村上春樹作 短篇『蛍』を読む 後篇
6 『ノルウェイの森』と『蛍』雑感
長編小説『ノルウェイの森』と『蛍』の関係を説明します。前回も書きましたが、この『蛍』が一九八七年に発表される長編小説の『ノルウェイの森』の二章と三章と内容がだいたい同じであるという事です。『ノルウェイの森』は永沢さんの登場や様々な加筆がありますが、それらを除けばほとんど同じです。
これは簡単な事で、この『蛍』が元になって『ノルウェイの森』が書かれたということです。作者の村上春樹は別の本の中でこのことを言っています。また、他にも『ねじまき鳥クロニクル』は『ねじまき鳥と火曜日の女たち』から生まれたものであり、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』は『街と、その不確かな壁』を下敷きに書かれたものだと述べられています。この本の中で村上春樹は短篇小説を一つの可能性を試す実験場と捉えていることが書かれており、村上春樹の創作の一つの手法なのだということを彼自身が述べています。
興味深いのでもう少し書いておきましょう。『ねじまき鳥クロニクル』は『ねじまき鳥と火曜日の女たち』から書かれましたが、これは村上春樹が言われるには、「その女から電話がかかってきたとき、僕は台所に立ってスパゲティーをゆでているところだった」という一文から発想されたものであるそうです。このイメージを元に『ねじまき鳥と火曜日の女たち』が書かれ、その後、五年ばかり経過してから、この小説が短篇に収まらない大きな可能性があるのではないかと強く思うようになり、やがてこれは『ねじまき鳥クロニクル』という二千枚の長編小説になったそうです。村上春樹によれば「長編小説の始動モーターとしての役割を果たすと」のだそうです。
この部分は小説を書く人間にとって、示唆に富んでいる話だとかやまは思います。こうした手法は単に書いた原稿を無駄にしないという話しにとどまりません。それは例えばふと思いつきで書いた短篇や掌編小説がもしかしたら可能性を秘めていて、それを発展させる事で、新たな地平を目指す事が出来るかもしれないという話につながるからです。まあ、いきなり長編小説に取り組むのは難しいですからね。これは経験者が語るです。
さて、次に登場人物の整理をしておきたいと思います。『蛍』では同居人と彼、彼女、そして、僕が主な登場人物として登場しましたが、これらは『ノルウェイの森』では「同居人」は「突撃隊」、「彼女」は「直子」、「彼」は「キズキ」となっています。「僕」は「ワタナベ」になります。
『蛍』が一九六七年の春から翌年の秋にかけて寮で暮らしたのに対して、『ノルウェイの森』は一九六八年の春から七〇年の春までとなっています。それに『ノルウェイの森』での加筆は修正というよりも、別の物語にこの物語を接木するために変えたと言う感じがします。
これを書くにあたって、『ノルウェイの森』も頭から終わりまで、通してまた読んでみましたが、登場人物に名前があり、個性が与えられていることで、また物語が大きく変って見えることに不思議な感覚を持ちました。
今回、『ノルウェイの森』と『蛍』を読むことで、この二つの物語がずいぶんと死や狂気が溢れた小説である事に愕然としました。ハツミさんも緑の両親もキズキも直子も死にます。また、直子はもちろん、緑も、レイコさんも、僕ことワタナベ、永沢さんにも狂気を見出します。かやまは不思議とあの『ハムレット』に似た感覚を覚えます。『ハムレット』も登場人物のほとんどが死ぬし、狂気に彩られた物語ですものね。しかし、『ノルウェイの森』と『蛍』には、狂気や死が溢れているんだけど、性的なイメージや言動もそうですけど、様々な言葉が不思議と生きている事を肯定しているような感じもします。そして、それらによって、生が再生される。また、この物語の中ではそれらは生と死と狂気、闇なんかが、並列、もしくは混ざりあっています。
「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」ですからね。
かやまは時々、これほど、醜く、救いの無い世の中だったら、誰かを愛したり、生きていたって無意味だろうと思うことがあります。でも、緑の性的な言動、ワタナベがタクシーの車中でハツミさんの中に見た憧憬をなんかを読むと、ああ、そうなんだよなそれは違うと思い直したりする。こういうことって、たぶんとてもすぐれた物語にしかない感覚なんだとおもいます。そして、いつか自分もそんな感覚を与えるものをと思うのです。
7 『蛍』のおもしろさ
『蛍』のおもしろさについて短くですが書いておきます。まず、当たり前の事ですが、この小説が完成した当時と今では変っていることを指摘したいと思います。それは『ノルウェイの森』が発表される前、『蛍』が単独とは言い方がおかしいかもしれませんが、比較されるものではない時には、この作品自体がそのまま読まれ、解釈されたと思います。しかし、現在では、『ノルウェイの森』があり、その元として読まれてしまいます。中にはこちらを先に読む読者もおられるのかも知れませんが。多くは『ノルウェイの森』を読んでからだと思います。かくいうかやまもそういう読者です。とすると、中には『ノルウェイの森』とたいして変らない小説を読んでどこが楽しいんだ?という読者もおられる事でしょう。まあ、それはそれとしてください(笑)。
でも、かやまは『蛍』は主の二つの理由でおもしろいと感じます。一つはやはり『ノルウェイの森』との作品的な関係です。端的に、『ノルウェイの森』の本質的な部分は既に出ていますし。特に「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」という大きなモチーフが既にここで示されていて、これは『ノルウェイの森』にそのまま活かされ基調となります。ここらはとても興味深い。もう一つは、『蛍』がやはり『ノルウェイの森』の元であっても、独立した一つの作品だと感じられる点です。表現もシンプルですし、緑もレイコさんも永沢さんも出てきませんが、一つの物語として良かったなと、自分の気持ちの置き場を見出す事が出来るのです。
8 結びに
このようにしつこく、この短篇の『蛍』を読んできたわけですが、こういう読み方はもちろん他の小説でも可能ですし、自分でこの小説はとことん読んでその内容を深く理解したいと思われるのなら、ぜひ真剣に自分が大切であると思う小説を読んでいただきたいと思います。長編は部分を読んでもいいと思います。こうしたことで、得られることも多いと思います。
今回、この『蛍』を読み、その中から、村上春樹の異界性や非日常性についても掘り起こしてみたいと思いましたが、残念ながら触れずじまいになってしまいました。また、これらの重要なことはいつか書いてみたいと思います。
参考文献
村上春樹『蛍・納屋を焼く・その他の短篇』新潮社(新潮文庫)
村上春樹『ノルウェイの森 上・下巻』講談社(講談社文庫)
村上春樹『若い読者のための短篇小説案内』文芸春秋(文春文庫)




