よし子さん
『よし子』って何故か手帳に書いていたので、それで考えました。
私が子供の頃の話。
私はテレビですごい怖い話を見た記憶がある。
学校の怪談とかそういう類の奴だったと思う。あるいは本当に合った怖い話とかそういうの。あなたの知らない世界でもいい。それ自体は別に何でもいい。
で、
私自身ゆとりの世代なので、あんまりこういう事を言いたくは無いのだけど、でも今と違って私が子供の頃のそういう番組って言うのはすごい怖かったような気がする。世にも奇妙な物語だって昔のほうが怖かったような気がする。
でも、それがはたして正しいのかどうかは今の私にはわからない。だってそれは私が大人になっただけかもしれないし、私がひねくれただけかもしれないし、私の感受性が無くなっただけかもしれないし、私の想像力が無くなっただけかもしれないのだから。
そもそも今まで、
「これだからゆとりは・・・」
そう言われてため息をつかれた時、私はこの様に考えてストレスを回避していたのだから。
「私が悪いのではなくお前が悪いのだ」
そういう風に。
だから今更、その考え方を曲げたりしたら、今まで回避していたストレスが私の元に戻ってくるだろうということは想像にたやすい。
そうなったら大変じゃないか?
だって私には許すっていう機能がついていない。っていうか逆に人間のどれに許すなんて機能がついているのだろう?誰しも一生涯、誰か自分じゃない他人を、何か自分じゃないものを許すなんて本当は無理だ?それは許すではなく、諦めるということだ。
だから、あの大きな大きなドコモクラウド50GBよりももっともっと大きなあのストレスが、私の元に戻ってきたら大変なことになるのは必至。
あれが私に戻ってきたら、
私はその次の日、私の職場を血の海にしないといけなくなるではないか?
そしたら警察に捕まって一審で死刑確定になるではないか?
そしたらもう上告は受け入れてもらえなくなるではないか?
あとは死刑を待つ囚人となるではないか?
んで理由は『死刑になりたかった』とか言うひどい頭の悪い奴と同じになってしまうではないか?
困る。
それは困る。
すこぶる困る。
だって私は死ぬまでに一度は海外に行きたいし、スキューバダイビングだって一回くらいしてみたいし、死ぬほどグミを食べたいし、豆腐だって食べたいし、それにどうせ死ぬならコルベ神父みたいな感じで死にたいのだ私は。最近、長崎に三体目の像が作られたという。なので私はその日カラオケで「長崎は今日も雨だった」を歌った。万言にも及ぶであろう祝いの気持ちを込めて。
というわけで死んだりとか、そうなると困るのだ。特に自由が無くなるというのは困る。たとえそれが足の小指の先ほどの自由であったとしてもだ。私はそれのために生きているのだから。
なので私は自分が衰えているということで納得している。
老いさらばえていくというのはいかんとも難しい。
最近そんな話をたまたま新聞で読んだ。
本当だ。
私は今それを実感している。
本当に難しい。
少なくとも50000ピースのパズルよりは難しいと思う。あと癌にならないことよりもはるかに難しいと思う。そして癌の根治よりは簡単かもしれない、あるいはどっこいどっこいかもしれない。
そういう意味で言えば、人生って言うのは最後まで捨てるところが無い。
私はそう思う。
面白い面白くないは別にして。
あとそういうのって大体自分のせいだと思うし。
アフタースクールで大泉さんがそういっていたし。
だから間違いないと思う。
んで、
そろそろ怖い話に戻る。
私が子供の頃に見て以来、未だに怖いのは「放課後の魔術師」と「女優霊」と「リング」と「呪怨」と世にもの雪山のやつだ。あとナウシカのあのシーンのあの音楽も怖かったな。
でも今ではこれらはすべて私の中で私の作った制限フィルターがかかっている。
例えば放課後の魔術師は実家に帰るたびに五巻を読んでがんばっているし、女優霊は毎回ツタヤでジャケットをみてがんばっている。リングとか呪怨とかは新しいのが出るから、その度に私からはあの頃の記憶は薄れていく。世にもは雪山以外の話を思い出せば大丈夫だ。ナウシカの音楽だってビレバンで買った大判のあの漫画を見たら収まるし。
そんなわけで私の中の怖いものっていうのも、あの頃ほどは怖いと思わない。
もちろん怖いのは変わらず怖い。今でも出来れば見たくない。
ただ思い出してもあまり震えなくなったという話だ。
これが成長だというのか、それともつまらなくなったというのかは私自身にはよくわからない。
ただ、そういうタグのついたものの中で未だにフィルターもかけられないし、削除も出来ないし、選択することすら出来ないものが私の中にある。
それが、
私が子供の頃テレビで見た、
「見たら消える花子さん」の話だ。
それに関するすべてのことが今の私にはうまく思い出すことが出来ない。いつ見たのか?誰が出ていたのか?誰と見たのか?一人で見たのか?製作はどこか?監督は誰か?なぜ見たら消えるのか?どうしてそんなことになってしまったのか?
私にはそれに関する何一つ思い出すことが出来ない。
インターネットを使ってそれのことを調べる気も起きない。
だってもしも私の中の某かの扉を開いてしまったらどうする?
幼少の頃、父はよく「寝た子を起こすな」といって母を叱っていた。
私もその考え方には大いに賛成だ。
寝た子は起こしてはいけない。せっかく寝ているのにだ。だいたいどんな子かもわからないじゃないか?もしも起こしてチャッキーとかエクソシストとかキャリーみたいのだったらどうするつもりだ?責任取れないっちゅーの。
ただ、
とにかく、
それは、
未だに、
私の中で、
明確な、
恐怖、
として、
残っている。
それが、
何故かも、
わからないまま。
だから私の中のその記憶には未だにフィルターがかかっていない。でもフィルターの代わりに私は毎回、母のことを思い出す。
「よし子、大丈夫、怖くないわ。怖くない怖くない怖くない・・・」
記憶の中で、そう言って母はいつも私の頭をなでるのだ。
それはフィルターではなくもっと厳重なロック。
私はそう思う。
でも、その記憶の中の母はいつも優しい。私はそれに毎回安心してしまう。そして安心して眠りにつく。怖い夢も見ない。かといって、らんらんらららんらんらんみたいな夢も見ない。
そして、
そのロックは私にとって一生続くものだと私は思っていた。
しかし、
昨日、
それは破れた。
「よし子先生、僕らが子供の頃にTVでやってた『学校の怪談』って怖くなかったですか?」
宴席で私にそう話しかけてきたのは、同じ学校の同僚の教師だった。
「特に、僕は『花子さん』が怖かったんですよね」
「・・・それ、どんな話ですか?」
「赤い服でね、見たら消えちゃうんですよ」
「・・・消えちゃうんですか?」
「ええ、赤い服の花子さんの顔を見た次のカットではもうその人は消えてしまっているんです」
「・・・じゃあ見なきゃいいのに・・・」
「そう思うでしょう?でもその花子さんは相手の無理やり目を開かせるんですよ」
「・・・無理やり?・・・超能力か何かでですか?」
「いえ指です」
「・・・指?」
「ええ、
指で無理やりまぶたを開くんです。
確か、そういう話でした」
「・・・」
「僕は、その話の最後の花子さんの後姿と両腕の感じと髪の感じが未だに忘れられないんですよね」
「そう・・・ですか・・・」
その瞬間、私の母のロックは粉々に砕け散った。同時に記憶が一斉に甦った。そしてどうして私がその記憶を思い出すことが出来なかったのかわかった。
私も一緒だからだ。
私には母が死んだ記憶が無い。
それに父が死んだ記憶が無い。
どうしてかわかった。
私が消したのだ。
「・・・よし子先生、だいじょ
同僚の教師が消えた。
私が少し『よしよし』しただけで。
「・・・思い出させてくれてありがとう」
私は誰もいない空間にそうつぶやいた。
自分のよし子の名前の意味がわかった。
自分のやるべきこともわかった。
とにかく、まずは前からイライラしていた私の担当クラスのあいつら全員を消そう。
その後はクラウド上に預けていた奴も全員消そう。
私のことをゆとりだと馬鹿にした奴らは残らず消そう。
私がそう考えると、私の想像の中でやさしい母の記憶が甦った。
けど私は、すぐにそれを消した。
私の記憶の中で母は何かを言っていたみたいだったけど、
でも母はTVの電源を切ったみたいに消えて、
そして、
二度と現れなかった。
調べたら、黒澤清監督でした。なので室外機の話に続いてということになります。