第四章 リリのときめき
リリとナディンは、白い防波堤沿いを車で走らせると、
汽笛が聞こえた。
青い空と、海面に反射する光、
潮風に、髪がほつれてゆく。
頬や、腕、身体の皮膚から、潮風がしみこんできて、
最後、鼻腔から一杯吸い込むと、
身体中に新鮮な海の香りがめぐっているのを感じた。
何もかもが、新鮮で、
海の香りと風と、明るい太陽の光は
リリを今までいた世界から解き放ち、
心を夢中にさせた。
何もかも、すべてがうまくいくような、温かい幸福感。
海面に反射する光のまぶしさは、
リリの憂さとなっていた思考すべてを取り除いていった。
何度も何度も、深呼吸をして、鼻腔いっぱいに潮風を吸い込んだ。
ナディンは、運転しながら、リリの様子をみて、また自分自身も、
より、開放的になるのを感じていた。
こんな世界があるなんて。
二人は、沈黙したまま同じことを思っていた。
二人は、お腹の空き具合に、どこか食事のできるところを探すことにした。
もちろん、海に触れたり、砂浜があるところにいったら、何かお店があるのではないかと
思った。
防波堤をしばらく、進むと町の中心地なのか、ちらほらとお店が見えてきた。
そして、さらに進むと、遠くに砂浜に人がいるのが見えた。
そこらへん一帯は、開けているようで、にぎやかそうに活気がある様子がわかった。
二人はそこを目指すことにした。
潮風が導いてくれたかのように、たどりつくまで迷うことなかった。
リリは、車から飛び降りると、少女のように、砂浜へと走り出した。
ナディンは、車を降りた。
フリルのスカートからのぞくリリの白い足が白い砂浜をかけてゆくの後ろ姿を見つめた。
海は、こんなに大きかったんだっけ。
ナディンは、自分も肌足になって、砂浜へ降り立った。
リリが、遠くで呼んでいる。
太陽の光がまぶしくて、リリの顔まで見えなかったけれど、こぼれる笑顔があることがわかった。
「ナディン、早くきてよ!」
リリは、待ちきれないという子供のように、はしゃぎまわった。
これほど開放感にひたったのは、いつぶりだろうかと考えた。
リリは、裸足で、そのまま海へと入っていき、波際で光とたわむれていた。
「こんなに、素敵な場所があるなんて。本当に神様は、隠していたのね!
旅に出なかったら、一生知ることなんてなかったわ。
わたし、何もかも想像できるわ。これからは、
素敵なことしか、起こらないわ!」
リリは、少女や子供のようにキャハハと、大きな声で笑った。
ナディンは、運転の疲れからか、砂浜に腰を下ろすと、ぼんやりと海を眺めていた。
潮風が気持ちいい。
疲れた身体を、ときほぐしてくれるようだ。
リリの声も、波の音と、風にかきけされて、
静かに、まるで一人でいるような気持ちになった。
何もかもがどうでもよくなった。
今までの生活での憂さや、何もかもが、かき消されていった。
自由を感じている自分がいた。
ナディンは、日々の暮らしの中で、何かに悩んだり、思いつめることがあったわけではないと思っていたが、
海風にあたっていたら、心がどんどん洗い流されてゆき、ふいに涙がこぼれた。
自分では気づかないうちに、何かを溜め込んでいたのかもしれなかった。
その何かの正体はわからなかった。
だから、涙していることに、驚きながらも、そんな自分もまたそれでいいと思えた。
海風が、魔法しているのかもしれなかった。
リリは、濡れた足にたくさんの砂をつけて、ナディンのところへやってきた。
「あら、ナディン、あなた泣いていて?」
大きな声ではしゃぎながら、リリはあっけらかんと言った。
普段のナディンは、リリに涙などあまりみせたことがない。
(いつもリリが泣いたりするため)
ナディンは、黙ってリリを見上げると、
「きてよかったわ」
と言った。
リリは、にこにこしながら、
「当たり前よ。わたしたちは、こんなところに来てもいいのよ。
家で燻っているより、あなたは、もっと外にでなさいっていう、神様の計らいよ。
こんな気分になるなんて、夢にも想像できなかったわ!
海も、風も、潮の香りも、すべてが、想像以上だったわ!
ああ、もっと早くにくればよかったわ。
ここに住もうかしら」
そういうと、リリは、ピンクの舌をペロッと見せて、悪巧みするようなウィンクをして、
また海へとかけていった。
「本当ね」
ナディンは、つぶやいた。
わたしもここに、住んでもいい。そんな気持ちがしていた。
リリのはしゃぐ声も、周りにいた海にいる人たちに、溶け込んでいた。
誰もが、海とたわむれ、誰かは、のんびり眺めたり、誰かは、海で泳いだり、
誰もがそれぞれに、海の前で自分を開放しているようだった。
リリが、一番はしゃいでいるようにも見えた。
お腹がすいていることに気づいたナディンは、リリを呼び止めた。
「お腹すかないの~?」
リリは、振り返り、
「あと、もうちょっと~」
と言った。
遊びに夢中の子供のようだった。
仕方ないので、ナディンは、立ち上がり、車をとめた近くにある、砂浜近くの店に行くことにした。
そこは、昼からやっているバーのようだった。
木製デッキがあって、中に入るとひんやりと心地いい涼しさで、BGMが流れていた。
何もかも木製の家具で作られた店内。
人影はなく、客もまばらだった。
カウンターにいくと、壁側には、ずらりとお酒がならび、
薄明るい照明が照らしていた。
メニューを見つけると、ナディンは、ハムサンドとポーチドエッグ、
そして、ビールを頼むことにした。
呼び鈴をならすと、カウンターのおくから、男性がやってきた。
髪は少しぼさぼさで、無精ひげをのばして、tシャツの上に、無造作にシャツを羽織っている。
ナディンは、こわもてな感じがして、一瞬ためらいがでた。
しかし、男性は、
「いらっしゃい。何にしましょうか」
といって、笑いかけてくれた顔をみて、ナディンは、すぐに緊張がとれた。
「あの、ハムサンドと、ビールを」
男性は、にこっと笑い、
「はーい、ちょっと待っててね」
といって、おくの厨房らしきところに入っていった。
ナディンは、こういうタイプと話した事がなかったので、見た目じゃないなと思った。
店内を見渡すと、壁掛けや、時計、置物など、男性的で、スタイリッシュな感じがした。
いかにも、海の町にありそうな音楽とお酒と雰囲気で
壁掛け時計やインテリアは、店主の趣味を感じさせた。
しばらくすると、バタバタと玄関のほうから聞こえてきて、
「ナディン!ずるいわ。一人でいっちゃうなんて」
とリリがしかめっ面でやってきた。
手にも足にも砂がついていて、まるで子供がたくさん遊んでお母さんのもとへ帰ってきたような出で立ちだった。
ナディンは、リリの格好が店内の雰囲気とあまりに似つかわしくなかったので、思わず笑った。
「あら!どうして、笑うのよ。
ちょっと待っててっていったのに、どうしてあなたいなくなっちゃうの。
探したわ。
ここかしらって思ってはいってきたけれど、お店がそんなになくてよかったわよ」
とまくしたてた。
いつもどおりのリリだったが、落ち着いた音楽が鳴っている店内では、ずいぶんと大きな声だった。
それが聞こえたからか、おくからさっきの男性がカウンターまでやってきて、ナディンの前にビールを置いて、
それから、リリをみた。
リリは、
「まあ!なんてこと!あなたビールなんて飲むの?」
と驚いたようにいったかと思うと、
「わたしには、カクテルをちょうだいな。すごく美味しいやつ。海をみながら飲むの」
と言った。ナディンは、まさか、リリもお酒を飲むとは思わなかったので、
「あなた飲んでも大丈夫なの?」
と聞くと、
「ええ、これでも、飲めるのよ。昔よりは飲まなくなったけど」
と笑ってウィンクした。
子供を産んでからのリリは、お酒を一緒に飲むこともあまりなくなっていたので、ナディンは驚いたが、りりも楽しみたいのだなと思った。
そのやりとりをカウンターごしにみていた男性は、小さく笑っていた。
それに気づいたリリは、
「あら、なぜ笑っているのかしら」
とナディンに小声で言った。
ナディンも、その笑っている様子が、自分たちの話や出で立ちなんかを馬鹿にして笑っているというよりも、可笑しくて笑っているというような感じだったので、嫌な気分はしていなかった。
「ごめんね。話があまりに面白くて。つい笑っちゃったよ」
と笑顔をのぞかせた。
リリは、その笑顔をみて、ホッとしたようになって、はずかしそうに肩をすくめた。
男性は、リリに、
「カクテルは、好みの味はあるかな」
と聞くと、リリは、一瞬ひるんで、
「ん~。ピーチ味がいいわ!」
と言った。ナディンは、昔から、リリがカクテルを飲んだりする姿をみたことがなかったので、好みを聞かれて、あわてたリリが面白かった。
リリは、必死で、笑われないようにとしていたが、男性もお酒に詳しくない彼女を見抜いたようで、笑いをこらえながら
「オッケー。すぐ作るよ」
と言って、また中に入っていった。
リリは、一気に緊張がほぐれて、肩の力が抜けた。
ナディンは、その様子に、
「どうしたの?」
と笑いかけると、リリは、どぎまぎしながら、胸に手をあてていった。
「とても、緊張したわ。男の人と話すのは久しぶりなんですもの」
と言った。ナディンは苦笑して、デイを思い出した。
「そうよね。久しぶりよね~」
そういって、ナディンは意地悪そうに笑った。リリは、その顔をみて、
「あら、デイは、そういう意味の男の人じゃないわ」
と食って掛かった。ナディンがなだめていると、
男性が奥からカクテルとハムサンドを持ってやってきた。
二人は、外のデッキに出て、陽の光をいっぱいにあびながら、何かとてつもない大きなものに乾杯をした。
口では言い表せないほど、すばらしく、そして
ビールはよく冷えていて、格別だった。
リリはカクテルは一口のむと、
「これは、どうやって作ってるのかしら。ピーチの味はするけれど、何が入っているかわからないわ」
と頬をピンクに染めていった。
ハムサンドを食べながら二人は、海を眺め、店内から聞こえるBGMと一緒に過ごした。
リリの頼んだポーチドエッグがはこばれてくると、リリはご機嫌になり、
さっきの男性にいった。
「このカクテル。とてもすばらしいわ。波の音とあっているもの。なんだか、素敵で」
と言って、頬が染まった。
ナディンは、なんだか驚いて、その様子をみていたが、男性は、
短くお礼をいうと、その場を去っていった。
ナディンは、リリの様子がきになった。
この子どうしたのかしら。まさか。
「リリ、酔ったの?」
と聞くと、リリは、目を海にむけたまま、肩肘をついてため息をついた。
お酒は半分ほども残っている。
ナディンは、いつもの彼女の様子と違うことを感じていた。
「どうかしたの?」
そのちょっとした違いに気づけるのは、長年彼女と過ごしてきたナディンくらいのものだろう。
いつもとちょっと違うということは、リリの中には何かが起こっているのだった。
「ねえ、リリ」
と言うと、リリは、とろんとした顔で、こちらをみた。
お酒のせいで、目はとろんとしているが、意識はまだ大丈夫のようだ。
「ん~」
リリは、短く、声を出した。返事とも、投げかけとも見分けがつかない、発音だった。
ナディンは、その様子を見守ることにした。
すると、小さく、口を開き始めた。
「ナディン、わたし、この海の魔法のせいかしら。
胸がドキドキいっているの」
いつも自分の前では饒舌なリリが、うまく言葉を話せない。
「あなた、まさか」
そうナディンがいうと、リリは、くりんとした目を少女のようにしばたかせて、こちらをみた。
遠い昔にみていらい、ひさしぶりにみる、リリの表情だった。
「胸が、ときめいているの」
そういって、リリは、胸に手を当てた。
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