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痕跡  作者: 三矢 由巳
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一 再就職

 再就職が決まった。

 五十歳を前に、勤め先の会社が業務を縮小、俺のいた部署は廃止されることになり、遠方の支店への異動を打診された。

 だが、長男が高校に入学したばかりで、息子一人をこの町に置いたまま遠方に行くわけにはいかない。五年前に別れた妻は、不倫相手だった男と結婚し、隣の県で暮らしている。そこに息子を預けるのは憚られた。

 俺は早期退職なら少しばかり上乗せされた退職金を支給されるということなので、二十八年間勤めた会社を退職した。

 だが、退職金なんてすぐになくなってしまうから、翌日からハローワークに通って仕事の口を探した。失業給付を受けて父親がぶらぶらしている姿など子どもに見せたくはなかった。

 やはりというか、当然というか、五十を前にすると、以前勤めていた会社で支給されたような給与の出る仕事はない。年齢でお断りという仕事も多い。

 おまけに、俺は英会話ができない。会社には英検やTOなんとかとかいう資格を持っている若い社員がいた。俺のように退職しても彼らは皆すぐに他の会社への就職が決まったらしい。

 少しはやっておけばよかったのだろうかと思うが、今さら遅い。

 事情を察したのか、息子は、新聞配達しようかなとある日言いだした。


「早起きするから、身体にもいいしさ。それにこづかいくらい自分で稼ぎたいんだよね」


 健気な息子だ。

 それに引き換え、俺は。

 とにかく、以前の給料や仕事の内容などにはこだわらず、やれるところへ行こうと決めた。

 だが、それほど世の中甘くない。

 書類選考の段階で落とされるのはまだいい。面接までいって、よし、これで大丈夫と思って行くと、嫌がらせのような質問をされた揚句、お断りのメールが来るのだ。

 俺は一か月足らずで、やる気をすっかりそがれていた。

 それでも、行く場所がないから、ハローワークに行くと、なぜか係の人に呼び止められた。


「よかった。あなたにちょうどいい仕事があったんですよ」


 普通の精神状態だったら、これはちょっとうますぎる話じゃないかと思っただろう。大体、係の人がこんな親切そうな顔でにこにこ笑ってるってあり得ないのだ。

 だが、その時の俺は違った。なんでもいいから仕事がしたかった。誰か、俺を求めている人間がいるのなら、たとえ、その人から靴の底を舐めろと言われても靴の底を舐めただろう。

 職員の話では、政府系の公共団体の職員の口があると言う。政府系の公共団体ということはずいぶん応募する人間も多いに違いない。駄目で元々と俺はその団体に書類を持って出かけた。






 その団体は官庁街に近い通りの十階建てのビルの八階にあった。

 受付嬢はやや(とう)が立っていたが、俺が名まえを名乗ると、会議室に行くように案内してくれた。

 美人の受付嬢しかいない会社はつぶれると書いた本があったような記憶があるが、それならこの団体は簡単にはつぶれないんだろうなと思った。

 会議室はごく普通の造りで長机と折りたたみの椅子があるだけだった。

 誰も来ないので、椅子に座って待っていると、五分もしないうちにお待たせしましたと、俺と同年配に見える男が入って来た。

 俺は立ち上がり、頭を下げた。ついでに書類も渡した。


「初めまして、鈴木と申します」

「どうぞおかけになってください」


 男はもう一つ正面にある長机にセットされた椅子に腰かけた。俺も座った。

 男は人事担当の松木と名乗った。書類をさっと見た松木氏は尋ねた。


「早速ですが、鈴木さん、この書類にあるように、自動車免許と簿記会計以外の資格、たとえば英検などはお持ちではないんですね」

「恥ずかしながら。あ、漢字の検定は二級を持ってます」

「はい、わかりました」


 やはり英語の資格が必要なのだろうか。たぶんこれは駄目だなと思った。


「息子さんはミッション系の学校に通っておいでのようですが」


 家族について調書があったので、それを見ているようだった。子どもの通う学校名を書かせるというのは珍しい話だ。


「はい」

 

 息子は俺と違ってできがよかったので、この地域では難関のミッション系の男子高校に入ったのだ。英語の授業はネイティブの神父がすべて英語で行っている。


「キリスト教を信仰しておいでですか」


 宗教を面接では普通聞かないはずなのだが。俺はなんだかおかしいとこの時思った。


「いえ。うちは仏教です」

「そうですか」


 松木氏はさらに質問を続けた。


「現在、交際している女性はおいでですか」


 いるわけない。仕事のない五十男に誰が近づいてくるものか。


「おりません」


 俺はなんだか不愉快だった。


「身長、体重は間違いないですね。伸びてはいませんね」


 俺が一番コンプレックスを持っているのは身長だ。現在ジャスト百五十センチ。年をとったらまだ小さくなるんだろうな。

 息子は別れた妻に似て百七十センチあるが、まだ伸びそうだ。


「この年だと縮むことはあっても伸びません」


 俺は自嘲気味に笑うしかなかった。


「申し訳ありませんが、シャツの袖をあげてもらえませんか。両肩」


 また妙なことを言うものだ。どうせ落ちるに決まっているから、俺は背広を脱ぎ、ワイシャツの袖を両肩まで思い切りめくり上げた。

 立ち上がった松木氏は俺の上腕をじっと見て言った。


「はい、わかりました。結構です」


 何が結構なものか。俺はどうせ駄目だろうと思い席を立とうとした。


「明日から研修しますので、九時までに受付へおいでください。保険などの手続きは、この後、係が来ますので、ここでお待ちください」

「へ?」


 研修、保険……、それって。


「あの、まさか採用」

「はい、そうですよ」


 松木氏は当然のような顔で言った。俺は立ち上がり、よろしくお願いしますと、米つきバッタのように頭を下げていた。






「乾杯!」


 その夜、俺は息子と祝杯を挙げた。俺は久しぶりのビール、息子は牛乳である。


「政府系の公共団体って、どこの関係? 文科省?」


 息子の問いに俺は答えた。


「総務省とか言ってたな。学術研究に関する団体だ」

「そういうのって文科省じゃないの」

「文科省だけに限定した研究じゃないらしい。縦割りではなくて、全省庁を横断したものだっていう話だ」


 あの面接の後、やってきた総務係の職員の話では、そういうことだった。


「へえ、面白そう」


 その後、息子が学校の話を始めた。一学期の今から二学期の体育祭の準備が始まって、応援の練習が大変だとか、ごく普通の高校生活の話だった。そういえば、俺の高校時代も体育大会は盛り上がったものだ。

 俺はその夜、久しぶりに熟睡した。

 退職してから一か月余り、俺はやっと安住の地を得たような気がしていた。






 翌日から俺一人の研修が始まった。

 研修係の山根という六十前の男が担当だった。一か月の期間で、その間も給与が支給されるということだった。

 初日は健康診断だった。俺だけでなく両親の病歴を書類に書いた後、隣のビルにあるクリニックで血液検査や尿検査、X線撮影等を行った。

 午後、山根氏に昨日の会議室に呼ばれ、検診の結果に異常はないことを伝えられた。


「それで、実はあなたの仕事なのですが、まだ具体的なことは話しておりませんでしたね」

「はい。学術研究の関係だと伺いましたが」

「これから話すことは、ご家族にも秘密にしていただけますか」


 突然の機密事項の確認だった。今はどこも情報流出にはうるさいから、当然のことかもしれなかった。


「はい。社外秘ということですね」

「ええ。というか、当協会内でもごく一部にしか知られていないことですので。私や人事の松木さん以外にも話さないで欲しいんです」

「わかりました」

 山根氏は語り始めた。





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