらない。
なかなか涙は止まらず、動けないままでいるソニアに従者の青年は何も言わず、ただ静かにそこにいてくれた。
風もない穏やかな日だった。
鳥のさえずりが時折聞こえる以外、ソニアの嗚咽と鼻をすする音だけが響いた。
* * *
「……あの、もう戻ってくださって結構ですので」
ようやく涙が止まって、なんとかそれだけ言う。
ひどい顔をしているはずだ。自分はまだ戻れないが、彼はもう戻った方がいい。こんなに長く主人の側を離れていては、きっと叱られてしまうだろう。
ダミアンの不機嫌な顔を想像して、また悲しい気持ちがドッと押し寄せる。
「放っておくなどできません」
涙が溢れそうになるのを堪えると、従者の人の方がつらそうな顔でそう言った。
なんて優しい方なのだろう。
主人に袖にされた女など放っておけばいいのに。
わざわざ逃げ出した自分のことを、追いかけて探しに来てくれたなんて。
ふと、既視感に襲われる。
淡い金髪に優しい目許。
記憶のどこかが刺激されて、初めて青年の顔をじっくりと見た。
「……昔、どこかでお会いしたことがあったかしら」
不思議に思いながら問うと、彼が懐かしむような目をして頷いた。
「ええ、ダミアン様と幼い頃に一度」
それを聞いて思い出す。
ダミアンに会ったのは一度きり。
ソニアの六歳の誕生日に、貴族の子女とその従者たちと遊んだ。
その中に、確かに彼がいた。
ソニアはその時、ダミアンたち男の子が走り回るのに必死についていった。
もちろん年上の男の子たちに追いつけるはずもなく、転んで足を擦り剥いて大泣きをした時だった。
振り返ることもしなかったダミアンに、影のように付き従っていた少年がソニアに気付いて足を止めてくれた。
わざわざ戻ってきてくれたその少年は、「大丈夫ですか」と優しい口調で言って、ソニアを抱き起してくれたのだ。
冷え切っていた胸が、じわじわと熱を持ち始める。
ダミアンに感じていた違和感。
手紙の印象と重ならない冷たい声と視線。
対するこの青年はどうだ。
優しい口調。
温かい気遣いと、柔らかな雰囲気。
それは彼女が今まで夢見ていた婚約者の姿ではなかったか。
目の前の青年の言動は、見た目は全然違えどソニアが長年思い描いていた手紙の婚約者そのものだ。
「もしかして、手紙をくださったのはあなた……?」
まさかと思いながら口にする。
突飛なことを言っているだろうか。
だけど確信に近い思いがあった。
青年は苦し気に眉根を寄せ、深く深く頭を下げた。
「……申し訳ございません。出過ぎた真似をいたしました。旦那様の命で代筆を」
悔やむような口調だ。
良心の呵責や罪悪感の籠った、痛ましい声だ。
けれどそれは、確かに肯定の言葉だった。
「ダミアン様はソニア様からの最初のお手紙の返信をしようとしなかったのです。けれどそれを知った旦那様が、侯爵家と繋ぎを作っておけと」
下種な考えだ。
けれどそういった野心家が溢れているのをソニアも知っている。
格上の貴族と繋がりを持っておくのは大切なこと。
解ってはいたが、自分がその標的にされるとは思ってもみなかった。
「それでもダミアン様は返事を書こうとしなかったので、私がダミアン様としてお返事を出すことを命じられたのです」
手紙は相手の顔が見えない。
偽ることは簡単だっただろう。
世間擦れしていない貴族の小娘を騙して、うっかり惚れさせることが出来れば侯爵家との深い繋がりが出来るのだ。子供同士のすることだから、失敗してもダメージはない。
それならやらない手はない。
野心家にとって、こんなチャンスをみすみす逃すわけにはいかなかったのだろう。
「そうだったの……」
「以来、私が文通のお相手を」
つまり最初からソニアの想いは無下にされていたのだ。
そう思うとこれだけ悲しんでいるのが急に馬鹿らしくなってきてしまった。
はぁ、と短くため息をつくと、暗く淀んだ気持ちが少しだけ外に出ていったような気がした。
青年はつらそうに顔を歪めながら、ソニアの言葉を待っている。
おそらく、どんなに責められても甘んじて受け入れる覚悟でいるのだろう。
雇い主が無茶なことを言ったせいで、ずっとソニアを騙し続けることに後ろめたさがあったはずだ。
けれどソニアに彼を責めるつもりなど一切なかった。
従者が主の命令に逆らえないことなんて解りきっていたから。
「……ねぇ、お名前を教えてくださる?」
「……フランツと申します」
「フランツ……」
教えられたばかりの名前を口にすると、またじわりと胸が熱くなった。
「あのね、あなたがお相手をしてくれて良かったのかも」
「え?」
「だってずっと楽しかったもの。ずっと幸せだったもの」
そう言って、せっかく止まった涙がまたこぼれ始める。
たぶん、ダミアンが実際に手紙を書いて寄越したのだとしたら、あの横暴な男からの手紙に恋をしたとは思えない。きっと数回で文通をやめていた。
フランツだったから十年も続いた。
フランツだったから手紙のやりとりだけで恋をした。
文通の相手は別人だったけれど、幸せだった時間は嘘ではないのだ。
「……私も、ずっと幸せでした」
フランツが苦しそうに眉根を寄せながら、ぽつりと呟く。
「ソニア様との手紙のやりとりは胸が温かくなるものでした。深く感じていた罪悪感も、あなたとのやりとりが楽しくて、いつしか見ないふりをするようになってしまったのです。主人の代わりだということを忘れて、いつの間にか私自身として返事をするようになってしまっておりました」
懺悔するように言って、深く頭を下げる。
ソニアはそれを黙って聞くしか出来なかった。
「そうして身分も弁えず、あなたを愛してしまったのです」
その真摯な言葉に、ぎゅっと胸が締め付けられる。
涙はもう止まって、その代わりに頬に熱が上るのを止められなかった。
フランツは心から詫びているだけなのに、ソニアの心臓はドキドキとうるさくて、まるで手紙を読むときのような甘い痛みが全身を満たし始めていた。
「ダミアン様との婚約は本当に喜ばしく思いました。たとえ相手が私ではなくとも、想いが叶わなくとも、あなたの家臣としてお側に仕えることができると思っていました。それなのに……っ」
言葉を途切れさせて、フランツの唇が震えた。
「主人の動向も把握できず、こんな結果に……自分の欲のためにあなたを傷付ける結果になってしまいました。本当に、申し訳ありませんでした」
真っ直ぐで誠実な言葉はソニアの心に深く響いた。
やはり手紙の相手はこの人だったのだ。
フランツの口にする言葉は手紙の雰囲気そのままで、今までのやり取りを思い出しては彼の言葉として現実味を帯びていく。
彼を見ているだけで動悸が乱れる。
涙はもう止まったのに、胸が苦しくてたまらなかった。
フランツの手をそっと取って、視線を合わせるように地面に膝を突く。
「そんな、いけません、ドレスが汚れてしまいます」
「構いませんわ。……それよりもねぇ、聞いてくださる?」
「はい、なんでもおっしゃってください。どんなことをしてでも償わせていただきます」
「そう。それは良かったわ」
自然と笑顔になる。
鏡の前で練習した作り笑いではない。
心から嬉しい時の笑みだ。
「私が恋した相手は貴方なのです」
「……え?」
「だからフランツ、どうか私と結婚してくださいませんか?」
迷いはなかった。
十年間ずっと慕っていたのはこの人なのだと解ったのだから。
「……お、お戯れを」
戸惑った顔のままフランツが力なく首を振る。
触れている手が震えていた。
「私がふざけてこのようなことを言う女だとお思いですか?」
「っ、いいえ、……いいえ決してそのようなことは」
手紙のやり取りだけでも通う心がある。伝わるひととなりがある。
ソニアはずっと、彼につり合う人間になりたかった。
誠実で真摯に接してくれる彼に、ふさわしくありたくて自分もいい人間になろうと努力した。
だからこういう場面で人を傷つけるような冗談は言わない。
そのことを、ずっと手紙のやりとりをしてきた彼だけは知っていてくれるはずなのだ。
フランツはすぐに否定の言葉を言ってくれたあとで、信じられないという顔をした。
「けれど、私はただの従者で、ソニア様と釣り合う身分にありません」
「関係ないわ。私は私が愛した人と共に生きたいのです」
フランツの言葉のように、真っ直ぐに彼の心に届いてくれることを願いながら。
自分の本心を、心からの想いを、祈るように唇に乗せる。
フランツは一瞬泣きそうな顔をして、ソニアの手をぎゅっと握り返してくれた。
想いが伝わったのだと言うことはすぐにわかった。
けれどフランツの表情は晴れないままだ。
「しかし、許されることでは」
気持ちが通じ合ったからと言って、安直に頷いてくれるような人ではないことは解っている。
思慮深い人だ。
ダミアンの立場、そしてソニアの身分や周囲を取り巻く環境。騙し続けたことへの罪悪感や悔恨。その全てを一瞬のうちに頭に並べたのだろう。
フランツはあくまでも従者で、その上ソニアに大変な非礼を働いた家の者だ。
侮辱ともとれるダミアンのその行為は、一従者が詫びたくらいで済む話ではない。
どれだけフランツがソニアと一緒になりたいと手を尽くしても、叶う可能性は絶望的だ。
ならば自分が動かなければ。
「お父様」
立ち上がってフランツの後方に向けて呼びかける。
その言葉にフランツが慌てて立ち上がり振り返った。
「これは一体どういうことだ……」
そこにはソニアの父親が、戸惑いも露わに呆然と立ち尽くしていた。
フランツにプロポーズをした時点で、父はその場に姿を現していた。
ソニアは気付いていたが、今はフランツに気持ちを伝えるのが大事だと、あえて気付かないふりをしていたのだ。
「聞いての通りですわお父様。私はこの方を愛しています」
「急にそう言われてもな……名も知らぬ男相手に、おいそれと頷くわけにはいかんだろ」
「もっ、申し遅れました。フランツ・ヴェルノンと申します。ダミアン様の……従者を務めさせていただいております」
「ほう、ルクヴォワール家のな……」
渋面を作る父親に、フランツが恐縮した面持ちで腰を折る。
「娘とはどういった関係だ」
視線は鋭く、口調も不躾だ。
敵意を隠すこともせず、睨みつけるようにフランツを見ていた。
今やソニアの父親にとってルクヴォワール家は、名前を口にするのも不快な相手となっているはずだ。
それでもフランツは臆することなく父親の目を見て口を開いた。
まずダミアンの非礼を深く詫びて、それからソニアとの手紙のことを説明する。
ずっと文通の相手をしていたのは自分で、文面に嘘はないこと、ソニアの幸せを願っていることは真実だと告げた。
「……ダミアンが婚約破棄をしたのを見て、チャンスとばかりにそれをソニアにバラしたのか」
「いいえ決してそのようなことは、」
「違いますわ」
斜に構えた見方をする父をきっぱりと否定する。
さっきあんなことがあったばかりだ、娘のために慎重になる気持ちはわかる。
だけどフランツを傷つけるようなことはしてほしくなかった。
「フランツは何も言いませんでした。ただ私を心配して、ダミアンの非を謝罪して、涙を止めてくれようとしただけ」
フランツは自分の存在を仄めかすようなことは一切言わなかった。
明かすつもりなどなかったのだろう。
「私が自分で気付いたのです。心から私を気遣ってくれる姿を見て、彼が本当の手紙の相手だと」
事実を口にすれば、父の眉間のシワが少し薄くなった。
「本当にそこの男だという証拠は」
「お気付きになりませんか。彼の誠実な言葉がお父様には響きませんか。彼が一度でも言い訳を口にしましたか。一度でも保身に走りましたか。お父様ほどの方が見抜けないとは思えません」
「ソニア様……」
ソニアが父を説得しようと必死で言い募ると、フランツがソニアを見て涙を堪えるような表情をした。
「フランツ、貴方は何も悪くありません。胸を張っていてください」
「……ありがとうございます。……フォルナーラ卿」
フランツが表情を引き締めて、ソニアの父親に改めて向き合う。
「結婚を認めていただくのは難しいと理解しております。ですが、私がソニア様を心から愛していることだけは真実です」
きっぱりとした口調に、ソニアの胸が熱くなる。
父の眉間のシワがさらに薄くなった。
彼が本音で話していることを理解してくれたのだろう。
人を見る目のある人だ。ダミアンとの婚約を許してくれたのも、ソニアが散々手紙の内容を話しているうちに、彼の人柄を認めたからこそだ。
元々身分など気にせず結婚相手を選べと言ってくれていた。
その手紙の相手がダミアンではなくフランツだったのだとなれば、強硬に否定し続ける理由はなくなるはずだ。
「……主人の命で、心を偽り娘の恋心を弄んだわけではないのだな」
「それだけは誓って。手紙で語ることは、いつでも私の本心でした」
真剣な面持ちで父と真っ向から向き合うフランツの横顔はきりりと勇ましく、ソニアは頬を赤く染めた。
それを見て父はとうとう眉間から力を抜いた。
「ふむ……まぁ今すぐ頷くことは出来ないが、とりあえずもう少し詳しく話を聞こう」
ため息交じりにそう言って、あっさりと来た道を戻っていく。
ソニアとフランツは無言で顔を見合わせて、どちらからともなく笑みを浮かべた。
自然と手を取り合って、父のあとを追って歩き出す。
ここへ来た時の死にたくなるほど悲しい気持ちはとっくにどこかへ吹き飛んで、ソニアは晴れやかな気持ちでパーティ会場へと戻ったのだった。
* * *
会場へ戻ると、人の数はまばらだった。
おそらく母や兄姉がお開きの合図をしたのだろう。
それでも残っている一割ほどの人間の顔を見れば、物見高い噂好きと評される人ばかりだった。
「おうなんだ、まだいたのかお前たち」
人が少なくなった会場で、ルクヴォワール家の当主を見つけて父が鬱陶しそうに言う。
伯爵家当主は顔中に脂汗を浮かべて、父にぺこぺこと頭を下げた。
「いやはや本当に申し訳ございませんでした。息子の躾がなっておりませんでお恥ずかしい。いやいや妻にはよく言って聞かせておきます。もちろん息子にも。いやははは。すでに息子には私から躾を施しておりますので。ほれあの通りに」
言って指さした先に、原型を留めないほどに顔を腫れ上がらせた男が座っていた。
「きゃあっ!」
「ソニア様こちらへ」
あまりにもグロテスクな様相に思わず顔を背けると、フランツが視界を遮るようにソニアの前に身体を滑り込ませてくれた。
「……娘に不快なものを見せるな。さっさとその汚物を連れて帰るがいい」
「これはとんだ失礼を……おい! ダミアンを連れていけ!」
当主が家臣に怒鳴りつけると、両脇を抱えられてダミアンは会場を出ていった。
「それであの、婚約の件なのですが」
「聞こえなかったか。帰れと言ったのだ」
「ひっ」
容赦のない父の低い声に、ルクヴォワール家当主が怯えたように肩を縮こまらせた。
「申し訳ありません! あの、この落とし前は必ずつけさせていただきますので! もちろん息子を説得して必ず婚約をするようにと言い聞かせますので!」
必死に頭を下げる男に、父が白けた目を向けた。
「娘を蔑ろにする夫などいらん」
「そんな!」
冷淡な声で言い捨てる。
家族や仲間として認めた相手には優しいが、一度切り捨てた人間にはとことん非情になれる父だ。二度とルクヴォワール家の人間はこの家の敷居を跨げる日は来ないだろう。
「慰謝料もいらんし謝罪ももう結構だ。その代わりこの従者をもらう」
「は?」
「二度と顔を見せるな、貴様の家とはこれまでだ」
「そんな! それは困ります!」
父が告げた瞬間、心得たようにフォルナーラ家の家臣たちが鮮やかな手並みで無理に留まろうとするルクヴォワール家当主を摘み出してしまった。
「お前たちももう帰れ。楽しいことはもう起こらん。今日は終いだ」
残った貴族たちを一睨みすると、彼らも慌てて帰り支度をして出ていった。
「お父様、よろしかったのですか……?」
「当然だろう。ソニアを傷つけた阿呆どもをいつまでも留まらせておけるか」
言いながら姉と兄が近付いてくる。
姉はソニアの頭をそっと撫で、気の毒そうな顔で抱きしめてくれた。
兄は怒った様子で、ダミアンへの罵詈雑言を並べ立てている。
「で、その従者はなんなのです?」
美しい笑みを浮かべたまま、一人冷静な母が父に問う。
「ううむ、どこから話そうか……ひとまずせっかく料理人達に作ってもらった料理がもったいない。おまえたち、別の場所で働いている者を全て呼んできなさい。みんなで昼食にしよう。今日の仕事はもうおしまいだ」
どこか上機嫌に父が言う。
家臣たちがワッと歓び、パーティー会場を出ていく。
父の言葉通り、同僚たちを呼び戻しに行くのだろう。
「食事のあとで家族会議だ。フランツと言ったか。もちろんお前も参加するように」
「はっ、はい!」
シャキっと背筋を伸ばして返事をするフランツに、兄たちが怪訝な顔を向ける。
母だけが動じずに、全てを見透かしたような顔でフランツに「娘をよろしくね」と微笑んだのだった。
* * *
暖かい日差しを感じてゆっくりと目を開ける。
カーテンの隙間から差し込んだ光は柔らかく、今日も素敵な一日になりそうな予感がした。
身体を起こすと、隣で眠る夫がむずかるように眉根を寄せてから、重そうに瞼を持ち上げた。
「おはようフランツ」
「……おはようソニア。今日も綺麗だ」
「ふふ、ありがとう。眠そうなあなたも素敵よ」
結婚してから一年が経つというのに、フランツは変わらずに心からの賛辞をソニアに送る。
そのたびソニアは幸せを感じるのだった。
四年前のあの日、急遽開かれた家族会議でフランツはすんなりと受け入れられた。
彼の誠実さは、わざわざソニアが言葉を尽くして説明するまでもなくすぐに伝わったのだ。
三年間は家臣として働いて様子を見ること。
ソニアを一生大事にすること。
フォルナーラ家のために生涯尽くすこと。
ほかにも細かい取り決めはあったが、おおむねはこの条件で婿入りが許可された。
けれどそんな条件をつけなくともフランツはそうしてくれただろう。
以来フランツは誓約通りにフォルナーラ家のために身を粉にして尽くし、その間ソニアと距離を詰めるようなこともせず真面目に働いた。
父や姉は真面目なフランツにすぐに絆され、一年が経つ辺りでそろそろいいのではと提案してくれたが、フランツ自身が「約束ですから」と断って、ソニアもそれに同意した。
そうして三年が経って、家族からも家臣たちからも祝福されてフランツはソニアの婿としてフォルナーラ家に名を連ねることとなった。
それからのフランツはますますよく働き、ソニアを全身全霊で愛し、大切にした。
元婚約者であるダミアンは、宣言通りに格上のノヴァク侯爵家令嬢と結婚したらしい。
婚約破棄騒動があったすぐあとで、父がノヴァク家にダミアンのことを忠告しに行ったが、ノヴァク家当主には「素行の悪い不良娘がようやく片付くのだから放っておいてくれ」と豪快に笑い飛ばされたと言っていた。
むしろあのバカ娘には良い薬だとも言って、そのまま初対面の父に酒を勧めて二人はすっかり仲良しになって帰ってきた。
新たな繋がりが出来たと言って父が上機嫌で帰ってきたのを覚えている。
ノヴァク家令嬢は浪費癖も男遊びも激しく、ルクヴォワール家は相当に手を焼いているようだ。
また、ダミアンのあまりの無能ぶりに、ルクヴォワール家は没落の一途を辿っているらしい。
有能だという噂はなんだったのかと呆れるソニアに、フランツがこっそり秘密を打ち明けてくれた。
要はソニアとの文通同様、これまでダミアンに割り当てられていた仕事をフランツが代行していただけのことだった。
ダミアンはそのことを父親にも言わず、すべて自分の手柄として喧伝していたのだ。
おかげでフランツは実務能力が驚くほど高く、家臣として働いてフォルナーラ家の即戦力となり父と兄をよく助け、率先して働くことで父にも兄にもとても気に入られている。
今では私と同じくらい、家族として大事にされていた。
「今日は義父上に休みをいただいた。ソニアを楽しませるようにと重大な使命を仰せつかっている」
冗談めかしながら言って、起き上がるなりソニアの肩を優しく抱き寄せキスをする。
「どこか行きたいところはあるかい」
仕事が忙しいはずなのに、いつだってソニアを優先してくれる夫を心から愛していた。
だからキスを返してソニアはこう言うのだ。
「あなたと一緒ならどこへでも」
フランツは眩しそうに目を細めて、緩くソニアを抱きしめ「幸せだ」と小さな声でつぶやいた。