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『セカイからもっと近くに -現実から切り離された文学の諸問題-』を読む 後篇

東さんの本今回でラストです。

 今回でラストです。長引かせるつもりはなかったんですが、だいぶ長々とやってしまいました。なので、ここからは少し駆け足でこの本を見て行くことにします。

 

 本書の二章では法月綸太郎の推理小説を題材にします。法月綸太郎もこのセカイ系の問題に対して再縫合を成功させた一人としてその小説的冒険(編集者的言葉)の道筋が説明されます。


 法月綸太郎は新本格派という流れに属する作家と言われています。かやまは推理小説をほとんど読みませんから、この方は全く知りませんでした。とても有名な方なんですね。それはさておき、東浩紀に従えば、新本格派はそれ以前の流れ、松本清張などの社会を描く作風から、社会を描かずミステリとトリックを描く事に重きを置く作風のようです。つまりセカイ系的な推理小説の一派だと言う訳です。また、この流れの先には西尾維新がいると東浩紀は指摘します。


 このような新本格派の有名作家の一人として法月綸太郎はいかにして、社会の欠落に気がついたのでしょうか?彼は後期クイーン問題と言う、まあ、一種のパラドクスみたいなものにはまります。この人はたぶんとても頭が良くて、抽象的な思考をされる方のようですね。


 簡単に言ってしまえば、新本格派の流れを追及していくと、事件をパズルのように考えるために、名探偵すら必要なくなり、推理小説の枠組み自身が脅かされるというわけです。そして、それがセカイ系と同義だというわけです。


 では、どうしたらそこから脱出できるのか、法月綸太郎は一連の自作の小説の中で、解を見出します。それは母を捨てて、他の女と付き合って他者と向き合えという話でした。それが、後期クイーン問題の外に出る方法だと、この章の結論として東浩紀は持ってきます。つまりセカイ系が社会を忌避するのは、母性に守られて、他者と向き合わず閉ざされた、想像の中に溺れているからだという論理です。これは実は本書の結論にもなります。それと、この章は少し分りにくいですね。


 三章では押井守の一連のアニメ作品を読み解きます。押井守は文芸作家ではなく、アニメ作家ですが、そこは問題にされません。ここで取りあげられるのは、ループの問題です。押井守の作品の多くは、終わりと始まりが結びついて、ループします。最近の例で言えば『魔法少女まどか@マギカ』で暁美ほむらが、時間遡行して作中の始まりに戻っていたあの仕掛けですね。ちなみにどうでもいい話ですが、時間遡行が分るとあの冒頭の主題歌が暁美ほむらの事を歌っているように聞こえるようになります。どっかで誰かが言っていたことですが、まあ、どうでもいいことです。すみません、まあ、ループはいまや古典的とも言えるかと思いますが、いつ始まったものか気になるところです。


 かやまは押井守の作品は『うる星やつら‐ビューティフルドリーマー‐』しか見たことがありませんが、彼の作品ではこのループが特色になっているようです。逆に言えば、このようなループを執拗に登場させて、それに意味を持たせようとすることは、それが押井守の主たるテーマに深く結びついてると考えた方が良さそうです。つまり、押井守はループの中に留まる人間を結論とするわけです。日常の不能性の中に徹底して留まる事が、誰かの希望でもあるわけだからという訳です。これが押井守の現実との再縫合という結論になります。


 四章では小松左京の作品群が読み解かれます。小松左京はご存知の方もおられると思いますが、日本SFの大家であり、大阪で行なわれた万博に関わりました。小松左京は単なるジャンル作家にとどまらない人です。小松左京はそろそろ学問的な机上に乗せられて、研究されるべき人だとかやまは思います。でも、東浩紀の言うとおりあまり最近では読まれていないようですね。かやまはけっこうSFが好きで、小松左京も幾つか読んでいますし、洋物のSFもぼちぼち読んでいます。このジャンルは最近は低調ですが、自分は大きな愛着を持っています。よって、小松左京はなかなかすごい作家だと思っています。


 さて、小松左京の小説はセカイ系と想像力とは遠いところにあるが、実は構造を見ていくと近いと東浩紀は指摘します。けっきょく、その作品群を読むと、そこには母性との関係、セカイ系とは煎じ詰めれば、またも、母性に囚われて大人になれない男の物語という結論が出ます。これは法月綸太郎と同じですよね。もちろん、小松左京はそこにとどまる訳ではありません。東浩紀は『マザコンが母に守られて生み出す思弁小説』といいます。まあ、そこから踏み出して、先へ行けと言う訳ですね。他者(恋人)との関係に生きろということが結論になります。東浩紀は『生殖こそが生を生み出すものであり、そして、社会を生み出すものであるならば』と言います。


 本書の内容は以上です。だいぶ駆け足でまとめましたが、当然、さっぱり分らないというご指摘が出るかもしれません。申し訳ないです。まあ、まあ、一つこの本を買って読んでみてはいかがでしょうか。難しい本でもなくけっこう面白いですよ。読めば異論も人それぞれ出てくると思いますが、読む価値はあると思いますよ。


 終わりに、この本に対して少し言っておきたい事があるので、かやまの感想を述べたいと思います。それは主に二点です。


 まず一点、東浩紀に言いたいのが「アレ?想像力の話はどこへ行ったのか?」です。セカイ系に象徴される問題は、彼の論理で一応の結論を見ましたが、この現代社会における想像力の問題は結論をみませんでした。少なくとも自分はこの本に対してこの感想を持ちました。村上春樹が述べていた(よろしければ前篇をご覧ください)想像力の問題は解決していません。「今、今だよ。今を書けない!どうすりゃいいんだ?」という想像力の話から、問題がセカイ系だけに絞られ、ちいちゃくされたとの感が自分は否めません。はっきりいってかやまは想像力の課題は別にあるように思います。


 次に二点目、東浩紀は現代社会、ポストモダンにおいて、対話の困難性について語っています。しかし、かやまは対話こそ、基本に置くべきだと思います。確かに価値観や生き方が多様化し、対話が困難な状況にあることは理解でますが、でも人間は対話しかないんじゃないでしょうか?例えば異性と関係を築くにしても、話をしなければならない。哲学の基本は対話にあると自分は考えます。かやまは東浩紀がなぜか対話、コミュニケーションの再考を中心に置かないのかとても不思議に思います。どうして、生殖の方へ行っちゃうのかねと。また、かやまは東浩紀の言う、動物化するポストモダンという説にも違和感を持っています。


 自分はこのことから、未だ対話小説に対して可能性を感じる一人です。東浩紀も尊敬しているという、ミハイル・バフチンの提唱した多声性を今一度掘り起こし、尊重するべきなのではないでしょうか。かやまは開かれた対話をもういちど取り戻す事を考えねばならないと勝手に熱く思っています。


 以上がこの本の書評となります。前半は良かったのですが、後半がどうもね・・・・・・。


 いちおうこれで終わります。感想である人から宇野常寛『ゼロ年代の想像力』早川書房を読んでみたらというありがたいご指摘があったので、このキャラクター創作の部分を中心に両者の論をつき合わせてみようかなと思っています。あわせて、宇野常寛『ゼロ年代の想像力』早川書房の短めの書評もしてみたいと思います。ただ、いつになるか分りません。


 次回は村上春樹か、夢野久作か、新井素子か、その辺を蔵書から引っ張り出して読んでみようと思っています。


 今後ともこのシリーズにご期待ください。




参考文献


東浩紀『セカイからもっと近くに -現実から切り離された文学の諸問題-』東京創元社


『セカイからもっと近くに -現実から切り離された文学の諸問題-』p155


読んでくださって、どうもありがとうございます。ながながと書いてしまいました。

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